説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年5月26日(三位一体主日)スオミ教会
イザヤ書6章1-8節
ローマの信徒への手紙8章1-13節
ヨハネによる福音書16章12-15節
説教題 なぜ神は三位一体なのか?
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、と観念するしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。昨年の三位一体主日の時にもお見せしたものですが、昨年いらっしゃらなかった方たちのために今年も披露いたします。
(写真1)
ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられて10日たった後に起きた聖霊降臨の時からです。
さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。
(写真3)
(写真3)
さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)
ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、しっかり約束を守りました。
聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。
2.
三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「背負いきれない」、「耐えられない」(日本語訳では「理解する」ですが、ギリシャ語動詞βασταζωはこっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を罪と死の支配から解放するために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。
しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。つまり、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死んだのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということ、さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じる者はそこに至る道に置かれて、もう罪と死の支配力が及ばなくなったということ、以上のことが真理だとわかって、それを受け取ることができるようになったのです。これができるようになったのは聖霊が働いたためです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。
ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまではするのが当然だと思っていた、神を全身全霊で愛することや隣人を自分を愛するが如く愛することはだんだん自分に無関係なものになっていきます。キリスト信仰者は、このような変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のことになるようにともがき始めます。この時、神の真理にしっかりとどまれるよう私たちを応援し助けてくれるのが聖霊なのです。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊なのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の罪の力に対して戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束されたように聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。
13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもある、と言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。
3.
キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。
ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。
その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22-31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。
ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。
4.
次に、なぜ私たちの神は三つの人格を一度に兼ね備えた一人の神なのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるというのは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体な方なのです。以下、そのことを見てまいりましょう。
まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまいました。そして死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。
ここで、「神聖」という言葉について少し考えてみます。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。でも、それは少し弱い言葉だと思います。明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」という言葉の方が、「聖」より凄味と迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。
神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。
イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。
神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。確かに、洗礼式や聖餐式において、私たちは焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。
洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という純白な衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が実現している状態、神聖な神の目に適う状態です。イエス様は神の御子なので、そのような義を持っています。不従順と罪にまみれた私たち人間は義を持てません。義が持てないと神の御前に立つことも近づくこともできません。ところが、本当ならば私たちが受けるべき罪の罰をイエス様が十字架の上で代わり引き受けて下さった。そこで、イエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さる。罪を赦された者として私たちは、神の目に適うものとされる。これが、イエス様の義を純白な衣のように頭から被せられるということです。このように義は自分の力で獲得したり築き上げるものではなくて、イエス様の義を神から一方的に与えられるものです。イエス様を救い主と信じる信仰がその受け皿となります。神は、私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにもかかわらず、それでも私たちがしっかり手放さずに纏っている白い衣を見て、それで私たちのことを目に適う者と見て下さいます。洗礼には、このような途轍もない中身が含まれています。
聖餐も同じです。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る罪が、私たちの纏っている義の衣のことを忘れさせようとします。それを手放させようと誘惑します。そこで、聖餐の主の血と肉を受けることで、私たちは、自分が純白な義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣を纏う者としてふさわしく生きるための力と栄養を受け取ることができます。パウロはコリントの信徒たちに、聖餐がいかに神聖なものであるかを教え、次のように注意しました。聖餐を受ける前にまず、自己吟味をしなければならない。つまり、「私は、罪の汚れのために義の衣を纏うことが難しくなりました。纏い続けることができるように力と栄養をお与えください」と神に祈り求めて聖餐に臨まなければならないということです。しかし、もし自己吟味もせず、聖餐が神聖なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きをもたらすことになる。実際、コリントの教会の中で、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは注意を呼び掛けています(第一コリント11章26-32節)。
以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもって注意しなければなりません。しかし、今の世が終末を迎えて新しい世にとってかわる日、死者の復活が起きて、私たちが永遠の命に入る日には全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。
5.
このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間のために罪と死の支配力を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。
そこで、この三つは別々の人格ではなくて、一つの人格の神が三つの異なる事柄を行っているにすぎない、だから、あえて三つの異なる人格を出す必要はないと言ったらどうなるでしょうか?つまり、三位一体の三位を否定することです。そうなると、イエス様が地上におられた時、神全体が地上にいることになり天の御国には父なるみ神も聖霊もいなくなってしまいます。やはり三つの人格がなければなりません。
逆に、三つの人格は完全に独立してバラバラで、それ以上のものはない、と言ったらどうでしょうか?つまり、三位一体の一体を否定することです。先ほども見ましたように本日の福音書の箇所で、聖霊が告げることはイエス様が告げなさいと言ったこと、イエス様が告げなさいと言ったことは父なるみ神が告げなさいと言ったこととありましたように、三つはバラバラなものではありません。加えて、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになる、ということです。
以上のように、三位一体は理屈で考えると、どのようにして三つの人格が一人の神になるのかということばかりに目が行ってしまいます。逆に、神が三位一体であるおかげで、私たちの神がどんな方なのかがよくわかるということの方が大事です。神は本当に私たち人間を助けたく思っておられる方であり、また助けるためならどんな犠牲もいとわない、それくらい私たちのことを愛してくれている方なのです。このことがわかれば、神が三位一体であるというのは当たり前の感じになり、別に理屈で考える必要はなくなります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン