説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年5月1日復活後第五主日 スオミ教会
使徒言行録14章8-18節
ヨハネの黙示録21章22-27節
ヨハネによる福音書14章23-29節
説教題 神との平和 心の平安
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されています。もちろん、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもなく、例えば国の経済が破綻するとか、また国民の自由や権利が制限されて国家権力におびえなければならかったら、安心した暮らしなど出来ないでしょう。その場合、国の中に「平和」がないと言うこともできるかもしれませんが、どちらかと言えば「平和」は国と国との関係が安定した状態にあることと理解されるのが多いのではないかと思います。もちろん、国が複数の民族から構成されている場合、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の事柄のようになって、国内といえども「平和」がないと言うことができるでしょう。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読んだり、説教を通して聞いたりするキリスト信仰者全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが戦争に巻き込まれないで安心した暮らしができることを約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。多くのキリスト信仰者がその渦中に置かれました。それらは、今もあります。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束される「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがこのイエス様の言葉を解き明かしているところが大いに役に立ちます。それを以下に引用します。
「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和こそが真の平和である。それは、不幸がない時に心が落ち着いているというような平和ではない。そうではなくて、まさに不幸の真っ只中にあって外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いている時にこそ心を落ち着かせる平和である。
この世が与える平和と主が与える平和には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した元の害悪が消滅することを言う。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶることがつきものの平和である。そもそも、我々が常にこれらのものに取り囲まれているというのは避けられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましそして平安がある。これが主の約束される平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない状態に比べて、こっちの方が心の中に勇気と喜びの度合いが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。
我々の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性は、不幸や害悪が消えずに残っているところに平和があるなどと理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える理性は、どのようにして心を落ち着かせることが出来るかを知らない。主がなんらかの理由で外面的な悲惨をそのままにするということがある。しかし、忘れてはならない大事なことは、主はその人を必ず強めて下さるということだ。それは、臆病な心を恐れないものに、良心の咎に苛まれる心を安心に満ちた心に変えて下さるということである。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体がおびえるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず深い安心を持っているのである。」
以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中におかれても、内面的には平和があるという教えです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、原文のギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が、同じ言葉で外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係すると思われます。英語やフィンランド語やドイツ語の訳を見ますと、聖書の中でエイレーネーが外面的な平和を意味する時も内面的な平安を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha,
Frieden)で訳されています。それらの言葉も外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、訳する時に同じ言葉を使っても大丈夫なのでしょう。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?この「平和」は内面の平安を意味すると言い聞かせて読まなければなりません。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束されるものは内面的な平安を意味する言葉(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と日本語で訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)です。
2.
以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪がある状態の中にあっても、内面的には心の中に勇気と喜びが増し、深い安心を持つことが出来ることであるとわかりました。次にどうしたらこのような平安を持てるようになるのかを考えてみたいと思います。
どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えると約束されたものを受け取ればいいのです。それでは、イエス様は平安をいつ、どのようにして与えて下さったのでしょうか?
イエス様がこの約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後で受難があり、十字架の死があって死からの復活がありました。一度死なれたイエス様が神の力によって復活させられた時、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と理解されました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうなると、神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったというのは、これも旧約聖書に預言されていたことの実現、すなわち、人間の身代わりになって人間の罪の神罰を受けることで人間がそれを受けないですむようにしてあげること(イザヤ53章)だったのだとわかったのです。人間が罪の神罰を受けないですむようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。このようにして神から罪の赦しを頂けるというのは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の事件以来、崩れてしまった神との結びつきが回復するということです。神との結びつきが回復するというのは、イエス様が復活によって扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道を歩めるようになるということです。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世の人生でどんなことがあっても、神は絶えず助けと良い導きを与えて下さるということです。それだけではなく、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げて下さって、元々人間の造り主であった神のもとに永遠に戻れるようにして下さるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を犠牲に用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、途轍もない救いの業だったのです。人間と神との結びつきは、もともとは万物の創造の時にはありました。それが、人間に罪が入り込んだために失われてしまったのです。それが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を罰せずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになるのです。この平和は、神がひとり子を犠牲に用いて打ち立てました。
それで、人間は、本当にイエス様は神のひとり子、メシア救世主である、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするためだけでなく、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
3.
