説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年3月10日 四旬節第五主日
日本福音ルーテル横須賀教会にて
イザヤ書43:16-28、
フィリピの信徒への手紙3:5-11、
ルカによる福音書20:9-19
説教題 イエス様の権威
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所である「ブドウ園と農夫」のたとえについて、実は私は、本横須賀教会にて一昨年の10月に説教を致しました。その時は、マタイ福音書21章にあるバージョンでした。このたとえは、またマルコ福音書12章にもあります。同じ話ならば同じ説教を使えて、準備の手間が省けて、説教者は楽かというとそういうことはありません。本日の箇所のように、同じ話や出来事がいくつかの福音書にまたがって収録されていると、今度は、それぞれの福音書の記者の観点にも注意しなければならなくなります。
ところで、福音書にはそれを書いた記者の観点が含まれているとは言っても、それをもって、福音書をあたかもマタイやマルコやルカやヨハネが書いた小説、果ては創作物語のように考えてはなりません。福音書というのは、私たちの救い主イエス・キリストの言行録であります。その土台は、イエス様と行動を共にした弟子たちの目撃録、証言録であります。「イエスの名を広めたら命はないと思え」と脅されたり迫害されたにもかかわらず、命と引き換えの覚悟で守り抜かれた目撃録、証言録の集大成であります。こうした目撃録、証言録は、地中海世界のいろんなルートを辿って、口伝えに伝えられたり、断片的に書き留められたりして、最終的に福音書記者の手元に届きました。(ヨハネやマタイの福音書の場合は、その中核部分は最初の弟子の直の目撃録だったでしょう。)
さて、福音書を今あるような最終的な形にまとめあげた人たち、福音書の記者たちは、手元にある目撃録、証言録の資料の山を秩序だった形にまとめなければならない。手元にある資料は出来るだけ忠実に取り扱わなければならない。それらを自分の興味関心に基づいて自由自在に料理することはできない。なぜか?それは、福音書の記者たちは、全ての目撃録、証言録に貫かれている信仰 - つまり、イエス・キリストは旧約で約束されたメシア、救い主であり、私たち人間を罪の奴隷状態から解放して永遠の命に与らせるために十字架にかけられ、死んだ後三日目に復活したという信仰 - これを全く同じように共有していたからです。目撃録、証言録は、いろんな状況や環境の中で口伝えされ、記述されていきますが、その過程で、大切と考えられたところはより強調され、そうでないところは省略され、というような料理のされ方はしたでしょう。しかし、どんな状況や環境にあっても、今言った同じ信仰は貫かれていたのです。
以上のようなわけで、ルカの「ブドウ園の農夫」のたとえは、ルカの観点で書かれているとは言っても、ルカが、自分の手にしている資料からこだましてくる共通の信仰、そして自分自身も共有している同じ信仰、これを彼なりに書いたということにすぎません。私たちは、4つの福音書にいろんな書き方がされているのに戸惑う必要は全くなく、同じ信仰を一つの方法ではなくて、4つの方法で伝えてくれているのだと、その豊かさを喜び感謝すべきです。そういうわけで、本日はルカが伝える「ブドウ園と農夫」のたとえをもとにして、私たちの共通の信仰を思い出し、その中で成長していくことに努めてまいりましょう。
2.
「ブドウ園と農夫」のたとえは、正確には農夫は自作農ではなく雇われた身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。このたとえは、一昨年の説教でも申し上げましたが、最初聞いた群衆にはすぐ理解できるものではなかったと思われます。群衆には、イエス様に敵対する祭司長や律法学者も交じっていました(9節、19節)。
どうして、このたとえが初めて聞いた人たちにとって理解が難しかったかというと、まず、ブドウ園と聞くと、当時のユダヤ教社会の人たちは、イザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出し、それはイスラエルの民を指すと連想することができました。「ブドウ園の歌」では、神が一生懸命に育て守ったブドウ園からはろくな実がならなかった、それがイスラエルの民の現状であるとして、神に背を向けて不正の中に生きる民が批判されます。しかしながら、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。このたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神、と連想はできても、雇われ農夫そして所有者が派遣した家来や息子については、イザヤ書にはない要素なので、少し考えてみなければなりません。殺されてしまう所有者の息子も、まだイエス様が十字架に架けられる前のことなので、神のひとり子が殺されるということはどういうことか見当もつかなかったでしょう。
ところで、ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を委ねると旅に出ます。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。このことを背景に考えると、14節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをすればブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。このように「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、初めて聞く人たちにとっては、むしろ当時の社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。聞く人たちは、イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起きうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。
これを聞いていた群衆たちは、「そんなことはあってはならない!」と叫びます。農夫たちが全くの犯罪行為をもってブドウ園を収奪してしまう。そして、当然の報いとして滅ぼされてしまう。そんなことはあってはならない。農夫たちは、所有者の僕や息子に敬意をもって応対し、所有者の利益になるように働かなければならない。全ては秩序正しく行われなければならない。
この時、イエス様のたとえを具体的な意味だけではなく、抽象的な意味でも理解できる人たちもいました。祭司長や律法学者は、民の指導者で、かつイエス様の敵対者です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できるとすると、雇われ農夫というのは、神から委託されてイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。そうすると、祭司長や律法学者たちは、ひよっとしたら自分たちをさすのでは、と思い当たったでしょう。しかし、同時に、現実世界のブドウ園の所有者と雇われ農夫の悲惨な出来事という具体的なイメージも浮かぶので、はっきりした理解はまだ持てません。
それがはっきりしてくるのが、たとえに続いてイエス様が詩篇118篇22節とイザヤ書8章14節の言葉を引用したときです。これを聞いた段階で、群衆の中にいた指導者は、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは自分たちに向けられたものだったと理解しました(19節)。どうして理解できたかというと、詩篇118篇22節に、家を建てる者が捨てた石が建物の基となる「隅の親石」になるという預言の言葉があります。これが、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえと結びつけて考えられると、捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子を指すことがわかります。その殺された息子が「隅の親石」になるのだと。これに続いて、その「隅の親石」が何をするのかということが、次に述べられます。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)と。この言葉は、イザヤ書8章14-15節の預言を間接的に引用したものです。神の意思に背くイスラエルの民とエルサレムの住民に対して、神が罰として躓きの石を送り、彼らはものの見事に躓いて傷を負うという預言です。こういう旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、実は、現実世界に起きる悲劇について語っているのではなく、神の民の将来について教えるものだと理解できます。イエス様が旧約聖書の預言を引用した段階で、先ほどのたとえはイスラエルの民の指導者に対するあてつけだったのだ、所有者の息子を殺して滅ぼされる者たち、そして殺した息子が石となって、その石に木端微塵にされてしまうのは、お前たちなのだ、とイエスは言っているのだ、と理解できたのです。
3.
ところで、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、イエス様の権威についても教えています。このたとえの直前に、イエス様と祭司長・律法学者の間で交わされた権威についての応酬があります。イエス様が、エルサレムの神殿から商売人を追い出し、神殿内で群衆相手に教えている。それに対して、祭司長と律法学者が、一体何の権威に基づいてこれらのことをしているのか?誰がそうする権威・権限を与えたのか?と問いただします。イエス様は、答える条件として、洗礼者ヨハネの洗礼は天に由来するものか、人間に由来するものか、答えてみよ、と聞き返します。相談の結果、反対者たちは答えないことにしました。なぜなら、もし「天に由来する」と言えば、それではなぜ信じなかったのか、と突っ込まれてしまうし、「人間に由来する」と言えば、ヨハネのことを預言者と信じている群衆から袋叩きに会うと恐れたからです。指導者が無返答を決め込んだことを受けて、イエス様も答える必要はないと突き返します。
イエス様が御自分の権威の源について答えなかったのは、洗礼者ヨハネの権威についての議論と同じことが起きるとわかっていたからです。イエス様は、間違いなく自分の権威は天に由来すると答える用意があったでしょう。しかし、口でそれを言っても、指導者はヨハネの場合と同じようにそれを信じず、言ったら言ったで、その時は、この男は神を冒涜したと騒ぎ立てられるだけだったでしょう。そこでイエス様は、権威の源の質問にすぐ答えないで、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえの中で答えたのであります。自分は、邪悪な雇われ農夫に殺されてしまうブドウ園の所有者の息子であると。つまり、邪悪な指導層に殺されてしまう神の愛する子であると。このたとえの中でイエス様は、自分が神から送られた神のひとり子である、と証しているのであります。ここにイエス様の権威が由来するのであります。
しかしながら、時期はまだ十字架の出来事が起きる前でしたから、反対者たちは、ブドウ園の所有者の息子が殺害されるということが何を意味するのかわかりません。ただ、雇われ農夫が所有者に滅ぼされるように自分たち民の指導者が神に滅ぼされるということ、そして、隅の親石によって自分たちは木端微塵にされるということはわかりました。それで、イエス様を寸でのところで捕えようとしたのです。
イエス様が、神のひとり子であり神から遣わされた者という権威をもって、ユダヤ教社会の指導層に対して行おうとしたことは、彼らのもとで行われている神崇拝は神の意思に沿うものでないことを明らかにし、それを神の意思に沿うものに代えることでした。当時のユダヤ教社会の指導層は、エルサレムの神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応実現されている、と考えていました。例えば、ヘロデ大王が大増築したエルサレムの神殿には、「異教徒たちの前庭」という場所がありました。これは、ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができた場所です。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言 ― 世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学びに「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言 ― が実現したという雰囲気を与えたことは想像に難くありません。
しかしながら、エルサレムの神殿が神の約束の実現であるとみるのは自己欺瞞であります。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民とは言えない。イスラエルの民に属しながら、私腹を簡単に肥やせるために、占領者の取税人になる者が多く輩出する有様です。それから異教徒が生け贄を神殿に捧げると言っても、ふたを開ければ、一方では確かに割礼こそ受けていないが天地創造の神に畏れを抱いている人たちもいる。しかし、なにも天地創造の神ひとつだけを信じているわけではない多神教者もいる。世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」ということからほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人や異教徒を惹きつけたエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。それが神の意思からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の19章45-46節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書56章7節とエレミア書7章11節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」
イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の意思とは別物であるとみなしたのは、彼が神のひとり子として神の意思を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結しているということになるのですが、律法や預言のそもそもの目的は何かと言うと、神の人間救済の計画とその実現について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。
創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになるのです。人間にこのような恩恵を施して下さった神は他に存在するでしょうか?また、私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?
4.
以上みてきたように、人間の救いは、神が独り子イエス様を用いて全部実現して下さいました。人間は、そのイエス様を救い主と信じることで、この救いを自分のものとすることができるようになりました。つまり、人間は、これで救われるのであります。世界には数多くの宗教が存在し、どれもが自分たちこそが救いの道を提供するものだと競い合っています。キリスト教は、人間を造られた神との関係を修復してもらったことが真の救いであると教えます。イエス様こそ自分の救い主であるとわかった者が、それまで救いと思っていたものが救いでもなんでもなかったということを思い知る例として、本日の使徒書の箇所である「フィリピの信徒への手紙」3章5-11節のパウロの信仰の証しがあげられます。最後にパウロの文章を私なりにギリシャ語から訳したもの今一度朗読して本説教の結びと致したく思います。
「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人を両親とするヘブライ人です。律法理解に関してはファリサイ派、熱心さの点ではキリスト教会の迫害者、律法の遵守を通して獲得する義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれら全てのことは、キリストのゆえに損失と見なすようになりました。そればかりか、私の主であるイエス・キリストを知ることがあらゆるものに優っているために、本気で私は全てのことを損失と見なします。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらはゴミだと見なしています。それは、キリストを自分のものとするため、また自分をキリストに結びついた者にするためです。その時、私は、律法の遵守を通して獲得する義を持つ者ではなくなり、キリストを救い主と信じる信仰がもたらす義、この信仰のゆえに神が与えて下さる義を持つ者となります。全てをゴミと見なすのは、私がキリストとその復活の力を知るためであり、また(洗礼を通して)キリストと共に死んだ者になり、彼の受難に与るというのはどんなことかを知るためです。そのようにすることで、私は死からの復活に到達することができるのでしょう。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン