2013年3月4日月曜日

汝の信仰なんぢを救へり (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年2月24日 四旬節第二主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
エレミア書26:7-19、
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1、
ルカによる福音書18:31-43
 
説教題 汝の信仰なんぢを救へり
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

今年の四旬節も、もう第二主日となりました。時間は、私たちの思いや感情と無関係に刻々と進んでいくようです。ところで、イエス様のこの世での生涯は、そもそも、私たち人間の救いのためになされた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、特にこの四旬節の期間は、こうした主の備えの生涯を深く覚え、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにしてまいりましょう。その時、私たちは、今ある私たちの命は本当に神から新しく頂いた真の命であるということにも気づくでしょう。そうすることで、時間の流れに流されがちな私たちは、自分を取り戻すことにもなるでしょう。
 
 本日の福音書の箇所は、大きく分けてイエス様の二つの教えからなります。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。彼らの預言の意味について、後で見てまいりましょう。もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからであります。男の人の目が治ってから言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。イエス様は同じ言葉をマタイ922節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様は癒しは必ず起こるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などと過去の言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ1719節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言います。さらに、ルカ750節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースは、2件が癒しの奇跡で健康回復の前に言われた、1件が癒しの奇跡で健康回復の後に言われた、1件が癒しの奇跡と無関係ということになります。結論から言うと、どのケースにおいても、共通したことがあって、それでこの言葉は健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。このことも後々に見てまいりましょう。
 
 
2.

まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから向かうとするエルサレムにおいて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。その実現することとして、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことは理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難と十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからで、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、当時はまだ十字架と復活は起きていないので確認する術がないのであります。
 
それならば、弟子たちには旧約聖書やそこに記されている預言者たちの預言があるではないか、イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。預言者たちが記したとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言者たちが記した預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。
 
 しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、一般的な言い方で記されているのです。イエス様は、一般的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様は、一般的な言い方で預言されていることがどう具体的な形をとって実現するか既にわかっているので問題ありません。しかし、弟子たちはまだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていないので、言われたところで、それが一般的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。
 
ここで、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書713節に登場する謎めいた人格を持つ存在です。今の世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、神の国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。この「人の子」は、718節からは「いと高き者の聖者たち」と名前を変えて登場します。こうして、「人の子」と「いと高き者の聖者たち」が同じものを指すのですが、ここが当時のユダヤ民族にとって、そして現代の旧約聖書学界にとっての大問題となるところです。というのは、「人の子」というと単数形なのに、「聖者たち」と言ったら複数形になるので、それらがどう結びつくのか、という問題が生じるからです。本説教では、この問題には立ち入りません。重要なのは、イエス様の時代には「人の子」とは、この世の終わりに到来する神の国の統治者・君臨者として理解されていたということです。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害も受ける存在であるとも理解されていました(ダニエル725節参照、マタイ1614節も)。
 
「人の子」とは別に、神に近い人格のある者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を代わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の記した預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。
 
次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書2619節、エゼキエル書37110節、ダニエル書1223節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の蘇生という出来事については、ホセア62節とヨナ21節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から蘇生するというシンボル的な出来事になるのであります。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはやシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。しかしながら、預言はどれもシンボル的に記され、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これら全てはこういう具体的な形で、一括された形でこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのであります。
 
ところで、弟子たちが事後的にわかったことというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神の子のイエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということだけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。そちらの方が重要なことであります。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?それは、神の人間救済計画の実現を意味します。
 
最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。
 
 
3.

次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉に関係します。本説教の最初で述べたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、福音書の中で、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言い、ある時は奇跡の後に言い、またある時は癒しと無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。
 
この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事のように記されていますが、実を言うと、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。動詞が現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去のある時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、という意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか、と。
 
その答えはこうです。救われるということが、病気の治癒とか、そういう人間にとって直接的な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために遮断されてしまっていた人間とその造り主である神との関係が修復されて、その神との密接な関係の中でこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということであります。これが出来るためにはどうすればよいかというと、神が2000年も前の昔に行ったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自ら整えた罪の赦しの救いを受け取って、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との密接な関係の中に生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。
 
これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ」。その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。
 
以上から、病気が癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との関係が修復された者となってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことが重要な意味を持つのは、もし病気が癒されることそのものを救われることと解してしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で神との密接な関係があって、病気の人は病気だという理由で神との密接な関係がない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪と不従順を赦されて神との関係が修復され、同じくらいに神と緊密な関係をもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのであります。健康だからといって、それが神との密接な関係の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言います。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられなかったのであります。健康な人でも、イエス様を救い主と信じる者が救われるのです。ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人であったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということであります。このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。こういう訳で、キリスト信仰者とは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との密接な関係はしっかり保たれているのだと、また、「ひとり子を私のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらい私に注がれているのだ」と確信し、その確信がもう生きる命そのものになっている者であると言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」83839節にある彼の言葉から明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 
最後に余計なひと言で恐縮なのですが、本説教の題は文語訳の「汝の信仰なんぢを救へり」としました。どうして文語訳を選んだかと言うと、新共同訳のように「あなたの信仰があなたを救った」と言うと、過去の意味が強くなり、現在完了の意味がでてきません。他方で、「救へり」というのは、高校の古文を覚えていれば、四段活用動詞「救ふ」の命令形に助動詞「り」がついて、完了した動作の継続状態を表すということなので、ギリシャ語の現在完了に近いと思われ、それで選んだ次第です。文語訳の方がギリシャ語の原語に近いというのは、ひとつの驚きでありました。余計なことで失礼しました。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン