説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年11月24日聖霊降臨最終主日
スオミ・キリスト教会
イザヤ書52章1-6節
コリントの信徒への第一の手紙15章54-58節
ルカによる福音書21章5-19節
説教題 「最後の審判と神の正義の実現について」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.「裁きの主日」の趣旨
本日は6月9日の聖霊降臨祭から数えて第24の主日で、今年のキリスト教会のカレンダーの1年の最後の主日です。それなのでキリスト教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に贈られたクリスマスの出来事に向けられます。私たちは、2000年近い昔の遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた、あの赤ちゃんの誕生をお祝いし、私たちの救世主になる方をこのようなみすぼらしい形で贈られた神の計画に驚きつつも、そこに人知では計り知れない深い愛を覚えて感謝します。
今日の教会のカレンダーの1年最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び到来する、ただし今度はみすぼらしい姿ではなく神の栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る、そして、伝統的なキリスト教会で唱えられる使徒信条や二ケア信条にあるように「生きている人と死んだ人を裁く」ということです。まさに最後の審判のことです。裁きの結果、天の御国に迎えられる者たちは神の栄光を現わす復活の体を着せられて迎え入れられる、そういう復活が起きる時でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時にその分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつなのかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外に誰もわかりません。そのためイエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように常時、神から与えられた自分の務めをちゃんと果たしていなさいと教えられるのです(34-38節)。
このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判に今一度、心を向けて、いま自分は神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の生き方を振り返るという趣旨の日です。とは言っても、フィンランドを見ても、教会員の大半は「裁きの主日」の礼拝など行きません。礼拝が終わったことを告げる教会の鐘が鳴るや、待ってましたとばかり、町々のクリスマス・ストリートが華やかなイルミネーションを伴ってオープンします。(ヘルシンキのアレクサンテリン・カトゥ通りのクリスマス・ストリートも今日の14時オープンだそうなので、時差を入れたらあと10時間ちょっとです。)私としては、待降節まで待つのが筋ではないかなと思うのですが。そのように、趣旨が実際に活かされているとは言い難い現状があります。それでも、自分の生き方を振り返って今後の方向を考える時、聖書という権威ある書物に照らし合わせてみるのはいつの世でも意味があると思います。
2.イエス様の複雑な預言を解きほぐす
本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。本日の説教はこの預言の解き明かしを中心に進めていきますが、旧約の日課イザヤ書52章と使徒書の日課第一コリント15章も解き明かしに欠かせません。
このイエス様の預言は少々複雑です。というのも、彼の十字架と復活の出来事のすぐ後に現在のイスラエルの地域に起こる出来事を預言しているかと思えば、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事を預言することもしているという、二つの異なる預言が入り交ざっているからです。一方では、私たちから見て既に過去になった出来事が起こる前に預言されている。他方で、今の私たちから見てこれから起こる出来事の預言も入っているのです。
まず、この複雑な預言を解きほぐしていきましょう。以前にもお教えしたことなので、復習の意味で見ていきます。イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃の時にその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。
まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れて人々を誤った道に導く、しかし、彼らに惑わされてつき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。8節で言われていますが、偽救世主は「世の終わりの時が近づいた」などと言って不安を煽るのです。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こるものではあるが、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わりになるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に恐れる必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。
その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者は怯える必要はない、と言われるのです。そんなこと言われても、そういうことが起こったら、恐れたり怯えたりしないでいられるでしょうか?そうならないでいられる何か勇気のもとがあるでしょうか?それがなかったら、怯えるなと言っても空振りです。しかし、イエス様の観点は、キリスト信仰者はそういう勇気のもとがある、だから怯えるな、というものです。何がそういう勇気のもとか?それが本説教を通して明らかになると思います。
さてイエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、以上のように答えました。それなので、偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が神殿破壊の前兆のように聞こえます。他方で、12節を見ると「これらのことが起こる前に」迫害が起こると述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害は、権力者によって信仰者が連行されて自分の信仰の申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者による迫害ならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は私の救い主です」と名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている、だから髪の毛一本たりとも神の御手から洩れることはないのだということ。
神はお前たちから一寸たりとも目を離さず、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。試練の中で忍耐することを通して、天の御国の命を勝ち取ることが出来る、そう19節で言われます。忍耐するというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に留まるということです。信仰を捨てさせようとする試練の中で忍耐して信仰に留まって、天の御国に迎え入れられて永遠の命を勝ち取ることが出来る。もし、御国への迎え入れと永遠の命の勝ち取りということが本当に起こらなければ、迫害に耐える意味がなくなります。そうしたことは本当にあるのでしょうか?このことも本説教を通して明らかになります。
ここでイエス様の預言に戻りましょう。出来事の順番は、まず迫害が起こって、それから偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。本日の個所の後になりますが、20節からは質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここでよく注意しなければならないのは、迫害が起きて混乱と天変地異があって神殿破壊が起こっても、預言はこれで完結したのではないということです。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起こると言っています。つまり、イエス様の主眼は質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起こるが、その後にも起こるということです。
そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨する。
太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と結びついています。天体の大変動が起きて今ある天と地が新しい天と地にとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。さらに「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残る神の御国が現れるということが預言されています。
ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言います。「解放」とは何からの解放なのでしょうか?迫害でしょうか?戦争や自然災害や疫病や天体の大変動がもたらす恐怖や苦しみ痛みからの解放でしょうか?このことも本説教を通して明らかになると思います。
3.聖書の立場に立って世の終わりに立ち向かう
さて、イエス様の預言は当たるでしょうか?本当にこの世の終わりが来て、新しい天と地が創造されたり、最後の審判が起きたり、復活が起こるのでしょうか?
エルサレムの神殿の破壊は歴史上、実際に起こりました。その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。神殿破壊からもう1900年以上たちました。その間、戦争や大地震や偽救世主は無数にありました。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教徒迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。ご存知のように、この日本でもありました。現代世界でも国や地域によっては迫害はあります。歴史上、そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということもたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないと結論を下してもいいのでしょうか?
よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。これも以前の説教で申し上げたことですが、太陽には寿命があります。太陽には出来た時と終わる時があるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張して燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、少しでも膨張し始めたら、地球への影響は甚大です。他にもまだ解明されていない天体の変動も起きる可能性だってあります。そういうわけで、今ある天と地は永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。
それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるのか?それは、万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。
万物には造り主がいるという立場をとる聖書は、さらに一歩踏み込んで、造り主と造られた人間の関係がどうなっているかも問います。関係がうまく行っているのかいないのか、ということです。聖書は、うまく行っていないという立場です。なぜかと言うと、最初に造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪を自分の内に入り込ませてしまったからです。それで人間と神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまった。だから、人間が代々死んできたというのは、代々罪を受け継いできたからに他ならないという立場です。
本日の旧約の日課イザヤ書52章3節で「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあります。ヘブライ語原文を直訳すると、「あなたたちはタダで自分を売り飛ばした。金銭をもってしても自分を買い戻すことはできないであろう」ともっとシビアです(後注)。「自分を売り飛ばす」というのは、お金に困った人が自分を奴隷として売るということです。この個所では、人間が罪と死に売られてそれらの奴隷になったことを意味します。しかもこの場合は代金の支払いなしですから、大損もいいところです。罪と死から自分を買い戻してそれらから自由になりたいと思っても、お金で買い戻すことは出来ない。詩篇49篇9節でも「魂を買い戻す値は高く、とこしえに払い終えることはない」と言われています。人間が罪と死から買い戻されてそれらから自由になるという時、買い戻す先は神しかいません。もともと神のもとにいた自分を売り飛ばしたわけですから。人間はどうやって自分の造り主である神のもとに買い戻されることができるでしょうか?
その買い戻しを神は、ひとり子イエス様をこの世に贈って行って下さったのです。イエス様は全ての人間の罪を自分で引き受けてそれをゴルゴタの丘の十字架の上にまで背負って行き、自分があたかも全ての罪の張本人であるかのようにして神罰を受けて死なれました。このようにして私たち人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。しかも、神は一度死なれたイエス様を復活させて死を超える永遠の命を打ち立てました。死は、太刀打ちできないものを突き付けられたのです。そもそも、死の目的は、人間が造り主である神と永遠に切り離された状態にすることでした。それが、人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、罪の償いを白い衣のように頭から被せられ、神から罪を赦されたものとして見てもらえるようになった。そうなると、その人は神との結びつきが回復してしまい、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む者になります。死は、その人が永遠の命に向かうことを阻止する力がなくなったのです。そして、人間を死に追いやる役割を持っていた罪も、いくら信仰者に道を誤らせて死に追いやろうとしても、信仰者が信仰にとどまろうとする限り、追いやることができない空振り空回りの状態です。まさに、本日の使徒書の日課第一コリント15章54-55節に言われている通りです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」パウロは、罪のことを「死のとげ」と呼んでいます。
ただし、罪は空振り状態とは言っても、律法というものがあり、それが私たちの内に罪があることを暴露し続けます。56節で「罪の力は律法です」と言っているのはこのことです。信仰者といえども、外面上は言葉や行為で罪を犯さないとは言っても、内にある罪、悪い思いは律法によって暴露されます。しかし、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪の赦しはあそこに打ち立てられていると再確認できれば、自分が罪と死から解放されるために捧げられた犠牲はなんと大きいものだったか思い知らされ、とても厳粛な気持ちになります。これからは罪を犯さないようにしなければと思いを新たにします。このようにすればするほど、罪は空振りを続けるしかなくなります。罪の償いの十字架と永遠の命が打ち立てられた以上は罪と死は本当に力を失ったのです。イエス様を救い主と信じる信仰者は罪と死が力を失った状況の中に置かれているのです。
4.最後の審判と神の正義の実現
そこで、このような聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるか見てみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなると考えるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないので、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもなく、全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活も起こりません。せっかく復活しても居場所がないわけですから。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになって全部なくなってしまいます。創造主の神などいない、と言うとそうなります。
ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体(第一コリント15章35-49節)を着せられる、本日の個所によれば、その体は朽ちることもなく死ぬものでもないので、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分が、この世からの死を超えて、ずっと続いていくことがわかります。そうすると、本説教の初めで申しました、この世の終わりの前兆が起きても恐れないでいられる勇気のもとがあるかということも、有り様が変っても続いていく自分が約束されていることがそれだということになります。
他方で、有り様が変っても自分が続いていくということに関して、こういう考えをする人もいます。聖書で言うような最後の審判なんか持ち出さないで、死んだ人は全員そのまま天国に行けるという考えです。そういう人から見たら、最後の審判で誰が天国に迎え入れられ誰が入れられないかなどと言うのは、教会の言うことを聞かないと地獄に落ちるぞと脅して人を教会に縛り付けようとすることになります。確かに、全員がそのまま天国に行けるということであれば、この世でどんな生き方をしたか心配する必要もなく、自分が新しい有り様で続いていけることになります。
ここで少し考えてみましょう。そういう考えだと、正義の実現はどうなるでしょうか?聖書の立場に立つと、最後の審判で天の御国に迎え入れられるとされた人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そう聖書では約束しています(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)。この涙は、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされる。こうしたことがないと、正義の実現はこの世の段階に全て任されてしまうことになります。でも、それはとても難しいことです。日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにも起こることですが、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるということが往々にしてあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めることもあります。人間同士が行うことは、不釣り合いなことばかりなのです。
そこで、全ての人間の全てのことを知っている創造主の神が下す判断こそ釣り合いがとれた完全なものである、最後はそこに託してそれを待たなければならない、そうパウロがローマ12章でまさにこのことを教えています。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる、という教えです。神の正義実現に託してそれを待つと、こういう生き方になるのです。人間が正義を掲げて逆に不幸をもたらさないための知恵がここにあります。それは、神の審判に委ねそれを待つということが土台にあります。
最後の審判とそれに続く天の御国への迎え入れということに関して、審判も新しい世もない、全ては滅んで消えるというのは、正義の実現を全て人間同士の間で解決するように任せることになります。そこでは、神の審判などを土台に置くパウロの教えは馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。なんてお人好しなんだ、と。また、全員が天国に入れるというのも、これと同じことになると思います。神の審判がないのですから、正義の実現はこの世のことだけになります。こうして見ると、天国も何もなく全ては消滅するという立場と、全員が天国に入れるという立場は深いところでは繋がっていると言えないでしょうか?
兄弟姉妹の皆さん、本日の使徒書の第一コリント15章のところでパウロは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の朽ちない死なない体を着せられることについて述べた後、次のように結びます。そういうふうに新しい有り様に変えられるのだから、この世ではしっかりと信仰に立って揺らぐことがないようにしなさい。その場合、主の業に溢れるようになりなさい、と。日本語訳では「励みなさい」などとそつなく訳していますが、ギリシャ語原文では「主の業で溢れかえりなさい」です。主の業というのは、まさに先ほど申しました、悪に対して悪を返さず、敵が飢えていたら食べさせる等々の業です。それらは、神の審判に全てを委ねそれを待つということが土台にあってできるのです。そして、パウロの結びの言葉はこうです。それらの業は労苦を伴うが、主に結びついている者には無駄に終わることはない。どうしてそう言えるかと言うと、最後の審判で神の釣り合いの取れた完全な正義が実現するからです。キリスト信仰者だったら、ひとり子イエス様を贈って下さった神の正義ですから文句なしに受け入れます、と言います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)イザヤ書52章3節の神の言葉について、否定辞לאがבכסף(銀/金銭によって)にかかると考えると日本語訳のようになります。חגאלו(買い戻す)にかかると考えるとシビアな意味になります。
イザヤ書の本日の個所52章1~6節はとても興味深いです。イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放が人類の罪と死からの解放のプロトタイプのようになっているからです。神は将来、人間を罪と死から解放する意思を示すが、それが口先ではないとわからせるために手始めとしてイスラエルの民を捕囚から解放するというようなことです。それは、あたかも、イエス様が全身麻痺の人を前にして、最初、罪の赦しを宣言して、宗教エリートから神への冒涜だと批判された後すぐ、その人を歩けるようにしたことを想起させます。全身麻痺の人を癒せば結果が目に見えるので、イエス様には奇跡を起こす力があるとわかります。でも、あなたの罪は赦されたと言っても、目に見えた効果はないので、信じない人には口先だけにしか聞こえません。それで、罪の赦しの宣言をした後に癒しを行ったことで、イエス様の言うことは口先ではないと思い知らされます。この二つの事例の連関性を明らかにするためにイザヤ書52章4~5節の解き明かしが必要です。ここにもいろいろなことが含まれていると思います。ただ、解き明かしをそこまでやったら、説教が際限なくなってしまいます。それで今回はしないでおきました。