2020年2月3日月曜日

キリスト信仰の『幸い』ストーリー (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年2月2日 顕現節第4主日

ミカ書章6-8節
コリントの信徒への第一の手紙1章18-31節
マタイによる福音書5章1-12節

説教題 「キリスト信仰の『幸い』ストーリー」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - 「幸せ」と「幸い」

本日の福音書の箇所はマタイ5章のイエス様の「山上の説教」の最初の部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(729節)。そのように聞く人に強いインパクトを与えた教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあると思います。例えば「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、深い励ましを感じさせます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると言います。第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪である、などと教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられるのではないでしょうか。

このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、励ましや慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づき、大きな権威を感じました。

 本日の箇所は、「山上の説教」の中で「幸いな人」について教えているところです。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。それでは、「幸い」はどんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来ることや欲しいものが持てることが幸せなことと考えられるでしょう。その意味で、不足がない状態を幸せと言っていいでしょう。

「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない時にも好きなことが出来ない時にも失われない幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、「幸い」とは創造主の神が「これが人間にとって幸せなのだ」と言っていることです。「幸せ」の方は人間自身が「これが自分にとって幸せだ」と言っていることです。神の目から見た幸せと人間の目から見た幸せということですが、両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。

さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、そういうやり方でいけばいいじゃないか、そういう考え方に皆さんなってきているのではないでしょうか?そうなれば、人間が生きる目的は「幸せ」の獲得だけになります。「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」を追求する時の邪魔にさえなります。そうすると、聖書やキリスト信仰というのは実は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーではないかと思えるのですが、どうでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。

2.「幸い」のケース・スタディー

話が広がりすぎました。イエス様の「幸いな人」の教えに戻りましょう。イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、つまり「幸いな」人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。それぞれについて見ていきましょう。

まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳によるドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています(後注1)。どうして日本語訳で「心の貧しい」と訳されたのかはわかりません。「心が貧しい」と言うのは、日本語の辞書を見ると「人格や器量が乏しいさま」とか「考えが狭かったり偏っていたりすること」とか、何か至らない人間を指す言葉です。

それでは「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、天地創造の神に対して至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで創造主の神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言えば、神のひとり子のイエス様が「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えているではないか!神聖な神は人間の外面的な行為のみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈する。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。

なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議な事です。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことなのでしょうか?これは後で明らかになります。

 次に「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。

次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えないか?ルターがマリアの品性について言っていることが当てはまると思います。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいという物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになるかもしれなくても、神は全てに勝る方なので心配しなくてもいいという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。

そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しいということです。神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いと言われますが、その理由は「彼らは満たされることになるからだ」と言われます。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえません。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来るでしょうか?そのことも後で見ていきます。

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになれるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸くかもしれません。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのはどうしてなのか、それも後で明らかになります。

これらの他にも、1011節で義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言われます。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神によく慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。そのことを詳しく見る前に、神の国に迎え入れられるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?これを次に見てみましょう。

3.旧約で足踏み状態だったところから足を踏み出させるイエス様

イエス様の「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。

人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っているので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、ヘブライ語の原文では「幸いなるかな」アシュレーאשריという言葉が先に来て、「~する人」という言葉が続きます。イエス様が「山上の説教」の時に話した言葉はアラム語というヘブライ語に近い言葉でした。それがギリシャ語に訳されて新約聖書に載っているわけですが、それでも文の形は同じで、「幸いなるかな」マカリオイμακαριοιという言葉が先にきて、「~する人」と続いて行きます。アラム語でも同じ形だったでしょう(後注2)。つまり、語るリズムは旧約聖書と同じです。それなのに、聞いていると、律法のことも罪の赦しも言われません。神の前に立たされたら自分は大丈夫ではないこと、大丈夫になるのは今までと違うやり方でないとダメだということ、そういうことを明らかにするような教えでした。イエス様の意図は一体なんだったのでしょう?

イエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神は預言者たちの口を通して言っていた。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?

4.「神の国」に至る道に置かれてそれを歩むキリスト信仰者

それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。もともと人間は神に創造された当初は罪を持たない、従って罪の赦しを必要としない存在として、神聖な神のみもとにいることができていました。ところが、創世記3章に記されているように、神に対して不従順になり罪を犯し、罪が人間の内に入り込んだがために人間と神との結びつきは失われて、神のもとにいられなくってしまいました。この時、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上まで運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。そうしたのは、ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたからでした。本日の旧約の日課ミカ書で、神の御前に立つことが出来るために動物の生贄を捧げることはもはや意味がないのではと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がないとしたら、人間が自分の子供か胎児を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。

この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力があったのですが、それが完全に削がれるという状況が生まれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、その状況の中に入れて罪の赦しがその人に効力を発揮し出します。その人は、復活の体と永遠の命が待っている「神の国」に通じる道に置かれます。そして、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア326-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられます。信仰者は、この罪の汚れのない衣を纏いながら、神の国に至る道を歩んでいきます。

イエス様という義と神聖さを持つ方を衣のように被せられた人は、まだ内側に罪の汚れを持ってはいても、神がその汚れなき衣に目を留めて下さるので大丈夫です。至らぬ自分なのに、ひとり子を犠牲にするくらい、私のことを思って目をかけて下さった。このことが分かった人は、神に申し訳ないという気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになるので、神がそうしなさいと言われることはそうしなくては、という心になります。そこで、神がしなさいと言われることですが、本日の旧約の日課ミカ書6章の8節によく要約されています。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

 「正義を行う」、つまり隣人が大切なもの必要なものを奪われていないかよく注意し、不正や不公平や不正義に反対する。「慈しみを愛する」、つまり私が罪を赦されたように私も隣人の罪を赦す、そのように愛する。「ヘリ下って神と共に歩む」、つまり、罪を犯さないように注意してこの世を生きる。その際、一人ぼっちではなく神と共に歩む(後注3)。

神への申し訳なさと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになった。すると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づかされます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を歩むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け、義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。

一方的な平和路線で良いという態度については、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は最後の審判で正義が実現することに全てを賭けている、だから自分では復讐はしない。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないということになります。

そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。不十分なところもあったかもしれないが、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。」

兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰の「幸い」のストーリーなのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)「霊的に貧しい」οι πτωχοι τω πνευματιは、英語NIVではthe poor in spirit、ドイツ語(ルター訳)ではdie da geistlich arm、スウェーデン語ではfattiga i anden、フィンランド語ではhengissä köyhät。ドイツ語(einheitsübersetzung)ではdie arm sind vor Gottとなっていて、神に対する至らなさがすぐ出る訳だと思います。
(後注2アラム語でも「幸いなる」はアシュレーאשריです。これに「~する人」が付け加わえられるわけですが、ヘブライ語の関係詞אשרに代わってアラム語はד'を採ったでしょう。
(後注3)。「慈しみを愛する」はヘブライ語はאהבת חסדで、直訳すると「慈しみ/憐れみの愛」、すこし細かく言うと、「慈しむ/憐れむという仕方で愛する」です。
 「ヘリ下って神と共に歩む」とうのは、הצנע לכת עמ-אלהיךのことで辞書によれば「注意深く生きること、神と共に歩むこと」です。