しかしながら、この世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。また、私たちを罪の赦しがあるところから離れさせて、再び罪が支配するところに戻させようとする力に満ちています。例えば、困難や苦難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいと思っていないのではないか、と疑うことが起きてきます。この場合、自分には何の落ち度があったのか、と神に対して非難がましくなる時もあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたのだろうと諦めの気持ちになる時もあります。いずれにしても、そのような態度を取れば、神に対して背を向け始めることになります。
私には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなるのは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにもみられました。しっかり良い人間でいたのに悪い事が起きたら、良い人間でいたことに何の意味もないではないか。そういう疑問を持つヨブに対して最後に神は、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。神は森羅万象のことを全て把握しておられる。なぜなら全ては自分の手によって造られたものだからだ。それゆえ全てのものには、神の意思が人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、良い人間でいたのに悪い事が起きても、良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
しかも神は、その人に目を注いでその境遇を知っていれば、それで十分と考えるような方ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするために、ひとり子をこの世に送って犠牲にすることも惜しみませんでした。神は、私たちがどんな境遇にいても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにあらゆる支援を惜しまないでしょう。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、結びつきの強さ弱さをはかる度合いではありません。大事なのは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは他の全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世が人間自身に落ち度があったと思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないと思わせて、神から離れさせていく場合を見てみます。これも、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを相応しい者と見て下さるということが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に追い込もうとします。ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出て「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われます(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って、聖霊は私たちに向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり立てられています」と言われます。神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは感謝に満たされて、もう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるようなものが現れても、その度、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかを思い起こせばよいのです。その時、心は一層安心と喜びに満たされて勇気も湧いてくるでしょう。まさに、揺さぶりをかけるもののおかげです。感謝してもいいくらいです。
まさにこのような時キリスト信仰者は、自分の心の中に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安なのです。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。
4.
ここで、このような平安を与えられた者が苦難や困難に遭遇した時、どんな態度をもってそれらに臨むかということについて、ルターが別のところでもう少し具体的に述べていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、フィリピ4章7節「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」です。ここでは、ギリシャ語のエイレーネーを「平和」でなく「平安」で訳します。
「この聖句をみた人は、こんな平安は誰も知ることも、確認することも出来ない、などと思ってはいけない。一度我々と神との間に平和が打ち立てられた以上、我々がこの平安を心と良心で知ることができないということはありえないのだ。できないと言ってしまったら、我々の心や思いはどのようにして、この聖句で言われるように、平安によって守られることがありえようか?この聖句は次のように理解しなければならない。心配事や試練に遭遇した時、祈ることも神のもとに避難することも知らない者たちは平安を探し求めるであろう。しかし、彼らが探し求めるものは、理性で理解できたり獲得できる類の平安である。理性が知ることができる平安とは、不幸が終わった時に生まれてくるものにすぎない。このような平安は、「あらゆる人知を超える」ものなどではなく、せいぜい人知と同レベルの平安である。
翻って、神との結びつきの中にあって常に喜びを持ち続ける人は、まさに自分が神と平和な関係にあることで十分です、それ以上何もいりませんと言える人である。そのような人は、心配事や試練の中にあっても、理性が喜ぶような平安つまり不幸が終わった時に出てくる平安を追い求めることはしない。ただ雄々しくしていられる。彼は忍耐強く信仰に立って、神から内面的な強さを備えられるのを待つ。彼にとって、不幸が短い期間のものか長くかかるかは大した問題ではない。彼はまた、全てのことがどのように終息するかということばかり気にして不安や疑いに押し潰されることもない。そうではなくて、彼は全てのことを父なるみ神の御手に委ねてしまうのである。不幸が終わるのはいつなのか、どんな仕方で終わるのか、誰か助け人を送ってもらえるのか、そうしたことを知ろうとはせず、一切を神の御手に委ねてしまうのである。まさにそれゆえに神は、彼にとって最も有益な仕方で、それでいて誰も予想も期待もできない形で不幸の終り方を準備して下さるのである。神はそのような仕方で彼に恵みを示される方なのである。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン