説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教
2014年11月16日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会
ホセア書11章1-9節
テサロニケの信徒への第一の手紙3章7-13節
マタイによる福音書25章1-13節
説教題 主の再臨に備えて生きる
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行ったところです。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。
本日の福音書の箇所でも、結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に結婚を正式に申し込みに行きます。先方の両親と話し合ってOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで、先ほど申しましたような祝宴が盛大に催されるのであります。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。
本日の福音書の箇所でイエス様は、天の国つまり神の国とはどんなところかを教えるために、婚礼の行列に付き従う役目を負った10人のおとめたちに起きた出来事について話します。まず、大勢の人たちが参加する婚礼の大祝宴ですが、これは、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり持ってこの世から死んだ者たちがこの世の終わりの日に復活させられて、神の国に一堂に集められることを意味します。「ヘブライ人への手紙」12章27-28節や「ペトロの第二の手紙」3章10-13節をみると、この世の終わりの日に全ての被造物は揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが残ると預言されています。黙示録19章7-9節では、そのような神の国に集められるというのは、小羊の婚礼に招かれることであると述べられています。同じ黙示録の21章4節では、神の国の祝宴の席についた者は皆、神から涙を全て拭ってもらい、死や悲しみや苦難や痛みから解放された人たちであると述べられています。苦難や試練の多いこの世の人生の段階で信仰をしっかり持って生き抜いた者にとって、こうした神の国の祝宴の席につける以上のねぎらい、報いはないでしょう。先々週の主日の福音書の箇所だったマタイ22章の初めに、王が王子のために婚宴を催すというたとえがありました。そこで王は神、王子はみ子イエス・キリストを意味しました。本日のたとえでも、花婿はこの世の終わりの日に再臨するイエス様を指しています。
以上から、10人のおとめのうち、ともし火に買い置きの油を用意した5人の賢いおとめは、この世の終わりの日、復活の日に神の国の入ることができた者たち、油を用意しなかった愚かな5人のおとめは神の国に入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、このたとえを通して、私たちも賢いおとめのように、いつ主の再臨が起こっても大丈夫なように備えていなさい、と教えているのだとわかります。
このように「10人のおとめ」のたとえがわかったと思うや否や、大きな疑問にぶつかります。それは、たとえの結びの部分の13節でイエス様が、目を覚ましていなさい、なぜなら主がいつ再臨するかは誰にもわからないからだ、と言っているところです。つまり、眠ってはならない、目を覚ましていなければならない、というのが教えの主眼になっています。ところが、賢いおとめたちは、愚かなおとめたちと一緒に眠ってしまったではないか?教えの主眼からすると、賢いおとめたちも失敗例です。しかし、眠ってしまったとは言え、賢いおとめたちは、買い置きの油のおかげで神の国に入れました。それでは、この「目を覚ましていなさい」という命令はどんな意味があるのでしょうか?
2.
賢いおとめたちも、愚かなおとめたちと共に眠ってしまいましたが、彼女たちは、買い置きの油があったおかげで、花婿の突然の到来にも慌てずに、ともし火を持って祝宴に入ることができました。眠ったことは、なんらダメージにはならなかったのであります。この賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」と言われています。こうして見ると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ないで起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあるという象徴的な意味を持っているのだと分かります。
そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているなかで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうという意味ではなく、何かを象徴的に意味していると考えられます。どんな意味かと言うと、「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語の原文では、カテウドー(καθευδω < εκαθευδον)という動詞で、これは「眠る」という意味もありますが、「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。
さらに見ていくと、7節で「おとめたちは皆起きて」と言う時の「起きて」という言葉は、ギリシャ語の原文では、エゲイロー(εγειρω<ηγερθησαν)という動詞で、これも「起きる」という意味の他に、「死から復活する/復活させられる/蘇る/蘇らされる」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。
こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して、死者の復活が起こる、この世の終わりの日の出来事について教えていることがわかります。その日、ある者たちは結婚の祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられない。ここで注意しなければならないのは、神の国の祝宴から排除されてしまった5人の愚かなおとめとは、イエス様を信じない者ではなかったということです。彼らも、賢い5人のおとめ同様に、もともとは同じ祝宴に招かれていたのであり、婚礼の行列にともし火をもって付き従う同じ任務を受けていました。つまり、10人みんな神の国への招待を受けていたのです。そういうわけで、10人ともイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者を指します。ところが、神の国に入れたのは、賢い5人だけで愚かな5人はだめでした。マタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのでしょうか?それがわかれば、油を前もって買い置きして、ともし火の火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。そのことが、「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」の意味を明らかにするのです。
これから、こうしたことを解明していこうと思いますが、その前に、ルターが、この世から死ぬことは眠ることと同じであると教えていますので、まずそれを見ていきたいと思います。本日の箇所の謎、「用意が出来ている」とか、ともし火とか、油の買い置きとかの解明にとっても、大事な教えです。この教え(教会ポスティラIII、マタイ9章24節にあるイエス様の言葉「娘は死んではいない。寝ているだけだ」についてのルターの解き明し)は、去る8月31日のスオミ教会、武蔵野教会、市ヶ谷教会の三教会合同の聖書研究会でも紹介したので、その時参加された方はご存知なのですが、今一度ご紹介いたしましょう。
「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」
ここで明らかなことは、人間は死んだら、即天国に上げられない/昇らない、ということです。天国に行くか地獄に行くかは、将来起こる復活の日、最後の審判の日に決せられるのであり、その日が来るまでは、死んだ人たちは皆、神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけということです。このことは、死者の復活を信仰の要とするキリスト信仰からすれば、当たり前のことなのですが、なぜか日本ではキリスト信仰者でない人ならともかく、信仰者の間でも、人は死んだら即天国に行って、今そこから私たちを見下ろしているというふうに考える向きが多くあるように思えます。いずれにしても、ルターの教えから言えることは、死んだ者は安らかに眠るだけなので、移動もせず、飲み食いの必要もなく、私たちが語りかけたり、願い事をかけても別に聞いているわけでもなく、また私たちを見守ることもしない、ただ安らかに眠っているだけ、ということになります。亡くなった人が私たちを見守っていない、などと言うと、大方の日本人はギョッとして心細くなってしまうでしょう。しかし、キリスト信仰にあっては、復活の日までは亡くなった方たちは、神のみぞ知る場所にいて、ただ安らかに眠っているだけなので、私たちを見守ってくれる方、また私たちが語りかけたり願い事をかけたりする正しい相手は、これは天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神をおいてはいないのです。だから、心細くなる必要は全くないのです。
このルターの教えの中で、もう一つ大事なことがあります。それは、死んだ人のこの安らかな眠りは、死んだ人の観点からすれば一瞬のことにしかすぎないということです。仮にこの世の終わりが西暦2500年に来るとします(預言しているのではありません!)。その場合、西暦1500年に死んだ人は、今この世にいる者の観点からすれば1000年眠ることになります。しかし、死んだ者本人にとっては一瞬の眠りにしかすぎず、ルターの言い方に従えば、死ぬ瞬間、瞬きをした瞬間に、もう目の前では復活の壮大なドラマが始まっているのであります。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、私など、全身麻酔の手術の経験があると、そういう時間の飛び越えはあまり不思議には感じられないのであります。先ほど、死んだ人が即天国に行くという考えは、復活の信仰から見て間違っていると申しましたが、時空の飛び越えをする死んだ本人の観点からすれば、間違いではないのであります。しかし、この世に残された私たちの観点からすると正しくないのであります。キリスト信仰者は、亡くなった方が今どこで何をしているかということについて、言い方を正確にする必要があるでしょう。
3.
それでは、「10人のおとめ」のたとえの謎を解明していきましょう。「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」ということにまつわる事柄です。たとえの中で、「用意ができている」とは、油の買い置きをして、ともし火の火が消えてしまわないように、燃え続けるようにしたということでした。買い置きをした5人のおとめは祝宴に入れたが、しなかった5人は入れなかったというのは、死者からの復活が起きる日、ある信仰者は神の国に迎え入れられたが、別の信仰者は入れられなかったということです。まず、どうしてそのような違いがでてしまったのか、ということから始めていきましょう。
キリスト信仰の基本事項ですが、人は洗礼を受けると、イエス様の持つ神の義を純白な衣のように頭から着させられます(ガラテア3章27節)。もちろん、私たちはまだ肉をもって生きているので、私たちの内にはまだ神への不従順と罪が宿っています。しかし、そのために本来は私たちが受けるべき裁きをイエス様がゴルガタの丘の十字架で全部受け負って下さった、それゆえ私たちがイエス様を救い主であると信じる信仰を持つ限り、神は私たちに被せられているイエス様の純白な義の方に目を留めて下さる。このように私たちは、神によって神の義を与えられた者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなった。文字通りこの世の命を超える新しい命に結び付けられてこの世を生きることになったのであります。
しかしながら、洗礼はハッピーエンドではありませんでした。それは完了では全くなく、むしろ私たちの内に新しい命が始まったということ、永遠の命に至る道を歩み始めたということ、洗礼とはそういう始まりの時なのであります。あわせて洗礼は、内的な戦い、信仰の戦いの始まりの時でもあります。私たちは、聖書の御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、それから遠い存在であること、不従順と罪に満ちた存在であることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか?また、隣人を自分を愛するが如く愛せよというのが神の意志なのに、そうしていないではないか?ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということになるのであります。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのであります。
洗礼を受けて、神がイエス様を用いて実現した救いを所有する者となった筈なのに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、私たちがまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点では、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。
それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっているではないか。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私はもっと知ろうとし、それに従って生きよう、という心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。
しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時に、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。
このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命と体を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります。
さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いのプロセスが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書にある神の御言葉に踏みとどまること、聖礼典の恵みにしっかり結びついていることであります。御言葉への踏みとどまり、聖礼典との結びつき、これが買い置きの油ということになります。これがある限り、信仰の戦いのプロセスは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということなのであります。そうすることが、主の再臨に備えて生きるということであります。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背を向けてしまう時があるでしょう。罪と不従順を内に宿しているので、それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに恵みと憐れみの神に赦しを乞い、主イエス様の十字架のもとに立ち返ることです。恵みと憐れみの神は、そんな私たちを自分の子として迎えて下さり、私たちは御言葉にふみとどまり、聖礼典につながることを確認して、再び永遠の命への道を歩み出します。そうして、主の再臨の日まで霊的に目を覚ましていられるのです。
翻って、5人の愚かなおとめの場合はどうかと言うと、買い置きの油を用意しなかったというのは、これはもう洗礼を受けたらもう終わり、信仰の戦いに入っていかないのであります。そうなると、洗礼の時に植えつけられた新しい人はもう育ちません。肉に結びついた古い人間がまた力を盛り返して支配を取り戻してしまいます。時間がたてばともし火の火も消えてしまいます。
ここで、5人の愚かなおとめたちは、火が消えるのはよくないことだとわかって、必死に油を買いに行ったではないか、それでも時間通りでなかったという理由だけで神の国から排除されるのは、情けがなさすぎるのではないか、という反論が生まれるかもしれません。しかしながら、その反論に対しては、神の日程表は絶対である、一度決まったら変更が効かない、としか答えられません。神は、信仰の戦いを戦う時を人に与えたのに、人の方でその時をそのために使わなかったのですから。それに、信仰の戦いに入らず、新しい人をいたずらに委縮させ、古い人に以前同様支配を許してしまうのは、洗礼の恵みを踏みにじるものです。
神の日程表は絶対的なものであると言うと、信仰の戦いを戦っている人にとって重苦しいかもしれません。なぜなら、この世に別れを告げる時、それから復活の日において、自分はどれだけ神の意志を満たせる者になっているのだろうか、新しい人はどれだけ成長したのだろうか、古い人はどれだけ衰退したのだろうか、また、これらの点について、終わりの日に他の信徒たちと比べられたら、自分の達成度は小さいのではないだろうか、そういう疑問が生じるかもしれません。しかし、これは心配する必要のないものです。もし、あなたが信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使っていれば、終わりの日にあなたが仮に40%の達成度をもってこの世の人生の歩みを終えたとしても、神は即座に残りの60%を満たして下さいます。そうしてあなたは、先ほどのルターの言葉を借りれば、完全なキリスト教徒に変えられるのです。神が足りない分を満たしてくれるから、自分は何もしなくてもいい、と考える向きが現れるかもしれませんが、それは完全に間違いです。神が足りない分を満たしてくれるのは、信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使って生きている人たちだけだからです。
最後に、信仰の戦いは内的な戦いとは言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いでもあるので、たいていは外的な戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン