説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教2015年10月18日 聖霊降臨後第21主日
アモス書5章6-15節
ヘブライの信徒への手紙3章1-6節
マルコによる福音書10章17-31節
説教題 「神にできて人間にできないこと」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
ある男の人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐためには何をすべきですか?」と聞きました。永遠の命とは、キリスト教信仰で最も大事な事柄の一つです。私たちは今のこの世の人生を生きています。キリスト教信仰では、将来いつか今のこの世が終わって新しい天と地が創造される新しい世が来る、その時既に死んで眠りについていた人たちが眠りから起こされて、ある者は新しい復活の体を与えられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられる。これが永遠の命です。ただし、別の者は、そうならないで、永遠に自分の造り主と切り離された悲惨な状態に陥ってしまいます。
そこで、復活した者たちが迎え入れられるところとはどんなところかと言うと、これは盛大な結婚式の祝宴に例えられるくらい(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)、この世の労苦が完全に労われるところです。また、「全ての涙が拭われる」と言われるくらいに(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)、この世で被った不正や悪が神の正義の尺度で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。さらに、この世で神の意思に沿うように生きよう、神の愛を周囲に伝え自らも行っていこうとしたのだが、いろいろうまくいかなかったとしても、それらは全く無駄ではなかったことが明らかになるところです。そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では、「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは、復活させられて永遠に神の国に迎え入れられるということです。
この男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって自分のところに転がり込んでくる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?
これに対してイエス様は、お前は十戒を知っているだろう、と言って、そのいくつかを述べます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。すると男の人は、先生、そうしたものは若い時から守ってきました、と答える。これで十分なのですか?他にすることはないのですか?あればおっしゃって下さい。それも守ってみせます。全ては永遠の命の権利を取得するためですから。そんな思いが男の人の答えから伺えます。ところがイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすればお前は天国において宝を持つことになる(εξεις未来形)。それから私の後に従って来なさい」と答えました。「天国において宝を持つことになる」とは、永遠の命をもって神の国で生きることを意味します。地上における宝、富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。
男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。金持ちのその人は、永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の宝を取るかの選択に追い込まれてしまい、前者のために後者を捨てることができませんでした。天国の宝などという目に見えないものよりも、やはり地上の宝という実際手にしているものの方に人間の心は向いてしまうのだ、と私たちも男の人の気持ちがわかったような気がします。実は、ここは、もっと深い意味があるので以下それを見てみましょう。
2.
この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではなかったと言えます。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるためには、何をしなければならないのか、本当に知りたい、とても真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と答えます。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというのではなく、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の告白です。イエス様もそれを理解しました。皆様のお手元の聖書には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」というのは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていた。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しで、それで同情したのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。
この男の人の問題はなんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。また、神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美と考えるようになることがあります。詩篇1篇を見ますと、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。この男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。
詩篇1篇の理解の仕方について、研究者たちから、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者によれば、この箇所は、人間の造り主が定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育つ仕方や実の結び方がある、ということです。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数と量で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。
しかしながら、そういう理解の仕方の教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美、報酬というふうに考えてしまうのは人情でしょう。弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど神から祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころか恐竜が針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の証と考えられていたものが実はそうではなかったと思い知らせるショック療法でした。加えて、永遠の命というものは、人間の力や努力で獲得できるものではないということも思い知らされました。
人間が神の御心に適う者になれるかどうか、神の目に相応しいと認められて永遠の命をいただけるかどうかという問題について、イエス様は実に厳しいことを教えました。他にもいろいろあります。
マタイ5章では、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5の掟を破ったことになる、また、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく心の中まで完璧に守れる人間、神の意思を完全に満たせる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争がありました。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「悔い改め」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。
3.
それではイエス様は何のためにこの世に送られてきたのでしょうか?神の意思に従って生きるように教えながら、そんなことをしても永遠の命は得られない、などとは。イエス様は、ただ人間の限界を思い知らせて、人間をがっかりさせるためにこの世に送られてきたのでしょうか?
いいえ、そうではありません。全く逆です。イエス様は、人間が超えられない限界を改めてわらかせた上で、今度は自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そのために送られたのです。それでは、どうやってイエス様は人間にかわって人間の限界を超えてくれたのでしょうか?
人間が永遠の命を持てない、神の国に入れない最大の原因は、人間に宿る罪の汚れでした。神は神聖な方なので、罪の汚れを持つ人間がその前に立とうものならたちまち焼き尽くされてしまいます。人間が永遠の命を持てて神の国に入れるようになるためには、人間に宿る罪の汚れをなんとかしなければなりません。人間はそれを自分の力では洗い落とすことができません。ではどうすればよいのか?神が講じた策は以下のことでした。神のひとり子イエス様を犠牲の生け贄にして、彼に人間の罪を全部請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の原因であるかのようにして、その罰を全て負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死の苦しみを受けさせた。こうして神のひとり子の身代わりの犠牲に免じて、人間は神から罪を赦してもらえるという可能性が開かれた。さらに神はイエス様を死から復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。人間は、これらの出来事が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神の罪の赦しがそのまま頂けて、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになる。
十戒の掟、神の意思は、人間が罪を行為にして犯さないように人間を縛り、見張っています。それでは心の中の罪はどうなるでしょうか?罪は行為として犯さなくても、心の中では残ります。それに対して神が十戒をもって見張っていて、いつでも落ち度を見つけようとしていると思っただけで死にそうになります。しかし、イエス様を救い主と信じる者は落度があるとわかっていながら、良心の平和があるのです。イエス様の十字架に心の目を向けることで、確かに自分は罪深い者ではあるが神はあのイエス様の犠牲に免じてこの自分を赦して、神の子として扱って下さっているのだ、その証拠にあの十字架があるのだ、と言い聞かせることができるのです。ここから、どんな時でもどんな状況でも神に対して感謝する気持ちが生まれ、永遠の命に至る道を歩み続けることができるのです。
このようにして、罪を内に持っていながらも永遠の命を得られることが可能になったのです。それは、神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したことと、それが本当にあった、それでイエス様こそ救い主と信じる信仰の二つがタイアップして、永遠の命が得られるようになったのです。一方で神が行ってくれた業があり、他方でそれを信じて受け入れる信仰が一緒になって、永遠の命が得られるのです。もう、財産があるかどうか、自分に能力や実力があるかは全く関係なくなったのです。本日の福音書の箇所の最後でイエス様は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っていますが、これは、まさに、永遠の命を自分の力で獲得できると考えている人たちが先の者で、彼らが先頭から後部に置かれてしまうということなのです。また、永遠の命を自分の力で獲得などできないとうていできないと無力感の中にあった後部の人たちが、イエス様を救い主と信じて神の整えた救いを受け入れることで永遠の命を得られるようになって先頭に置かれるということなのであります。
しかしながら、こうしたことは、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階ではわかりません。イエス様に、捨ててしまいなさい、と言われて、男の人はそれが出来ずに肩を落として立ち去ってしまいました。まだ神が罪の赦しの救いを実現する前のことなので仕方ありません。願わくば、その男の人が、十字架と復活の出来事の後、神が人間にかわって救いを実現してくれたという福音を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて、本当に永遠の命を手に入れることができたように。そして、永遠の命という天国の宝は、地上の宝を量る物差しで測りきれない価値があり、その前では地上の宝など色あせてしまうことがわかったように願わないではいられません。
4.
ところが、逆に、捨てなさい、売り払ってしまいなさい、と言われて、そうですか、わかりました、やってみせましょう、という人も出てくるかもしれません。これは、一見豪傑に見え、神といえども一目置かざるを得なくなるようにみえます。しかし、これは、永遠の命や救いを人間の力や努力で獲得しようとする考えで、金持ちの男の人と同じです。男の人の場合は、永遠の命は人間の力で獲得できるものだが自分は力及ばずと言って退場しました。売り払えると言う人は、自分にはその力があると言う人です。どちらももともとの考え方は同じです。
実は、ペトロが弟子たちを代弁して、この考えを口にしました。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」あの金持ちは捨てることが出来なかったが、私たちは違います。だからイエス様、永遠の命を得られるのでしょうか?これに対するイエス様の答えは、一見ペトロに同意しているように見えます。私のため福音のために親兄弟家財の一切合財を捨てた者は、百倍受け、永遠の命を受ける。だから、お前たちも捨てた以上は受けるのだ、という具合です。しかし、よく注意しましょう。捨てる根拠として、「イエス様のためだけ」ではなく「福音のために」とも言っています。この段階ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。福音とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活があって、それで永遠の命と救いが神の力で実現したという朗報です。まだこの段階ではその朗報自体がないので、イエス様のこの言葉は将来に向けられたと考えるべきです。それで、弟子たちが全てを捨てたと言っても、100倍受けて永遠の命も受けられるほどの捨て方になるのは、まだ先のことで、この時点での捨て方は永遠の命を保証するものではありませんでした。このように福音がなく、ただイエス様人物だけでは、カリスマ的な指導者に帰依するだけのことです。
ここで、このイエス様の言葉がもたらす大きな難しさについて見てみましょう。永遠の命を受けられるためには、親兄弟家財の一切合財を捨てなければならないのでしょうか?財産を即刻売り払って家族のもとを立ち去らなければならないのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。イエス様が「わたしと福音のゆえに」と言っていることに注意する必要があります。つまり、イエス様と福音を選ぶか、親兄弟家財を選ぶか、という二者選択の状況に追い込まれた時はじめて、この捨てるという問題が出てきます。もし幸運にも家族の者が皆同じ信仰を持っていれば、二者選択の問題は生じないので、「捨てる」ということもでてきません。
さらに、自分は迫害に見舞われた時でもそれを遥かに上回る良いものを得ることができるのだ、次の世では永遠の命を得ることが出来るのだ、と信じて疑わない人は、たとえ財産を持っていても、それは心を縛りつけるものではなくなって、たまたま神から有効に使いなさいと預かっているものにしか感じられなくなります。ルターが教えているように、そのような人は富の奴隷ではなく、主人なのです。彼の言い方にならえば、自分の持っているお金に対して、「親愛なる私の金貨君、あそこに着る服がなく震えている人がいる。さあ、すぐ行って助けてあげなさい」と言える人です。
しかしながら、もし肉親が無神論者であったり、異なる信仰を持っていてキリスト信仰に難癖をつけたり、最悪の場合それを捨てるように要求する場合には、二者選択の問題がでてきます。そこでイエス様と福音を選ぶ時、「捨てた」ということが起きます。それでは「捨てる」とはどういうことか?家を出てしまうということか?これもそうではありません。イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども命の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思いますが、日本社会ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んでいる以上は、それらのゆえに、反対する肉親を捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「肉親を捨てている」などと言うと、何か、口も聞かず、背を向き合っているような冷え切った人間関係が支配するような感じがしますが、これもそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。
私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もし非キリスト教徒の両親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さずに落ち着いて自分の立場をはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては信仰に至る道が親に開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい」ということでした。
このように、肉親と家財に対してはイエス様と福音を選びながらも、肉親に愛を持って仕え、財産の主人になることは可能です。というより、イエス様と福音を選んでこそ、そうできるようになると言ってよいのでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン