2015年5月25日月曜日

聖霊の働き (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年5月24日 聖霊降臨祭

エゼキエル書37章1-14節
使徒言行録2章1-21節
ヨハネによる福音書15章26-16章4a節

説教題 「聖霊の働き」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.聖霊降臨祭 - 教会の誕生日

 キリスト教会のカレンダーでは、復活祭から7週間たった今日は聖霊降臨祭です。復活祭の日を含めて数えるとちょうど50日目になります。50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラー(πεντηκοστη ημεραと言うので、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。この聖霊降臨祭は、クリスマス、復活祭とならんでキリスト教会の三大祝日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子イエス様が天から降って乙女マリアから人間として生まれ、人間の救いのために神が人となられたことを感謝しお祝いします。復活祭の時は、イエス様が人間を罪の呪いから救い出す生け贄となって十字架の上で死なれるも、神の力で復活させられて死を滅ぼし、人間が天の神のもとに戻れるようにして下さったことを感謝しお祝いします。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束した通りに神の霊である聖霊を天から送って下さり、私たちが聖霊の力でイエス様を救い主と信じる信仰を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったことを感謝しお祝いします。

 聖霊が弟子たちに降ったこの最初の聖霊降臨祭の日、3000人もの人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事が使徒言行録241節に記されています。まさに聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。この日、一体何が起こったのかを以下見ていきましょう。

2.一番最初の聖霊降臨祭の日の出来事

 死から復活させられたイエス様が天の父なるみ神のもとに上げられてから10日たった時でした。当時の大都会エルサレムには、地中海世界や中近東の各地からユダヤ人が大勢訪れたり滞在したりしていました。どんな地域から来ていたかは、先ほど朗読していただいた使徒言行録2章の中に詳しく列挙されています。

 聖霊が降ってイエス様の弟子たちに注がれた時、天から激しい風が吹くような音が聞こえたので、人々は驚いて音のする方へ集まってきました。そこで、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身のグループが突然、集まってきた人たちのいろんな国の言葉で話し始めたのです。ギリシャ語、ラテン語、アラム語は言うに及ばず、世界各地の土着の言語を使って話を始めたのです。外国語を習得するというのは、とても手間がかかることです。それなのに弟子たちは、突然できるようになったのです。使徒言行録24節によると、聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉で話し出した、とあるので、聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?使徒言行録211節を見ると、集まった人たちの驚きぶりを誰かが代弁して言います。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

弟子たちが世界各地の国々の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは、世界各地からやって来たユダヤ人でした。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても、出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野を40年間移動し、その時に神から十戒を与えられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、バビロン捕囚からの帰還もあげられます。一度滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超えた歴史のかじ取りのおかげで、普通だったらありえない祖国復帰が実現したという出来事です。さらに神の偉大な業としてあげるならば、神が万物を、そして私たち人間を造られた天地創造の出来事も付け加えることができるでしょう。この他にも、ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解する出来事はいろいろあるかと思いますが、以上の3つは代表的なものでしょう。

ところが、イエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のような伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃したイエス様の出来事でした。つまり、あの「ナザレ出身のイエス」は実は神の子であり、十字架刑で処刑され埋葬されたにもかかわらず神の力で復活させられて、再び人々の前に現れ、つい10日程前に天に上げられた、という出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」と一緒に、イエス様の出来事が弟子たちの口を通して語られたのです。

 そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しをします。これを聞いた群衆は、皆「大いに心を打たれて」(237節)、ペトロに、どうしたらよいのか、と聞きます。ペトロは悔い改めと洗礼を勧め、それで先ほど述べたように3000人の人が洗礼を受けたということが起こりました。この「心を打たれて」というのは、ギリシャ語の原文をみると実は、「心に突き刺さるものを感じた」(κατενυγησαν την καρδιαν)というのが正確な意味です。(フィンランド語訳の聖書ではそう訳されています。英語NIV訳they were cut to the heartは同じような意味でしょうか?スウェーデン語訳とドイツ語Einheitsübersetzung訳では「言葉が心に命中した」というような訳です。)いずれにしても、グサッときた、ということです。「心を打たれて」と言うと、なにかペトロの解き明しに感動したような感じにも聞こえてしまいます。そうではなく、ペトロの話を聞いて、良心が咎められた、痛いところを突かれてしまった、ということです。それだから、群衆はペトロに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞いたのです。それでは、ペトロの解き明しの何が彼らの心を突き刺して、彼らを悔い改めと洗礼に導いたのでしょうか?以下にそのことについて見ていきましょう。

3.ペトロの解き明し

ペトロの解き明しは二つの部分から成っています。最初は、他国の言葉を話し出すという現象についてで、これは先ほど朗読していただいた使徒言行録の箇所(21421節)です。ペトロの解き明しはこの後も続き、イエス様とは何者だったかについて解き明かします(2240節)。

異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだす現象について、ペトロは、旧約聖書ヨエル書315節の預言が成就したと解き明かします。イエス様は、自分が天に上げられた後は弟子たちを孤児みたいに一人ぼっちにしない、神の霊である聖霊を神のもとから送ってあげる、と何度も約束されました(ヨハネ14章、1526節、164b15節、ルカ2449節、使徒18節)。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言通りの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きたのだとわかったのです。つまり、イエス様が送ると約束された聖霊はこの旧約の預言の成就だったのです。

 ペトロは次に、死から復活したイエス様とは何者かについて解き明しをします。ここから先は、本日の日課の箇所の後になるので、皆様はお家でご確認下さい。要旨は以下の通りです。

 あの、神から力を授けられて数々の奇跡の業を行い、神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはおれません。イエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なことなのだ(224節)。このことは、旧約聖書に既に預言されていたのである(2528節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(3435節)。これも、旧約に預言されている通りである(3435節、詩篇109篇)。これら全てのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子で神が定めたメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちも何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めました。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されましたが、それを受け取ることが洗礼です。人間は方向転換して神の方を向いて生きようとしても、神の意思に反することを考えたり口にしたり時には行ったりしてしまいます。その時、この「罪の赦しの救い」を持っていれば、神との結びつきは失われることはなく、もう一度神の方を向いて生きていくことが出来ます。「罪の赦しの救い」がなければ、一度神の意思に反することをしてしまえば、もう神の方に向くことはできなくなってしまいます。

こうしてペトロの解き明しを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直ってイエス様と共に歩む者となったのです。こうして、人間の生き方に大きな方向転換を引き起こす出来事がこの時に始まったのです。悔い改めと洗礼は、今も当時と同じ働きをするのです。

4.聖霊の働き

ペトロが勧めの中で言うように、人は洗礼を受ける時に神が送られる霊、聖霊を受けます(38節)。人がイエス様を自分の救い主とわかって信じることができるのは、聖霊の力が働いているからです。聖霊の力が働かなければ、誰もイエス様が自分の救い主だとはわかりません。いくら歴史や宗教学の本をたくさん読んだり、社会学的に「ナザレ出身のイエス」の思想と行動を分析しても、それではイエス様は、せいぜい歴史上の卓越した思想家、宗教家の一人にしか捉えられません。単なる知識の集積だけでは、イエス様を「私の救い主」として捉えることはできません。「私の救い主」とは、この世を生きる私を永遠の命に至る道に乗せて下った方、そしてその道の歩みを日々支えて下さる方、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である天のみ神のもとに永遠に戻ることができるように引っ張り上げて下さる方、これが「私の救い主」です。単なる歴史学、社会学、宗教学の説明の中には聖霊は働きません。そもそも学術的研究というものは、本質上そういうものなのです。

ところが、もし人が、知識や学識の有無に関係なく、ああ、あの2000年前の彼の地で起きた出来事は実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった時、それは聖霊がその人に働き始めているのです。そしてその人が洗礼を受けると、それからは100パーセント聖霊の働きのもとで生きることになります。他の霊は、その人に対して足場を失い、出て行かざるを得なくなります。「エフェソの信徒への手紙」113節に、聖霊を受けることは証印を押されることである、とありますが、まさに「この人は、神がイエス様を用いて整えた『罪の赦しの救い』を受け取った」という証印であります。

 聖霊を受けた人は、イエス様を唯一の救い主と信じて全ての造り主である神の方を向いて生きる人です。イエス様はそのような人を霊的に新しく生まれた者と言います。次のイエス様の言葉をみてみましょう。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである」(ヨハネ38節)。興味深いことに、ヘブライ語とギリシャ語では「風」と「霊」を意味する単語が同じです(רוחπνευμα)。空気は目で見えません。だから空気の移動である風も見えません。ただ、風が吹いてその音が響くのが聞こえた時、目では見えないけれども風が吹いたことがわかります。また、風が木を吹き抜けて枝や葉っぱがざわざわ音を立てたら、やはり風自体は見えないけれども、風が吹いたことがわかります。霊から生まれた者、つまり聖霊を受けた者も同じなのです。聖霊も目では見えません。しかし、人がイエス様を自分の救い主と信じ、万物の造り主である神の方を向いて生きるのは、風にしなう枝や葉と同じように周りの目に見えることです。風や聖霊は目では見えなくても、それが引き起こす変化は周りには明らかになるのです。

イエス様の言葉はまた、風が自分の意思に基づいて吹くように、聖霊も自分の意思に基づいて行動することを言い表しています。日本語訳では「思いのままに吹く」と何か気まぐれに吹く感じがしますが、ギリシャ語の原文では「意思する方向に吹く(οπου θελει πνει)」です。聖霊はまさに意思するのです。ここで注意しなければならないのは、聖霊も人格を持った神としての存在ということです。日本語では聖霊を指すとき「それ」と言って、まるでモノ扱いですが、英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語ではずばり「彼」と言って、人格を持つ方であることがはっきりしています。それで、イエス様と同じように聖霊にも様をつけて呼ぶ人もいます。

聖霊が自分の意思で人に影響を及ぼすことにはいろいろなことがあります。一つには、イエス様についての真理、つまり、神はひとり子イエス様を用いて人間の救いを実現された、という真理を聖書を通して人に明らかにすることがあります。本日の福音書の箇所でも言われていましたが、聖霊が「真理の霊」と言われる所以です(ヨハネ1526節、1417節、1613節)。また、イエス様が教えたことをやはり聖書を通して人に明らかにすることもします(ヨハネ1426節)。さらに、もしキリスト信仰者が罪やその他の困難に陥って途方にくれた時には、聖霊は私たちの目の前に十字架にかかった主を示して、あの方があなたを滅ぼそうとする一切のものを全部引き受けて下さったのだ、だからあなたは守られているのだ、と思い出させてくれることもします。同じように、サタンが信仰者をつかまえて、お前は本当は罪の汚れにまみれて神も呆れ返っている、などと絶望に追い込もうとする時も、すかさず聖霊は「この人は洗礼を通して、イエス様の義という白い衣を頭から被せられている」と言って弁護してくれます。本日の福音書の箇所にあったように、聖霊が「弁護者」と言われる所以です(ヨハネ1526節、1415節、26節、167節)。

それから、聖霊は御自分の意思に基づいて、信仰者に様々な賜物を付与します。使徒パウロは、いろいろな聖霊の賜物の例を挙げています。預言、奉仕、教えること、勧めをすること、施し、指導、慈善、知恵の言葉、知識の言葉、病気の癒し、奇跡を行うこと、預言、霊の見分け、そして聖霊降臨の時のような知らない外国語で神の業を語ったり、それを解釈すること等などです(ローマ1268節、第一コリント12811節)。異なる人に異なる賜物を与えるのは、それらが集まって教会という一つの全体を形作って、あたかも一つの体のいろんな部分としてみんな一緒になって教会という一つの体全体を成長させる目的があるのです。それだから、ある人の賜物は優れて見えて、自分のは取るに足らないものに見えても、聖霊からすれば、教会という全体の中に入っている限り、全部のものはみな同じ価値を持っているのです。もし、優れているように見える賜物を持つ人が得意がったり自分中心になったりしたら、全体の成長にとって害となり、その人の賜物の価値は失われてしまいます。

賜物は人それぞれ大小それぞれありますが、もしお互い支え合って教会という体を成長させていければ、一人一人に聖霊の結ぶ実が実っていくと使徒パウロは教えています。どんな実が実るかというと、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテア522節)。この教えは、当スオミ教会の本年の主題でもありますが、このような立派な徳を掲げられて、自分は果たして実を結んでいるだろうかと自問したら、気恥ずかしくなってしまうかもしれません。しかし、そこは、聖霊が示す真理にしっかり目をとめ、聖霊の弁護に身を委ね、また聖霊が与えて下さる賜物を教会に繋がる人たちと分かち合っていけば、自然と結んで行くはずです。そのことを信じて、これからも歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン