2013年3月11日月曜日

神のもとに立ち返る者は必ず救われる (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年3月10日 四旬節第四主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
イザヤ書12:1-6、
コリントの信徒への第一の手紙5:1-8、
ルカによる福音書15:11-32
  
説教題 神のもとに立ち返る者は必ず救われる
  
 
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
 
1.

本日の福音書の箇所である放蕩息子の話は、キリスト教会の内外でよく知られているイエス様のたとえの教えです。この話は、教会から離れてしまった人が人生の歩みで何かあった時に、教会ならいつ戻っても自分を受け入れて話を聞いてくれる、というような教会に対する信頼感を生み出す役割を果たしています。
 
いつでも戻れる場所としての教会ということについて、放蕩息子の話に即してみてみますと、戻る人がどんな人かが一つの問題となります。冒頭で、戻る人として、人生に何かそのようなきっかけがあった人というように一般的に申しました。放蕩息子の話では、戻る人というのは、罪を犯して、その後でそれを後悔する人であります。ある人が、未熟さのために悪いことを悪いと知らずに行ってしまった。また、悪いと知ってはいても、それがどんな重大な結果をもたらすか、考えずにやってしまった。そして、後になって事の重大さに気づいて、それを後悔するとする。そういう人に対して、私たちの社会はどう向き合うか?罪と過失を犯した人は、もちろん、その償いをしていかなければならない。しかし、世間の目は厳しく、償いが終わらない限りは、後悔だけでは不十分だと言うのではないでしょうか?また、償いが終わっても、まだ足りないと言う向きもあるかもしれません。世間の正義とはこういうものでしょう。
 
放蕩息子の話では、これとは異なる正義が明らかにされます。それは、神の愛という正義です。もちろん、神は神聖な方で罪の汚れを一切認めない、罪が近づこうものなら、一瞬にして焼きつくしてしまう方です。神の愛は、罪を容認するものではありません。しかし、神は同時に、罪を犯した人の内面的変化を重視するのです。つまり、人が罪とその過失の重さに気づいて後悔するという段階で、神はそれでよしと言って、その人を受け入れるのであります。世間の方はまだまだこれからだと言っている時に、神の方では、その人があたかも罪を犯さないようにしようと生きている人と同じだと、罪を犯すとどんな結果をもたらすかわかっている人と同じだと言って下さるのです。しかも、神は、その人に起きたこのような内面的変化をとても喜んで下さるのです。これが、放蕩息子のたとえの大切な教えのひとつです。人間の目からみたら、事はそんなに甘くないぞ、行為で示さないと言葉だけでは信じないぞ、とか、たとえ償いはしてもしきれないぞ、ということになっても、神の方では、内面的変化を評価し、外面的には償いはまだしきれていない段階でもその人を受け入れて下さるのです。場合によっては、償い自体、もういいと言ってくれることがあるかもしれません。これが、人間の正義とは異なる神の正義、神の愛です。
 
 キリスト信仰者とは、このような神の愛に基づく者です。罪や過失を犯した者が償いを全うできるかどうかということに注意を向けるのではなく、内面的変化を遂げることに注意を向ける。人によっては、償いを全うしてこそ内面的変化が本物であると示されるとか、償いをしない段階では何を言っても御託だ、という厳しい見方もあるでしょう。しかし、キリスト教徒は御託と言われるものでも、そっちの方に注意を集中するのであります。では、私たちは、罪や過失を犯した人の内面的変化をどのように確認することができるでしょうか?変化は本当のものか、偽りのものか、どうやって判断するのか?疑い深くとことん慎重にみていくべきか、それとも騙されてもいいから信頼しようとお人好し路線でいくか?本説教の終わりで、この疑問に答えることを一つの課題として、この放蕩息子のたとえの解き明しをしてみようと思います。
 

2.

放蕩息子のたとえは、その前にイエス様が語られる二つのたとえの続きでして、三つの連続するたとえのクライマックスです。イエス様が三つのたとえを続けて話したのには理由がありました。まず、イエス様が当時のユダヤ教社会で罪びとの最たる者と目されていた取税人たちと食事の席を共にしたということがスキャンダルになりました。当時、食事を共にするということは、肉親同様の親密な関係を持つことを意味しましたので、ユダヤ教社会で注目の的となっているこのナザレのイエスという教師は何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者たちの批判を浴びるのであります。これに対して自分の行動の正さを示すために、イエス様は三つのたとえを話されました。
 
最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。羊を見つけると彼は肩に担いで大喜びで帰って、友人たちを呼んで一緒に祝います。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。それを見つけ出した彼女は、大喜びで友人たちを呼んで一緒に祝います。二つとも締めくくりの言葉は同じで、こういう見失ったものを見つけた時の喜びというのは、まさに罪びとが神のもとに立ち返る生き方をするようになった時に天国で祝われる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返る人生を歩むようになった人たちであります。つまり、現役の罪びとではなく、罪びとを引退した人たちです。それなら、なぜ、ファリサイ派が文句を言うのかと言うと、罪の赦しが確実に神から頂いたと言えるためには、宗教上の規定に従っていろいろな償いの行為をしなければならない、それなのに、イエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か。そんなのは赦しでもなんでもない、ということだったのです。ファリサイ派の人たちからすれば、イエス様が関係を持っているのは現役の罪びとに他ならない、ということになるのですが、イエス様にすれば、これらの者は神のもとに立ち返る道を歩み始めるようになった者たちなのであります。たとえに出てくる1匹の羊のように、また1枚の銀貨のように、一度見失われてしまったが、再び見出されたものであります。見失われたというのは、創造主、つまり人間を造り、人間に命を与えて下さった神に背を向けて生きてしまったということです。見出されたというのは、再び神の方を向いて、神のもとに立ち返る道を歩むようになったということです。イエス様は、一緒に食事の席に着く罪びとたちは、まさにこのような一度見失われてしまったが、再び見出された者たちである、彼らの内面的変化は真実であると言うのであります。天国では、このような内面的変化が神の御心に適っており、天使たちにお祝いされるのだ、と教えるのであります。
 
 ところで、この二つのたとえで次のことに気づかされます。迷った羊、なくなった銀貨は、動物であり、物であるということです。羊が道に迷うことはありますが、銀貨が自分で見失われた場所に移動することはありえません。さらに、羊や銀貨を懸命に探し出して、それらを見出された状態にしてくれたのは、羊飼いであり、女の人です。悔い改める、つまり神のもとに立ち返るということを教える題材としては、羊や銀貨は適当ではありません。この二つのたとえで私たちがよくわかるのは、見失われたものが見出された時の喜びは天国ではかり知れなく大きいということです。そこで、三つ目のたとえである放蕩息子の話がでてくるのです。そこでは、見失われたものが見出された時の喜びということに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことかが明らかにされます。神に背を向けて生きていた人が神のもとに立ち返るようになった時、それが天国においてどんなはかり知れない喜びをもたらすのか、ということについて放蕩息子のたとえが話されます。そして、その立ち返りについて、人の内面的変化をもって神はよしとして下さるのだということも教えます。
 
 
3.

放蕩息子の話はたとえですので、実際に起こった出来事ではありません。もし実際に似たようなことがあっとしても、イエス様は自分の教えを明確に伝えるための材料にしていろいろアレンジしたでしょう。いずれにしても、自分の教えを最も効果的に伝える手段として、イエス様はたとえを使われました。聖書からこれを読む私たちは、イエス様がたとえを用いてまでして効果的に伝えようとした教えとは一体何かを注意して見ていかなければなりません。そのための一つの大事な手掛かりは、たとえがどういう状況で語られたかということを知ることです。イエス様がもと罪びとたちと関係を持っていることがスキャンダルになって、イエス様は自分が行っていることの意味を反対者にわからせるために、三つ目の放蕩息子のたとえを話すことになりました。
 
二人の息子のうちの若いほうが、こともあろうに父親の存命中に、遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。それ自体、十戒の第四の掟を破ることになります。父親は息子の言うがままにし、息子は持てる金を持って遠い国に出かけ、そこで贅沢三昧、快楽全開の生活を送ります。これを聞いていた人たちは、恐らく、ギリシャの繁栄した港町やローマを思い浮かべたでしょう。しかし、まもなくして息子は金を使い果たし、さらに悪いことに、その国を飢饉が襲う。困った息子は、その地でおそらく贅沢三昧の時に知遇を得たであろう金持ちの人に取り入って、なんとか豚の群れの飼育の仕事にありつける。しかし、飢饉の最中なので安給料では食べ物はろくに食べられないし、人々も自分の食糧の確保で忙しいから、彼にはかまってなどいられない。しまいには、豚のえさまでがのどから手が出るほどほしくなる始末です。
 
 その時、息子は我に返ります。ああ、故国の父さんの家には召使が沢山いて、パンが有り余るほどあったなぁ。自分はなんと悲惨な状況に陥ってしまったことだろう。神も顔を背けるような快楽を得るために、父さんの財産の多くをせしめて食いつぶし、その結果がこれだ。どうして、父さんのところを飛び出してしまったのだろう。全ては、金がなくなれば消えてしまう一時の快楽のためだったのだ。自分はなんと愚かだったのだろう。父さんのところに帰ろう。どの面下げて戻って来たのか、と言われるかもしれない。それは仕方がないことだ。そう言われることをしたのだから。だから、私は神に対しても、父さんに対しても罪を犯しました、と父さんに告白し、赦しを乞おう。そして、自分は彼の息子でいる資格はないと認めて、これからは召使の一人に雇ってもらえるようお願いしよう。息子は、そう心に言い聞かせて、帰国の途につきました。
 
懐かしい家が向こうに見えてきた時、父親の方が先に向こうから来る息子に気づきました。息子は、飢えと過酷な肉体労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親が召使に命じて息子に上等な服を着せ、靴も履かせることから、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんと可哀そうなことだと憐れみ、自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとっては全く予想外でした。きっと、白い目で見られると思っていたのに、こんな受け入れ方をしてくれるとは。それゆえ、既に言おうと心に決めていた罪の告白と赦しの願いの言葉は、口にすることで一層真実味を帯びました。なぜなら、自分がこれから言う言葉は、拒否されることなく必ず受け入れられるという確信の中で言えたからです。私たちは、受け入れられる自信がない時は、自分の不都合なことはなかなか言い出しにくいものです。ところが、放蕩息子の父親の場合は、息子が言い出す前に、態度と行いをもって受け入れることを確信させたのであります。そのような確信できる状況の中で言える罪の告白と赦しの願いほど、全てを包み隠さずに心の底から勇気を持って言えるものはないでしょう。
 
「私は神に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ところが、まさに「召使として使って下さい」と言おうとする息子の口を遮るように、父親は召使たちに命じて、息子にちゃんとした衣服を着せてすぐ祝宴のしたくをさせます。息子は、息子としての地位を保持することを認められました。
 
以上のように放蕩息子の話では、道に迷った羊や見失われた銀貨と違って、罪びとが悔い改め、神のもとへの立ち返ることがはっきり出ています。しかしながら、羊と銀貨の場合は、羊飼いや女の人が見失われたものを一生懸命に探しますが、放蕩息子の父親は息子を探しに出かけません。少なくとも父親は、自分から走り寄って行くことから察するに、息子のことをずっと心配し、無事に戻ってくるように願っていたのでしょう。しかし、自分から息子を探しに行くことはしない。息子は自分で、もとの場所に戻ってきます。これは、神は自分で罪を犯した者に関しては、何も働きかけないで、なすがままにして、自分で努力して戻ってこい、そうしたら受け入れてやるということなのでしょうか?自分で、神のもとに立ち返る道を歩み始めないうちは、神は何の手立てもせず、放置するということなのでしょうか?ある意味ではそうとも言えます。というのは、神は、御自分からは救いの手を差し伸べているのに、人間がそれを振り払って好き勝手な道を歩もうとする場合には、そのままにさせておく傾向があります。しかし、神が、御自分に背を向けて生きる人間に何もなさらないというのは本当でしょうか?いいえ、それは本当ではありません。神は、人間のために途轍もないことをして下さったのです。それは何でしょうか?
 
創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになるのです。神は、家で息子の無事の帰りを待っている父親のように、人間が「罪の赦しの救い」を実現した神のもとへ戻って来ることを待っているのであります。
 
放蕩息子の父親は、召使と長男に対して、祝宴を開く理由をこう語ります。死んでいた息子が再び生きるようになったからだ、と。これは一見大げさな表現に見えます。息子は確かに餓死寸前だったかもしれないが、それでも死なずに生きて帰って来たからです。しかし、このたとえの話の父親が神を意味している以上は、父親の言葉は霊的には真理です。つまり、堕罪の後で人間は死ぬ存在になり、この世では造り主の神との関係は断ち切れたままで、そのままこの世から死んだ後は永遠に神のもとには戻れない存在でした。まさに、「死んだ」状態でした。それが、イエス様の贖いの死と復活のおかげで神との関係修復と神のもとへの永遠の帰還の可能性が開かれました。この可能性を自分のものとすることができたキリスト信仰者は、「死んだ」状態から「永遠の命」に与る者に変えられた者です。まさに、神のもとに立ち返る者は、それまで「死んでいた」けれども「再び生きるように」なった者なのであります。
 
ここで忘れてはならないことがあります。先ほど、息子が心に決めていた罪の告白と赦しの願いを口にする前に、父親の方が態度と行いをもってそれを受け入れることを息子に確信させたと言いました。そのような確信が得られると、私たちは、罪の告白と赦しの願いを、全てを包み隠さずに心の底から勇気を持って言うことが出来ると申しました。実は、私たちには、父なる神は私たちの罪の告白と赦しの願いを受け入れて下さると確信できる根拠があります。それは何でしょうか?放蕩息子の場合は、父親の駆け寄りと抱擁がそうでした。私たちにとっては、イエス様の十字架の死と死からの復活が確信の根拠です。神は私たち人間のために愛する御子を犠牲にしてまで、私たちを罪の呪いと死の力から解き放たれた。それが、神は、罪の告白と赦しの願いを受け入れて下さると確信できる根拠なのです。
 
 
4.

最後に、本説教の初めに掲げました問いの答えを考えてみましょう。それは、罪や過失を犯した者の内面的変化に私たちはどう向き合えばよいのか、という問いでした。変化は真実なものか、まだ真実とは言えないものか?どうやってそれを判断するか?疑い深く慎重になるべきか、馬鹿みたいなお人好しでいくか?人の内面的変化は、人間の力ではなかなか判断できないものです。人間の精神状態や感情はとても揺れ動き、それらを言い表す言葉も曖昧なことが多く、手掛かりにはなっても決め手にはならないということが多くあります。一か八かかけるしかないところがあります。しかし、キリスト信仰者にあっては、そもそもその人の内面的変化が真なるものかどうかというのは、その人と神の間の事柄だと観念する以外にはありません。それを判断するのは神であり、神がどんな判断を下されるのか私たちにわかるのは、最後の審判の日に神が死んだ人を蘇らせて、生きている人とともに裁きにかける時であります。従って、この件に関して私たちが出来ること、またなすべきことは、まだ神のもとに立ち返る道を歩んでいない人たちが歩めるように導いていくことだと思います。その際は、どうしてもお人好し路線にならざるを得ないと思います。懐疑派慎重派路線をとれば、それは放蕩息子の兄のようになって、言葉だけの罪の告白や赦しの願いでは全然足りないということになってしまいます。繰り返しになりますが、内面的変化についての判断は神にまかせて、私たちとしては、言葉で言い表す罪の告白や赦しの願いを、神に必ず受け入れられるという確信をもてて、全てを包み隠さず心の底から勇気をもって言うことが出来るように人々を導いていく。これが肝要なのではないかと思います。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン