2015年10月26日月曜日

だめそうでも、神に祈り求めよう (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年10月25日 聖霊降臨後第22主日

エレミア書31章7-9節
ヘブライの信徒への手紙4章1-13節
マルコによる福音書10章46-52節

説教題 「だめそうでも、神に祈り求めよう」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は、ルター派のキリスト教会では宗教改革主日と定められています。ドイツのヴィッテンベルグ大学の聖書学の教授、神学博士マルティン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に有名な95箇条の論題を釘づけして、当時のカトリック教会に挑戦状をたたきつけて宗教改革の口火を切ったのは、15171031日のことでした。今度の土曜日がその記念日となります。宗教改革の歴史やルターの神学は、それ自体興味の尽きないテーマで、礼拝の説教の場を借りてお話しすることもふさわしいかもしれませんが、説教は説教。講義や講演ではありませんので、ここは本日与えられた福音書の日課の解き明しに専念したく思います。もちろん、解き明しは、いつものように宗教改革の精神に基づいて行いたく思います。つまり、人間の救いは、神の御言葉である「聖書のみ」、イエス・キリストを通して示された「神の恵みのみ」、そのイエス様を救い主と信じる「信仰のみ」、という三つの「のみ」に基づく。これが宗教改革の精神です。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中でエリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡についてです。本日の説教では、次の2つの事柄について考えてみたく思います。

 一つめは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われますが、これは一体どんな意味なのか?癒された後でそう言ったならば、信仰があったから見えるようになったと言っているのだとわかります。しかし、イエス様は癒す前にそう言ったのです。そこで、イエス様は信仰があれば病気は治ると前もって言って、それを事後的に実現して見せた、と理解することもできます。後に言うべき言葉を先に述べたというわけです。そうすると今度は、病気が治るというのは信仰があったおかげということになり、もし治らなければ信仰がないということになってしまいます。イエス様は本当にそんなことを言っているのでしょうか?

 もう一つ考えてみたく思うことは、お祈りすることにはどんな意味があるのか、ということです。イエス様は、天の父なるみ神は私たちが願う前から必要なものを全て知っている、と教えました(マタイ68節)。神は既になんでも知っているのであれば、なぜあえてお祈りする必要があるのか?本日の箇所でも、イエス様はバルティマイが見えるようになりたいと知っていて、何をしてほしいのか?などと聞くのです。神は既に知っていても、私たちはそれをあえて神に打ち明けて知らせなければならないのです。なぜでしょうか?そのことも考えてみたく思います。

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。マルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。信仰があったから治ったと言っているように聞こえます。でも、そうすると、病気が治らないのは信仰がないことになってしまいます。ルカ7章をみると、何か大きな罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行う出来事があります。その時、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は特に病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないということになります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるのがよいです。以上述べた5か所で「救った」という動詞は現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌ですが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れましょう。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題のイエス様の言葉の意味を考えてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある」ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が開かれる前に既に救われていたと言うからです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救いとは一体何なのか?それは、人間が堕罪の時に神との結びつきを失ってしまったことに対して、その結びつきを回復して神から守りと導きを受けてこの世を生きられるようすること、そして万が一この世から死んでもその時は神が御手をもって自分を御許に引き上げてくれて永遠に神のもとに迎え入れられること、これが救いです。そのような神との結びつきの回復を妨げているものとして、堕罪の時に人間の内に巣食うようになってしまった罪があります。神から送られたひとり子のイエス様は、人間の全ての罪を全部自分で請け負って、まるで自分に人間全ての罪の責任があるかのようにされて、神から来る全ての罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれたのです。そして三日後に死から復活させられて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を開かれたのでした。これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを受けられます。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復でき、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を神との結びつきの中で生きることができるようになったのです。これが救いです。 
 
この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。そういうわけで、救われるために人間がすることと言えば、全てが自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けるだけです。それで、この救いを受け取ることができます。受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために命が助けられたのだと理解しなければならないでしょう。

ところで、盲人バルティマイの場合、まだ十字架と復活の出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、何も起きなかったらただの口先にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しが与えられたことはイエス様の言葉は口先だけではないことが明らかになりました。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して、様子を窺っていた律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言って自分を神同等扱いにして神を冒涜した、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行け、と命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまった。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを現わしました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そしてまだ罪を内にもっていながらも、イエス様の十字架の贖いの業のおかげで、いつも罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。こうして神との結びつきをもって、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を生きられるようになる。これが救いで、それはイエス様を救い主と信じる信仰で持つことが出来る。ここから生まれ出る感謝の念が、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していく。罪を赦された女性はその例であると言えます。

3.祈ることの意味

 次に、お祈りすることの意味についてみてみましょう。お祈りすることにはどんな意味があるのでしょうか?特に、天の父なるみ神は祈る前から私たちの必要なものを知っている。それなら、なぜあえて祈る必要があるのでしょうか?

一つには、祈りは私たちが神を信頼していることを神に対しても自分に対しても示す最高の機会ということがあります。もし、神に祈ることもせず心の中にあるものを打ち明けもしなければ、それは相手が神では意味がない、とか、自分はこの課題を自分の力で解決する、とか、ひょっとしたら別の何ものかの力を借りて解決すると言っているのと同じです。そういう人は、神をもう信頼していません。

使徒パウロは、キリスト信仰者は聖霊の影響力により神のことを「アッバ、父よ」と言って呼ぶのだと述べています(ローマ815節、ガラテア46節)。アッバというのは、アラム語の父という単語の呼び名の形です。日本語に直せば、お父さん、お父ちゃん、パパ、というところでしょう。ルターによれば、神は自分がそのように呼ばれるのを聞くと、とても心を動かされ、そう呼んだ人の祈りを聞かないではいられなくなるということです。人間の父親だって、自分の子供が何か必要なものがあればそれを用意してあげようと思うことが出来るのだから、人間の造り主でもあり人間との絆を回復するために自分のひとり子を犠牲にするのも厭わない方であれば、なおさら必要なものを用意して下さるのではないでしょうか?

ここで一つつまずきの種になることがあります。それは、神がそれくらい祈る人を大事に考えてくれるのならば、なぜ祈ったことが起こらないということが往々にしてあるのか。また起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、どうしてそういうことが起こるのかということです。これについてルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決めるので、神が良かれと判断しなければ何も起こりません。祈り求めたことには、必ず答えが返って来る。それが、祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなので受け入れなければならない。人間の救いのためにひとり子をこの世に送り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた祈りの答えの方がよいものとして受け取らなければならないのです。

このことに関連して、特別支援の必要な子供が生まれた両親の祈りについて触れておきましょう。両親ともにキリスト信仰者で、健康な赤ちゃんが生まれますようにと祈り続けていました。ところが期待に反する結果になってしまった。子供の染色体に異常があったことが原因ですが、そのような異常は何万人のうちに一人生じる。そうするとどなたか両親がそのような子供を引き受けなければならない運命にある。よりによって自分たちにその役が回ってきてしまった。白羽か黒羽かわからないが神から弓矢を向けられて見事命中してしまった。あなたたちやりなさい、と神に選ばれてしまったわけだが、それは逆に言えば神はこの家族に目をつけたということで、その意味で当たった矢は案外白羽で、目をつけた以上、神はこの家族を見捨てないということがわかってきました。

加えて、特別支援の子供の誕生は、キリスト教信仰の中で最も大事な事柄の一つである復活ということをとても身近なものにしました。使徒パウロの教えによれば、復活の日、朽ちる体は朽ちない体に変えられ(第一コリント153555節)、イエス様によれば、復活した者は皆天使のようになります(マルコ1225節)。神は全てが可能な方なので、この世の人生の期間中に染色体異常が解消することが起きるかもしれない。しかし、それが起きなくても、復活の日が来れば神の栄光を映し出す朽ちない体を与えられて懸案はそこで最終的に解決するのです。そういうわけで、特別支援の子供の誕生は、両親にとってとても終末論的な出来事になりました。終末論的出来事というのは、そのような子供が生まれて、この世が終わったという気分になったということではありません。そうではなくて、人生とは今のこの世の期間と次の新しい世の期間の双方を合わせたものという具合に突然広がりをもったということです。

話しが少し横道にそれましたが、以上、祈るのは、私たちの神に対する信頼を神に対しても自分に対しても示すためであり、またその信頼関係を私たちの側で維持したり強めていくために必要であるということを申し上げました。

祈るもう一つの理由として、私たちが課題や心配事に押し潰されないためということもあります。そのことについて、ルターが「ペトロの第一の手紙」57節の聖句を解き明かした時によい教えを述べているので、それを見てみたいと思います。第一ペトロ57節というのは、新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」となっています。この訳は少し弱いと思います。原文のギリシャ語はもっと強く、「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。スウェーデンやフィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者は、どの聖句を用いるでしょうか?話が脇にそれましたが、この聖句についてのルターの教えを以下に引用します。

 「あなたたちは抱えている課題をただ自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、あなたたちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてはその重荷に押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せなさい。そして次のように祈りなさい。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げなさいと言ってこの課題を私に与えてくださいました。ところが、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』

 この祈りは、真に神の御心に沿う祈りである。神は、私たちにしなさいと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば、取り組みがどんな結果をもたらすかの心配については、それは神が持っていればよいのである。

このように祈れるキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は、そうでない者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は、心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は、自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰は次の聖句をしっかり握りしめている。『思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」

4.主の祈り - 祈りの中の祈り

 祈りについて、最後にもう一言付け加えておきたく思います。祈る課題の性格上、祈りづらい、祈れない、ということもあります。どうしても解決不可能にみえる課題があり、その解決を神にお願いしても、もし得られなかったらどうしよう、神に責めを着せたくないために祈れないということもあります。例えば、病気が重くなってもう医者も万事休すと言う時、まだ奇跡が起きますようにと祈ることはできます。しかし、愛する人が亡くなった時、神様どうして癒しを与えてくれなかったのですか?死んでしまったら、さすがに生き返らせて下さいとはもう祈れません。そういう時何をどう祈っていいのか?出てくる言葉はきっと、神様なぜなのですか?でしょう。

 どう祈ってよいのかわからない時、祈る言葉が見つからない時、それでも、神との信頼関係を保つために、自分が心配事に押し潰されないために祈らなければならないのならば、どう祈ればよいのでしょうか?イエス様がこう祈りなさいと教えた「主の祈り」がまさにそのためにあります。その祈りには、どんな状況に置かれていてもキリスト信仰者ならば祈らなければならないことが全て入っています。すなわち、祈る人がどんな状況に置かれていても、
父なるみ神の御名が神聖なものとして保たれますように、
神の御国が神の決められた時に到来しますように、
神の御心が御国と同じように地上でも行われますように、ということです。
これらは祈る人がどんな状況に置かれても祈らなければならない事柄です。さらに「主の祈り」には、神にお願いしなければならないことがまだあります。
日常に必要な食べ物、着る物、家族や友人がありますように、
神から罪を赦された者として隣人の自分に対する罪を赦すことができますように、
そして襲いかかる誘惑や悪から守られますように、ということです。
これらはいつどこででもどんな状況に置かれていてもお祈りしなければならないことです。私たちには、このような「祈りの中の祈り」を与えられていることを忘れないようにしましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン