2013年3月18日月曜日

イエス様の権威 (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年3月10日 四旬節第五主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
  
イザヤ書43:16-28、
フィリピの信徒への手紙3:5-11、
ルカによる福音書20:9-19
 
説教題 イエス様の権威
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

本日の福音書の箇所である「ブドウ園と農夫」のたとえについて、実は私は、本横須賀教会にて一昨年の10月に説教を致しました。その時は、マタイ福音書21章にあるバージョンでした。このたとえは、またマルコ福音書12章にもあります。同じ話ならば同じ説教を使えて、準備の手間が省けて、説教者は楽かというとそういうことはありません。本日の箇所のように、同じ話や出来事がいくつかの福音書にまたがって収録されていると、今度は、それぞれの福音書の記者の観点にも注意しなければならなくなります。
 
ところで、福音書にはそれを書いた記者の観点が含まれているとは言っても、それをもって、福音書をあたかもマタイやマルコやルカやヨハネが書いた小説、果ては創作物語のように考えてはなりません。福音書というのは、私たちの救い主イエス・キリストの言行録であります。その土台は、イエス様と行動を共にした弟子たちの目撃録、証言録であります。「イエスの名を広めたら命はないと思え」と脅されたり迫害されたにもかかわらず、命と引き換えの覚悟で守り抜かれた目撃録、証言録の集大成であります。こうした目撃録、証言録は、地中海世界のいろんなルートを辿って、口伝えに伝えられたり、断片的に書き留められたりして、最終的に福音書記者の手元に届きました。(ヨハネやマタイの福音書の場合は、その中核部分は最初の弟子の直の目撃録だったでしょう。)
 
さて、福音書を今あるような最終的な形にまとめあげた人たち、福音書の記者たちは、手元にある目撃録、証言録の資料の山を秩序だった形にまとめなければならない。手元にある資料は出来るだけ忠実に取り扱わなければならない。それらを自分の興味関心に基づいて自由自在に料理することはできない。なぜか?それは、福音書の記者たちは、全ての目撃録、証言録に貫かれている信仰 - つまり、イエス・キリストは旧約で約束されたメシア、救い主であり、私たち人間を罪の奴隷状態から解放して永遠の命に与らせるために十字架にかけられ、死んだ後三日目に復活したという信仰 - これを全く同じように共有していたからです。目撃録、証言録は、いろんな状況や環境の中で口伝えされ、記述されていきますが、その過程で、大切と考えられたところはより強調され、そうでないところは省略され、というような料理のされ方はしたでしょう。しかし、どんな状況や環境にあっても、今言った同じ信仰は貫かれていたのです。
 
以上のようなわけで、ルカの「ブドウ園の農夫」のたとえは、ルカの観点で書かれているとは言っても、ルカが、自分の手にしている資料からこだましてくる共通の信仰、そして自分自身も共有している同じ信仰、これを彼なりに書いたということにすぎません。私たちは、4つの福音書にいろんな書き方がされているのに戸惑う必要は全くなく、同じ信仰を一つの方法ではなくて、4つの方法で伝えてくれているのだと、その豊かさを喜び感謝すべきです。そういうわけで、本日はルカが伝える「ブドウ園と農夫」のたとえをもとにして、私たちの共通の信仰を思い出し、その中で成長していくことに努めてまいりましょう。
 
 
2.

「ブドウ園と農夫」のたとえは、正確には農夫は自作農ではなく雇われた身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。このたとえは、一昨年の説教でも申し上げましたが、最初聞いた群衆にはすぐ理解できるものではなかったと思われます。群衆には、イエス様に敵対する祭司長や律法学者も交じっていました(9節、19節)。
 
どうして、このたとえが初めて聞いた人たちにとって理解が難しかったかというと、まず、ブドウ園と聞くと、当時のユダヤ教社会の人たちは、イザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出し、それはイスラエルの民を指すと連想することができました。「ブドウ園の歌」では、神が一生懸命に育て守ったブドウ園からはろくな実がならなかった、それがイスラエルの民の現状であるとして、神に背を向けて不正の中に生きる民が批判されます。しかしながら、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。このたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神、と連想はできても、雇われ農夫そして所有者が派遣した家来や息子については、イザヤ書にはない要素なので、少し考えてみなければなりません。殺されてしまう所有者の息子も、まだイエス様が十字架に架けられる前のことなので、神のひとり子が殺されるということはどういうことか見当もつかなかったでしょう。
 
ところで、ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を委ねると旅に出ます。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。このことを背景に考えると、14節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをすればブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。このように「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、初めて聞く人たちにとっては、むしろ当時の社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。聞く人たちは、イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起きうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。
 
これを聞いていた群衆たちは、「そんなことはあってはならない!」と叫びます。農夫たちが全くの犯罪行為をもってブドウ園を収奪してしまう。そして、当然の報いとして滅ぼされてしまう。そんなことはあってはならない。農夫たちは、所有者の僕や息子に敬意をもって応対し、所有者の利益になるように働かなければならない。全ては秩序正しく行われなければならない。
 
この時、イエス様のたとえを具体的な意味だけではなく、抽象的な意味でも理解できる人たちもいました。祭司長や律法学者は、民の指導者で、かつイエス様の敵対者です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できるとすると、雇われ農夫というのは、神から委託されてイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。そうすると、祭司長や律法学者たちは、ひよっとしたら自分たちをさすのでは、と思い当たったでしょう。しかし、同時に、現実世界のブドウ園の所有者と雇われ農夫の悲惨な出来事という具体的なイメージも浮かぶので、はっきりした理解はまだ持てません。
 
それがはっきりしてくるのが、たとえに続いてイエス様が詩篇11822節とイザヤ書814節の言葉を引用したときです。これを聞いた段階で、群衆の中にいた指導者は、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは自分たちに向けられたものだったと理解しました(19節)。どうして理解できたかというと、詩篇11822節に、家を建てる者が捨てた石が建物の基となる「隅の親石」になるという預言の言葉があります。これが、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえと結びつけて考えられると、捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子を指すことがわかります。その殺された息子が「隅の親石」になるのだと。これに続いて、その「隅の親石」が何をするのかということが、次に述べられます。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)と。この言葉は、イザヤ書81415節の預言を間接的に引用したものです。神の意思に背くイスラエルの民とエルサレムの住民に対して、神が罰として躓きの石を送り、彼らはものの見事に躓いて傷を負うという預言です。こういう旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、実は、現実世界に起きる悲劇について語っているのではなく、神の民の将来について教えるものだと理解できます。イエス様が旧約聖書の預言を引用した段階で、先ほどのたとえはイスラエルの民の指導者に対するあてつけだったのだ、所有者の息子を殺して滅ぼされる者たち、そして殺した息子が石となって、その石に木端微塵にされてしまうのは、お前たちなのだ、とイエスは言っているのだ、と理解できたのです。
 
 
3.

ところで、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえは、イエス様の権威についても教えています。このたとえの直前に、イエス様と祭司長・律法学者の間で交わされた権威についての応酬があります。イエス様が、エルサレムの神殿から商売人を追い出し、神殿内で群衆相手に教えている。それに対して、祭司長と律法学者が、一体何の権威に基づいてこれらのことをしているのか?誰がそうする権威・権限を与えたのか?と問いただします。イエス様は、答える条件として、洗礼者ヨハネの洗礼は天に由来するものか、人間に由来するものか、答えてみよ、と聞き返します。相談の結果、反対者たちは答えないことにしました。なぜなら、もし「天に由来する」と言えば、それではなぜ信じなかったのか、と突っ込まれてしまうし、「人間に由来する」と言えば、ヨハネのことを預言者と信じている群衆から袋叩きに会うと恐れたからです。指導者が無返答を決め込んだことを受けて、イエス様も答える必要はないと突き返します。
 
イエス様が御自分の権威の源について答えなかったのは、洗礼者ヨハネの権威についての議論と同じことが起きるとわかっていたからです。イエス様は、間違いなく自分の権威は天に由来すると答える用意があったでしょう。しかし、口でそれを言っても、指導者はヨハネの場合と同じようにそれを信じず、言ったら言ったで、その時は、この男は神を冒涜したと騒ぎ立てられるだけだったでしょう。そこでイエス様は、権威の源の質問にすぐ答えないで、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえの中で答えたのであります。自分は、邪悪な雇われ農夫に殺されてしまうブドウ園の所有者の息子であると。つまり、邪悪な指導層に殺されてしまう神の愛する子であると。このたとえの中でイエス様は、自分が神から送られた神のひとり子である、と証しているのであります。ここにイエス様の権威が由来するのであります。
 
しかしながら、時期はまだ十字架の出来事が起きる前でしたから、反対者たちは、ブドウ園の所有者の息子が殺害されるということが何を意味するのかわかりません。ただ、雇われ農夫が所有者に滅ぼされるように自分たち民の指導者が神に滅ぼされるということ、そして、隅の親石によって自分たちは木端微塵にされるということはわかりました。それで、イエス様を寸でのところで捕えようとしたのです。
 
イエス様が、神のひとり子であり神から遣わされた者という権威をもって、ユダヤ教社会の指導層に対して行おうとしたことは、彼らのもとで行われている神崇拝は神の意思に沿うものでないことを明らかにし、それを神の意思に沿うものに代えることでした。当時のユダヤ教社会の指導層は、エルサレムの神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応実現されている、と考えていました。例えば、ヘロデ大王が大増築したエルサレムの神殿には、「異教徒たちの前庭」という場所がありました。これは、ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができた場所です。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言 ― 世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学びに「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言 ― が実現したという雰囲気を与えたことは想像に難くありません。
 
しかしながら、エルサレムの神殿が神の約束の実現であるとみるのは自己欺瞞であります。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民とは言えない。イスラエルの民に属しながら、私腹を簡単に肥やせるために、占領者の取税人になる者が多く輩出する有様です。それから異教徒が生け贄を神殿に捧げると言っても、ふたを開ければ、一方では確かに割礼こそ受けていないが天地創造の神に畏れを抱いている人たちもいる。しかし、なにも天地創造の神ひとつだけを信じているわけではない多神教者もいる。世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」ということからほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人や異教徒を惹きつけたエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。それが神の意思からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の194546節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書567節とエレミア書711節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」
 
イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の意思とは別物であるとみなしたのは、彼が神のひとり子として神の意思を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結しているということになるのですが、律法や預言のそもそもの目的は何かと言うと、神の人間救済の計画とその実現について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。
 
創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになるのです。人間にこのような恩恵を施して下さった神は他に存在するでしょうか?また、私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?
  
 
4.

以上みてきたように、人間の救いは、神が独り子イエス様を用いて全部実現して下さいました。人間は、そのイエス様を救い主と信じることで、この救いを自分のものとすることができるようになりました。つまり、人間は、これで救われるのであります。世界には数多くの宗教が存在し、どれもが自分たちこそが救いの道を提供するものだと競い合っています。キリスト教は、人間を造られた神との関係を修復してもらったことが真の救いであると教えます。イエス様こそ自分の救い主であるとわかった者が、それまで救いと思っていたものが救いでもなんでもなかったということを思い知る例として、本日の使徒書の箇所である「フィリピの信徒への手紙」3511節のパウロの信仰の証しがあげられます。最後にパウロの文章を私なりにギリシャ語から訳したもの今一度朗読して本説教の結びと致したく思います。

「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人を両親とするヘブライ人です。律法理解に関してはファリサイ派、熱心さの点ではキリスト教会の迫害者、律法の遵守を通して獲得する義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれら全てのことは、キリストのゆえに損失と見なすようになりました。そればかりか、私の主であるイエス・キリストを知ることがあらゆるものに優っているために、本気で私は全てのことを損失と見なします。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらはゴミだと見なしています。それは、キリストを自分のものとするため、また自分をキリストに結びついた者にするためです。その時、私は、律法の遵守を通して獲得する義を持つ者ではなくなり、キリストを救い主と信じる信仰がもたらす義、この信仰のゆえに神が与えて下さる義を持つ者となります。全てをゴミと見なすのは、私がキリストとその復活の力を知るためであり、また(洗礼を通して)キリストと共に死んだ者になり、彼の受難に与るというのはどんなことかを知るためです。そのようにすることで、私は死からの復活に到達することができるのでしょう。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2013年3月11日月曜日

神のもとに立ち返る者は必ず救われる (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年3月10日 四旬節第四主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
イザヤ書12:1-6、
コリントの信徒への第一の手紙5:1-8、
ルカによる福音書15:11-32
  
説教題 神のもとに立ち返る者は必ず救われる
  
 
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
 
1.

本日の福音書の箇所である放蕩息子の話は、キリスト教会の内外でよく知られているイエス様のたとえの教えです。この話は、教会から離れてしまった人が人生の歩みで何かあった時に、教会ならいつ戻っても自分を受け入れて話を聞いてくれる、というような教会に対する信頼感を生み出す役割を果たしています。
 
いつでも戻れる場所としての教会ということについて、放蕩息子の話に即してみてみますと、戻る人がどんな人かが一つの問題となります。冒頭で、戻る人として、人生に何かそのようなきっかけがあった人というように一般的に申しました。放蕩息子の話では、戻る人というのは、罪を犯して、その後でそれを後悔する人であります。ある人が、未熟さのために悪いことを悪いと知らずに行ってしまった。また、悪いと知ってはいても、それがどんな重大な結果をもたらすか、考えずにやってしまった。そして、後になって事の重大さに気づいて、それを後悔するとする。そういう人に対して、私たちの社会はどう向き合うか?罪と過失を犯した人は、もちろん、その償いをしていかなければならない。しかし、世間の目は厳しく、償いが終わらない限りは、後悔だけでは不十分だと言うのではないでしょうか?また、償いが終わっても、まだ足りないと言う向きもあるかもしれません。世間の正義とはこういうものでしょう。
 
放蕩息子の話では、これとは異なる正義が明らかにされます。それは、神の愛という正義です。もちろん、神は神聖な方で罪の汚れを一切認めない、罪が近づこうものなら、一瞬にして焼きつくしてしまう方です。神の愛は、罪を容認するものではありません。しかし、神は同時に、罪を犯した人の内面的変化を重視するのです。つまり、人が罪とその過失の重さに気づいて後悔するという段階で、神はそれでよしと言って、その人を受け入れるのであります。世間の方はまだまだこれからだと言っている時に、神の方では、その人があたかも罪を犯さないようにしようと生きている人と同じだと、罪を犯すとどんな結果をもたらすかわかっている人と同じだと言って下さるのです。しかも、神は、その人に起きたこのような内面的変化をとても喜んで下さるのです。これが、放蕩息子のたとえの大切な教えのひとつです。人間の目からみたら、事はそんなに甘くないぞ、行為で示さないと言葉だけでは信じないぞ、とか、たとえ償いはしてもしきれないぞ、ということになっても、神の方では、内面的変化を評価し、外面的には償いはまだしきれていない段階でもその人を受け入れて下さるのです。場合によっては、償い自体、もういいと言ってくれることがあるかもしれません。これが、人間の正義とは異なる神の正義、神の愛です。
 
 キリスト信仰者とは、このような神の愛に基づく者です。罪や過失を犯した者が償いを全うできるかどうかということに注意を向けるのではなく、内面的変化を遂げることに注意を向ける。人によっては、償いを全うしてこそ内面的変化が本物であると示されるとか、償いをしない段階では何を言っても御託だ、という厳しい見方もあるでしょう。しかし、キリスト教徒は御託と言われるものでも、そっちの方に注意を集中するのであります。では、私たちは、罪や過失を犯した人の内面的変化をどのように確認することができるでしょうか?変化は本当のものか、偽りのものか、どうやって判断するのか?疑い深くとことん慎重にみていくべきか、それとも騙されてもいいから信頼しようとお人好し路線でいくか?本説教の終わりで、この疑問に答えることを一つの課題として、この放蕩息子のたとえの解き明しをしてみようと思います。
 

2.

放蕩息子のたとえは、その前にイエス様が語られる二つのたとえの続きでして、三つの連続するたとえのクライマックスです。イエス様が三つのたとえを続けて話したのには理由がありました。まず、イエス様が当時のユダヤ教社会で罪びとの最たる者と目されていた取税人たちと食事の席を共にしたということがスキャンダルになりました。当時、食事を共にするということは、肉親同様の親密な関係を持つことを意味しましたので、ユダヤ教社会で注目の的となっているこのナザレのイエスという教師は何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者たちの批判を浴びるのであります。これに対して自分の行動の正さを示すために、イエス様は三つのたとえを話されました。
 
最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。羊を見つけると彼は肩に担いで大喜びで帰って、友人たちを呼んで一緒に祝います。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。それを見つけ出した彼女は、大喜びで友人たちを呼んで一緒に祝います。二つとも締めくくりの言葉は同じで、こういう見失ったものを見つけた時の喜びというのは、まさに罪びとが神のもとに立ち返る生き方をするようになった時に天国で祝われる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返る人生を歩むようになった人たちであります。つまり、現役の罪びとではなく、罪びとを引退した人たちです。それなら、なぜ、ファリサイ派が文句を言うのかと言うと、罪の赦しが確実に神から頂いたと言えるためには、宗教上の規定に従っていろいろな償いの行為をしなければならない、それなのに、イエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か。そんなのは赦しでもなんでもない、ということだったのです。ファリサイ派の人たちからすれば、イエス様が関係を持っているのは現役の罪びとに他ならない、ということになるのですが、イエス様にすれば、これらの者は神のもとに立ち返る道を歩み始めるようになった者たちなのであります。たとえに出てくる1匹の羊のように、また1枚の銀貨のように、一度見失われてしまったが、再び見出されたものであります。見失われたというのは、創造主、つまり人間を造り、人間に命を与えて下さった神に背を向けて生きてしまったということです。見出されたというのは、再び神の方を向いて、神のもとに立ち返る道を歩むようになったということです。イエス様は、一緒に食事の席に着く罪びとたちは、まさにこのような一度見失われてしまったが、再び見出された者たちである、彼らの内面的変化は真実であると言うのであります。天国では、このような内面的変化が神の御心に適っており、天使たちにお祝いされるのだ、と教えるのであります。
 
 ところで、この二つのたとえで次のことに気づかされます。迷った羊、なくなった銀貨は、動物であり、物であるということです。羊が道に迷うことはありますが、銀貨が自分で見失われた場所に移動することはありえません。さらに、羊や銀貨を懸命に探し出して、それらを見出された状態にしてくれたのは、羊飼いであり、女の人です。悔い改める、つまり神のもとに立ち返るということを教える題材としては、羊や銀貨は適当ではありません。この二つのたとえで私たちがよくわかるのは、見失われたものが見出された時の喜びは天国ではかり知れなく大きいということです。そこで、三つ目のたとえである放蕩息子の話がでてくるのです。そこでは、見失われたものが見出された時の喜びということに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことかが明らかにされます。神に背を向けて生きていた人が神のもとに立ち返るようになった時、それが天国においてどんなはかり知れない喜びをもたらすのか、ということについて放蕩息子のたとえが話されます。そして、その立ち返りについて、人の内面的変化をもって神はよしとして下さるのだということも教えます。
 
 
3.

放蕩息子の話はたとえですので、実際に起こった出来事ではありません。もし実際に似たようなことがあっとしても、イエス様は自分の教えを明確に伝えるための材料にしていろいろアレンジしたでしょう。いずれにしても、自分の教えを最も効果的に伝える手段として、イエス様はたとえを使われました。聖書からこれを読む私たちは、イエス様がたとえを用いてまでして効果的に伝えようとした教えとは一体何かを注意して見ていかなければなりません。そのための一つの大事な手掛かりは、たとえがどういう状況で語られたかということを知ることです。イエス様がもと罪びとたちと関係を持っていることがスキャンダルになって、イエス様は自分が行っていることの意味を反対者にわからせるために、三つ目の放蕩息子のたとえを話すことになりました。
 
二人の息子のうちの若いほうが、こともあろうに父親の存命中に、遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。それ自体、十戒の第四の掟を破ることになります。父親は息子の言うがままにし、息子は持てる金を持って遠い国に出かけ、そこで贅沢三昧、快楽全開の生活を送ります。これを聞いていた人たちは、恐らく、ギリシャの繁栄した港町やローマを思い浮かべたでしょう。しかし、まもなくして息子は金を使い果たし、さらに悪いことに、その国を飢饉が襲う。困った息子は、その地でおそらく贅沢三昧の時に知遇を得たであろう金持ちの人に取り入って、なんとか豚の群れの飼育の仕事にありつける。しかし、飢饉の最中なので安給料では食べ物はろくに食べられないし、人々も自分の食糧の確保で忙しいから、彼にはかまってなどいられない。しまいには、豚のえさまでがのどから手が出るほどほしくなる始末です。
 
 その時、息子は我に返ります。ああ、故国の父さんの家には召使が沢山いて、パンが有り余るほどあったなぁ。自分はなんと悲惨な状況に陥ってしまったことだろう。神も顔を背けるような快楽を得るために、父さんの財産の多くをせしめて食いつぶし、その結果がこれだ。どうして、父さんのところを飛び出してしまったのだろう。全ては、金がなくなれば消えてしまう一時の快楽のためだったのだ。自分はなんと愚かだったのだろう。父さんのところに帰ろう。どの面下げて戻って来たのか、と言われるかもしれない。それは仕方がないことだ。そう言われることをしたのだから。だから、私は神に対しても、父さんに対しても罪を犯しました、と父さんに告白し、赦しを乞おう。そして、自分は彼の息子でいる資格はないと認めて、これからは召使の一人に雇ってもらえるようお願いしよう。息子は、そう心に言い聞かせて、帰国の途につきました。
 
懐かしい家が向こうに見えてきた時、父親の方が先に向こうから来る息子に気づきました。息子は、飢えと過酷な肉体労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親が召使に命じて息子に上等な服を着せ、靴も履かせることから、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんと可哀そうなことだと憐れみ、自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとっては全く予想外でした。きっと、白い目で見られると思っていたのに、こんな受け入れ方をしてくれるとは。それゆえ、既に言おうと心に決めていた罪の告白と赦しの願いの言葉は、口にすることで一層真実味を帯びました。なぜなら、自分がこれから言う言葉は、拒否されることなく必ず受け入れられるという確信の中で言えたからです。私たちは、受け入れられる自信がない時は、自分の不都合なことはなかなか言い出しにくいものです。ところが、放蕩息子の父親の場合は、息子が言い出す前に、態度と行いをもって受け入れることを確信させたのであります。そのような確信できる状況の中で言える罪の告白と赦しの願いほど、全てを包み隠さずに心の底から勇気を持って言えるものはないでしょう。
 
「私は神に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ところが、まさに「召使として使って下さい」と言おうとする息子の口を遮るように、父親は召使たちに命じて、息子にちゃんとした衣服を着せてすぐ祝宴のしたくをさせます。息子は、息子としての地位を保持することを認められました。
 
以上のように放蕩息子の話では、道に迷った羊や見失われた銀貨と違って、罪びとが悔い改め、神のもとへの立ち返ることがはっきり出ています。しかしながら、羊と銀貨の場合は、羊飼いや女の人が見失われたものを一生懸命に探しますが、放蕩息子の父親は息子を探しに出かけません。少なくとも父親は、自分から走り寄って行くことから察するに、息子のことをずっと心配し、無事に戻ってくるように願っていたのでしょう。しかし、自分から息子を探しに行くことはしない。息子は自分で、もとの場所に戻ってきます。これは、神は自分で罪を犯した者に関しては、何も働きかけないで、なすがままにして、自分で努力して戻ってこい、そうしたら受け入れてやるということなのでしょうか?自分で、神のもとに立ち返る道を歩み始めないうちは、神は何の手立てもせず、放置するということなのでしょうか?ある意味ではそうとも言えます。というのは、神は、御自分からは救いの手を差し伸べているのに、人間がそれを振り払って好き勝手な道を歩もうとする場合には、そのままにさせておく傾向があります。しかし、神が、御自分に背を向けて生きる人間に何もなさらないというのは本当でしょうか?いいえ、それは本当ではありません。神は、人間のために途轍もないことをして下さったのです。それは何でしょうか?
 
創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになるのです。神は、家で息子の無事の帰りを待っている父親のように、人間が「罪の赦しの救い」を実現した神のもとへ戻って来ることを待っているのであります。
 
放蕩息子の父親は、召使と長男に対して、祝宴を開く理由をこう語ります。死んでいた息子が再び生きるようになったからだ、と。これは一見大げさな表現に見えます。息子は確かに餓死寸前だったかもしれないが、それでも死なずに生きて帰って来たからです。しかし、このたとえの話の父親が神を意味している以上は、父親の言葉は霊的には真理です。つまり、堕罪の後で人間は死ぬ存在になり、この世では造り主の神との関係は断ち切れたままで、そのままこの世から死んだ後は永遠に神のもとには戻れない存在でした。まさに、「死んだ」状態でした。それが、イエス様の贖いの死と復活のおかげで神との関係修復と神のもとへの永遠の帰還の可能性が開かれました。この可能性を自分のものとすることができたキリスト信仰者は、「死んだ」状態から「永遠の命」に与る者に変えられた者です。まさに、神のもとに立ち返る者は、それまで「死んでいた」けれども「再び生きるように」なった者なのであります。
 
ここで忘れてはならないことがあります。先ほど、息子が心に決めていた罪の告白と赦しの願いを口にする前に、父親の方が態度と行いをもってそれを受け入れることを息子に確信させたと言いました。そのような確信が得られると、私たちは、罪の告白と赦しの願いを、全てを包み隠さずに心の底から勇気を持って言うことが出来ると申しました。実は、私たちには、父なる神は私たちの罪の告白と赦しの願いを受け入れて下さると確信できる根拠があります。それは何でしょうか?放蕩息子の場合は、父親の駆け寄りと抱擁がそうでした。私たちにとっては、イエス様の十字架の死と死からの復活が確信の根拠です。神は私たち人間のために愛する御子を犠牲にしてまで、私たちを罪の呪いと死の力から解き放たれた。それが、神は、罪の告白と赦しの願いを受け入れて下さると確信できる根拠なのです。
 
 
4.

最後に、本説教の初めに掲げました問いの答えを考えてみましょう。それは、罪や過失を犯した者の内面的変化に私たちはどう向き合えばよいのか、という問いでした。変化は真実なものか、まだ真実とは言えないものか?どうやってそれを判断するか?疑い深く慎重になるべきか、馬鹿みたいなお人好しでいくか?人の内面的変化は、人間の力ではなかなか判断できないものです。人間の精神状態や感情はとても揺れ動き、それらを言い表す言葉も曖昧なことが多く、手掛かりにはなっても決め手にはならないということが多くあります。一か八かかけるしかないところがあります。しかし、キリスト信仰者にあっては、そもそもその人の内面的変化が真なるものかどうかというのは、その人と神の間の事柄だと観念する以外にはありません。それを判断するのは神であり、神がどんな判断を下されるのか私たちにわかるのは、最後の審判の日に神が死んだ人を蘇らせて、生きている人とともに裁きにかける時であります。従って、この件に関して私たちが出来ること、またなすべきことは、まだ神のもとに立ち返る道を歩んでいない人たちが歩めるように導いていくことだと思います。その際は、どうしてもお人好し路線にならざるを得ないと思います。懐疑派慎重派路線をとれば、それは放蕩息子の兄のようになって、言葉だけの罪の告白や赦しの願いでは全然足りないということになってしまいます。繰り返しになりますが、内面的変化についての判断は神にまかせて、私たちとしては、言葉で言い表す罪の告白や赦しの願いを、神に必ず受け入れられるという確信をもてて、全てを包み隠さず心の底から勇気をもって言うことが出来るように人々を導いていく。これが肝要なのではないかと思います。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
 

2013年3月4日月曜日

汝の信仰なんぢを救へり (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年2月24日 四旬節第二主日 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
エレミア書26:7-19、
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1、
ルカによる福音書18:31-43
 
説教題 汝の信仰なんぢを救へり
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

今年の四旬節も、もう第二主日となりました。時間は、私たちの思いや感情と無関係に刻々と進んでいくようです。ところで、イエス様のこの世での生涯は、そもそも、私たち人間の救いのためになされた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、特にこの四旬節の期間は、こうした主の備えの生涯を深く覚え、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにしてまいりましょう。その時、私たちは、今ある私たちの命は本当に神から新しく頂いた真の命であるということにも気づくでしょう。そうすることで、時間の流れに流されがちな私たちは、自分を取り戻すことにもなるでしょう。
 
 本日の福音書の箇所は、大きく分けてイエス様の二つの教えからなります。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。彼らの預言の意味について、後で見てまいりましょう。もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからであります。男の人の目が治ってから言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。イエス様は同じ言葉をマタイ922節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様は癒しは必ず起こるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などと過去の言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ1719節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言います。さらに、ルカ750節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースは、2件が癒しの奇跡で健康回復の前に言われた、1件が癒しの奇跡で健康回復の後に言われた、1件が癒しの奇跡と無関係ということになります。結論から言うと、どのケースにおいても、共通したことがあって、それでこの言葉は健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。このことも後々に見てまいりましょう。
 
 
2.

まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから向かうとするエルサレムにおいて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。その実現することとして、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことは理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難と十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからで、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、当時はまだ十字架と復活は起きていないので確認する術がないのであります。
 
それならば、弟子たちには旧約聖書やそこに記されている預言者たちの預言があるではないか、イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。預言者たちが記したとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言者たちが記した預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。
 
 しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、一般的な言い方で記されているのです。イエス様は、一般的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様は、一般的な言い方で預言されていることがどう具体的な形をとって実現するか既にわかっているので問題ありません。しかし、弟子たちはまだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていないので、言われたところで、それが一般的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。
 
ここで、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書713節に登場する謎めいた人格を持つ存在です。今の世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、神の国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。この「人の子」は、718節からは「いと高き者の聖者たち」と名前を変えて登場します。こうして、「人の子」と「いと高き者の聖者たち」が同じものを指すのですが、ここが当時のユダヤ民族にとって、そして現代の旧約聖書学界にとっての大問題となるところです。というのは、「人の子」というと単数形なのに、「聖者たち」と言ったら複数形になるので、それらがどう結びつくのか、という問題が生じるからです。本説教では、この問題には立ち入りません。重要なのは、イエス様の時代には「人の子」とは、この世の終わりに到来する神の国の統治者・君臨者として理解されていたということです。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害も受ける存在であるとも理解されていました(ダニエル725節参照、マタイ1614節も)。
 
「人の子」とは別に、神に近い人格のある者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を代わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の記した預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。
 
次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書2619節、エゼキエル書37110節、ダニエル書1223節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の蘇生という出来事については、ホセア62節とヨナ21節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から蘇生するというシンボル的な出来事になるのであります。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはやシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。しかしながら、預言はどれもシンボル的に記され、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これら全てはこういう具体的な形で、一括された形でこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのであります。
 
ところで、弟子たちが事後的にわかったことというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神の子のイエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということだけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。そちらの方が重要なことであります。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?それは、神の人間救済計画の実現を意味します。
 
最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神自らが整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。
 
 
3.

次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉に関係します。本説教の最初で述べたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、福音書の中で、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言い、ある時は奇跡の後に言い、またある時は癒しと無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。
 
この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事のように記されていますが、実を言うと、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。動詞が現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去のある時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、という意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか、と。
 
その答えはこうです。救われるということが、病気の治癒とか、そういう人間にとって直接的な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために遮断されてしまっていた人間とその造り主である神との関係が修復されて、その神との密接な関係の中でこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということであります。これが出来るためにはどうすればよいかというと、神が2000年も前の昔に行ったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自ら整えた罪の赦しの救いを受け取って、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との密接な関係の中に生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。
 
これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ」。その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。
 
以上から、病気が癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との関係が修復された者となってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことが重要な意味を持つのは、もし病気が癒されることそのものを救われることと解してしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で神との密接な関係があって、病気の人は病気だという理由で神との密接な関係がない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪と不従順を赦されて神との関係が修復され、同じくらいに神と緊密な関係をもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのであります。健康だからといって、それが神との密接な関係の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言います。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられなかったのであります。健康な人でも、イエス様を救い主と信じる者が救われるのです。ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人であったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということであります。このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。こういう訳で、キリスト信仰者とは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との密接な関係はしっかり保たれているのだと、また、「ひとり子を私のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらい私に注がれているのだ」と確信し、その確信がもう生きる命そのものになっている者であると言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」83839節にある彼の言葉から明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 
最後に余計なひと言で恐縮なのですが、本説教の題は文語訳の「汝の信仰なんぢを救へり」としました。どうして文語訳を選んだかと言うと、新共同訳のように「あなたの信仰があなたを救った」と言うと、過去の意味が強くなり、現在完了の意味がでてきません。他方で、「救へり」というのは、高校の古文を覚えていれば、四段活用動詞「救ふ」の命令形に助動詞「り」がついて、完了した動作の継続状態を表すということなので、ギリシャ語の現在完了に近いと思われ、それで選んだ次第です。文語訳の方がギリシャ語の原語に近いというのは、ひとつの驚きでありました。余計なことで失礼しました。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン