2015年5月11日月曜日

キリスト信仰の愛のかたち (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年5月10日 復活後第四主日

使徒言行録11章19-30節
ヨハネの第一の手紙4章1-12節
ヨハネによる福音書15章11-17節

説教題 「キリスト信仰の愛のかたち」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちが守るべき掟はこれだと言って、自分が弟子たちを愛したように弟子たちも互いに愛し合いなさい、と命じられます(ヨハネ1512節)。本説教では、弟子たちをはじめ私たちキリスト信仰者が互いに愛し合う時の愛について、本日の福音書の箇所に基づいて見ていきたいと思います。キリスト信仰の愛のかたちについてです。

2.

 イエス様が「互いに愛し合いなさい」と命じる時、「私がおまえたちを愛したように」と言っていることに注目しましょう。どんな愛で愛し合うかと言うと、それは、イエス様が弟子たちを愛した愛と同じ愛を持って愛し合いなさい、ということです。それでは、弟子たちが模範とすべきイエス様の愛とはどんな愛か?これがわからなければなりません。実は、これもすぐはっきりします。13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエス様は言います。つまり、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということです。そこで、大事になってくるのは、この犠牲が、誰による、誰のためになされる、何のための犠牲か、ということをはっきりさせなければなりません。

 天の父なるみ神がみ子イエス様を用いて行ったことが、自己犠牲を伴う愛であるということをわかるために、まず私たち人間は神に造られた被造物であるということをしっかりわきまえておく必要があります。人間は自分の力や自分の意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまったことが、聖書に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順に陥り罪を犯して、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。まさにそのために神は、人間が自分との結びつきを回復して、自分のもとに戻ることができるようにと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。

神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に張り付いている罪や不従順というものは、人間を永遠に神から引き裂かれたままにする力がある。文字通り呪いの力です。その力から人間を解放するために神は、人間の罪と不従順を全部イエス様に責任があるかのようにして彼にそれらを請け負わせて、そこからくる全ての罰をイエス様に下して、人間にかわって罪の償いをさせた。これがゴルゴタの十字架の出来事です。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命への扉も私たち人間のために開かれました。

ここで人間が、これらのことが本当に自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神の方で、イエス様の犠牲に免じて罪を赦してやる、ということになった。つまり、お前の罪はもうとやかく言わない、不問にしてやる、なかったことにしてやる、だから、お前はもうこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言って下さる。お前の命は、私のひとり子が十字架で流した血で買い戻されたくらいに高価なものなのだ、そのことを忘れるなと言って下さる。こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した救い、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って、神との結びつきを回復して生きるようになったのであります。

こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているのにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力から解放されたのです。永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

ところで、神との結びつきが回復したとは言っても、それは私たちの目には見えません。しかし、神の目からみてしっかり見えているのです。この結びつきは洗礼の時にできます。私たちの目にはただの水にしかすぎないものが、洗礼執行者である牧師先生が水を前にして神の御言葉を読むと、御言葉と結びつけられた水は「救いの恵みの手段」に変わります。こうして私たちは、イエス様の犠牲がもたらした「罪の赦しの救い」を洗礼を通して受け取ります。このようにして、神の目から見て結びつきができあがるのです。聖餐式も同じです。私たちの目にはただのパンのかけらとぶどう酒にしかすぎないものが、やはり神の御言葉をかけられて「救いの恵みの手段」にかわり、神の目から見て、聖餐に与った者と神との結びつきが強められるのです。

とは言っても、いろんな感情や思いにとらわれてしまいがちな私たちは、時として神が遠ざかってしまったと感じられる時があります。しかし、それは人間の勝手な思い込みで、神の方では洗礼で確立した結びつきはしっかり保たれていると見ておられる。そのことを、私たちが口を通して味わって体で受け止めることができるのが聖餐式なのです。

以上から、神がイエス様を用いて私たちにどれほどの愛を示して下さったかが明らかになったと思います。ヨハネ福音書316節でイエス様は次のように言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ばないで、永遠の命を得るためである。」神の私たち人間に対する愛は、まさにこの言葉通りのものであります。イエス様は、この同じ神の愛を持たれて私たちを愛し、神の救いの計画の実現のために御自分を犠牲に供したのであります。

3.

 これで、神とイエス様の私たちに対する愛がどのようなものであるかが明らかになりました。ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え」と命じられる時、私たちにはイエス様がやったのと同じ犠牲は課せられていないということです。人間を罪の呪いから贖い出すこと、これは神がひとり子を用いて全ての呪いに関して一回限りで完結されたので、イエス様の犠牲の後には何も付け加えることはあり得ません。人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復するために、もっと何かが必要だ、などと考えるのは、神の救いの計画では不十分だ、と言うのも同然で、被造物が造り主に言うべきことではありません。

それでは、イエス様が模範を示した愛で私たちも互いに愛し合うとは、どうすることなのでしょうか?神がイエス様を用いて、人間を罪の呪いから贖い出し、神との結びつきを回復する道を開いたことはもう動かせない真理です。イエス様を救い主と信じる者が他の人たちを愛する時、この愛が出発点にならなければなりません。それでは、これを出発点としたら、どこに向かったらよいのでしょうか?

それは、他の人たちも罪の呪いから解放され、神との結びつきを回復することができるようにすることです。

隣人愛というものが究極的にはそのようなことを目指していることは、ルターも教えるところです。「ローマの信徒への手紙」157節の御言葉「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」について、彼は次のように教えます。

「(...我々は罪を除去すべく人々を助ける。我々は誰をも避けたり拒否したり見下してはならないのであって、罪びとを受け入れ罪びとと共にいるようにしなければならないのである。そのようにして我々は罪びとを悪い方向から助け出し、教え諭し、助言し、その人のために祈り、その人のことを耐え忍び、背負ってあげるのである。我々がこうするのは、もし我々が同じような罪にある場合、我々がそうしてほしいと思うからだ。キリスト教徒とは、他者の利益になろうとすることのためだけに生きる者である。その他者の利益というのは罪を除去するということである。(...)我々は、隣人が信仰や人生においてしでかす誤りを耐え忍ぶだけではなく、それを直させるように努める者なのである。」

 同じ「ローマの信徒への手紙」153節の御言葉「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」についてのルターの教えは次の通りです。

 「(...)もしキリストも、ファリサイ派が取税人にしたように振る舞っていたならば、我々の誰が罪から贖い出されることができたであろうか?主が我々に対して振る舞ってくれたように、我々も隣人の罪に対して振る舞わなければならない。我々は、裁いたり、排除したり、嘲ったりしてはならないのであって、隣人が罪から離れられるように助けてあげなければならない。たとえ、そのために命や大切な時間や財産や名誉その他我々が持っている全てのものを支払わなければならなくなったとしても、そうしなければならないのである。このようにしない者は、キリストを放棄したと思い知るが良い(...)。」

 このように、隣人愛とは究極的には、隣人が罪の呪いの力から解放されて、造り主との結びつきを回復できて、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、そして、この世から死んだ後は造り主のもとに永遠に戻ることができるようにすることです。もし隣人が、同じキリスト信仰を持つ人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれるよう支えてあげることです。また、もし隣人が、キリスト信仰を持たない人の場合は、その人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることです。
  
こう言うと、心穏やかでなくなる人も出てくると思います。日本のようにキリスト教徒の人口比に占める割合が非常に少なく、かつ信教の自由を尊重しなければならない社会では、罪の赦しの救いの中に「入れるようにする」などと言うと、宗教を他人に強要するように感じる人もいます。そんなのは、何か強引な宗教団体のやることと同じだとさえ言う人もいます。もちろん、キリスト信仰を持たない人がキリスト教や聖書に興味を持って教会の門を叩いて来れば、話は別です。その時は、この私たちを「罪の赦しの救い」の中に入れるようにしてくれた神の愛について堂々と証しすることができます。しかし、そうでない場合は、どうでしょうか?ある人は、私は食べ物に困っている人に食べ物を与え、着る物に困っている人に着せてあげることで隣人愛を実践する、そうすることで助けを受けた人は、私をこのような助けに突き動かしたイエス・キリストにいずれは興味を持ってくれるだろう、これこそが信仰の証なのだ、ということを言っていたのを覚えています。

こうした考えは理解できることでありますが、それでも神とイエス様の御心というものは、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることにある、ということを考えると、やはりもう一歩何かなければならないのではないでしょうか?まさに、そのために神はひとり子を犠牲にしたのだし、イエス様もそのために御自分を犠牲に供することを受け入れたのですから。でも、興味も何もない人たちに信仰を証しするなどとは、何か場違いなことのように思われるし、かえって反発をくらってキリスト教がもっと嫌われることに手を貸してしまう等々、ある時はもっともに聞こえるけれども、ある語気は言い訳にもなりうる、そういう逡巡の状態に陥ります。

そこで、キリスト信仰の隣人愛の実現のために最低限これだけはしなければならないというものを提案したく思います。それは、私たちの日々の祈りの中に、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるように祈ることを付け加えることです。「天の父なるみ神よ、あなたが私にして下さったように、あの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」

私たちは、困窮している人たちのために祈る時、彼らが神の助けを得られるよう祈ります。それならば、衣食住や健康といった焦眉の助けの他に、もっと根底的な助けである「罪の赦しの救い」の中に入れるようにするという祈りも付け加えるべきです。この祈りは、隣人と面と向かって信仰を証することではなく、神に向かってお願いすることなので、隣人の信教の自由に抵触することはありません。先ほど隣人愛を人道的支援に限定して行う人の中には、自分がキリストの愛に突き動かされていることを見てもらって人々がキリスト教に興味を持つようにするという戦略的迂回の手法を取っていることを申しました。もしそのような人が、自分を突き動かすキリストの愛とはなんだろうとしっかり自問して、まさに人間を罪の呪いから解放し、造り主との結びつきを回復させ、永遠の命に至る道を歩めるようにすること、これがキリストの愛であると確認できるのならば、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神に祈ることは、戦略的迂回と何の矛盾はありません。戦略的迂回で肝要なことは、迂回をしすぎてもとに戻れなくなってしまわないように注意をすることです。(残念ながら、神学を学んだ人たちの中には、もとに戻れなくなるくらいに迂回しすぎて、今度は迂回している道の方が本道だと言い始める人も見受けられます。)

さて、この祈りの提案に大切な補足をします。隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れますように、と神にお祈りすれば、神はなんらかの形で道を準備し始めます。ひょっとしたら、隣人がなんらかの経路を辿って信仰の証しを聞く機会が与えられないとも限りません。それが、祈る人本人の証しになるかもしれません。どんな経路で誰の証しでそれがいつになるかは、神にお任せするしかありません。しかし、祈る人は、それが自分自身の証しになる場合に備えて、そのような機会が与えられた暁にはしっかり証しができるよう力添えと自分自身の信仰の支えを神にお願いしましょう。「御心でしたら、その証の機会を私にお与え下さい」と勇気を持って祈ることができれば申し分ないですが、それは各自の自己吟味にお委ねしましょう。

4.

このように、父なるみ神とみ子イエス様の御心がわかっていれば、私たちはイエス様の友なのであります。父なるみ神とみ子イエス様は、全人類のために「罪の赦しの救い」を整えられ、私たちは当初想像も予想もできなかった道を辿ってその中に迎え入れられました。従って、私たちは自分でイエス様を選んだのではなく、イエス様に招かれたことがわかって、その招きは受け入れるべきものとわかって受け入れたので、まさにイエス様に「選ばれた」のであります。何も自分が優れているから選ばれたというのではありません。救いようがないから選ばれたのです。もし、今「罪の赦しの救い」の外側にいる人たちが、自分たちもそこに招かれていることがわかって、それを受け入れれば、彼らもイエス様に「選ばれた」ということになります。

それから、世界に出て行って、持続するような実を結ぶ、と言うのは(16節)、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、実際にそのような人が増えて、その中にしっかりとどまれるよう支える、ということです。「実を結ぶ」と言うと、何か目に見えるような人道支援や慈善事業をするようなイメージがあります。そのような支援や事業が「罪の赦しの救い」の中に入る人を増やし、そこにいる人を支える、ということをちゃんと射程に入れていれば、本当に「実を結ぶ」仕事になるでしょう。

言い方が少しきつくなるかもしれませんが、ここで、人助けをしようにもできない重い病気の人や障害のある人のことを考えてみて下さい。慈善事業や人道支援が隣人愛の実を結ぶことそのものであると考えると、これらの人たちは実を結べない人たちになってしまいます。しかし、その人たちが例えば、病床に横たわりながらも、「天の神さま、あなたが私にして下さったように、私の大切なあの人も、罪の呪いから贖い出され、造り主であるあなたとの結びつきを回復し、永遠の命への道を共に歩めるようにして下さい。」と祈れば、これこそイエス様が教えられる「実を結ぶ」ことなのです。キリスト教会が、肉においても霊においても「実を結ぶ」ものとなりますように。そして、肉において結ぶのが難しい人たちが霊において結ぶ時、そのことも、両方できる人たちの実と同じ価値があると認められますように。

 本日の箇所の終わりで、イエス様は「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ということを教えられます(16節)。同じ教えは、157節や1413節でも言われます。この教えは、私たちに試練を与えます。私たちは誰も、自分勝手な利己的な願いを神にお願いしようとは思いません。そんなことをしたら十戒の第二の掟を破ることになります。もし利己的な願いが実現してしまったら、それは神から来たものではないので、大変危険です。私たちは、神の御心に沿った祈りをしなければならないと知っています。しかし、自分や隣人の病気が治るように、とか、陥った苦難を超えられるようにと祈っても、また、隣人が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにと祈っても、もしそうならなかったらどうしよう、と、いつも一抹の不安を覚えます。全知全能の神にできないことがあったと言いたくないがために、困難な問題を祈ることに躊躇する人もいます。難しいことです。

しかしながら、ここでイエス様が「祈れば与えられる」と言っているのは、世界に出て行って持続する実を結ぶこと(16節)と関係することです。世界に出て行って持続する実を結ぶと言うのは、先ほども申しましたように、「罪の赦しの救い」の中に入れる人が一人でも増えるように働き、また、その中に入った人がそこにしっかりとどまれるように支える、ということです。これこそが神の愛の実現です。祈り求める事柄が、こうした神の御心に沿うものであれば、これは神としても聞き遂げないわけにはいきません。それですから、私たちとしては、神は約束されたことを必ず実行される方であると信頼して、祈りを絶やさないようにしなければなりません。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン