2012年1月26日木曜日

なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか? (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)
 

  
主日礼拝説教 2012年1月15日(主の洗礼日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて

イザヤ書40:1-7、
使徒言行録10:34-38、
マタイによる福音書1:9-11

説教題 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか?
  
 

  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.                            はじめに

  イエス様が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼志願をするとは、一体どういうことか。洗礼と言えば、ルターが小教理問答書の中で端的に述べているように、「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。聖霊によって宿り、罪の汚れも不従順もない神の御子にどうして洗礼が必要なのか。本日の福音書の箇所の直前でヨハネは洗礼を受けに集まった群衆に、「私の後に強大な方が来られる。私は、屈んでその方の履物の紐を解く値打もない。その方は聖霊をもってあなたたちに洗礼を授ける。」と言います。まさにその方が洗礼を授けてほしいと言ってきた時のヨハネの驚きはいかようだったでしょうか。マタイ福音書では、その経緯が少し詳細に記述されていて、ヨハネはイエス様に「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べます(314節)。
 
 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?ひとつ言われることは、イエス様は神の子という地位に固執せず、あえて人となって地に下ってきたが、それだけでなく大勢の人たちに混じって洗礼を受けることで、人間との連帯を一層示した、という考え方があります。連帯説はそれ自体は間違ってはいませんが、それだけでは言い尽くせないことがイエス様の洗礼にはまだ一杯あります。「ヘブライ人への手紙」415節に、人となったイエス様が人間の弱さを理解できるのは「全てのことにおいて人間と同じように試練に遭われたからだ」と言われていますが、そこには「罪に陥ることを除いては」とちゃんと但し書きがあります。罪と不従順を持たないということからみれば、イエス様は、元来洗礼を受ける必要はなかったのであります。しかし、聖書をもっとよく見ていくと、やはりイエス様はあの時、ヨハネから洗礼を受けなければならなかったことが明らかになります。そうなると、イエス様の洗礼は罪や不従順の赦しを受けるのとは異なる意味を持ちます。連帯説では、イエス様の洗礼の意味は、必要ないのにわざわざ受けたということで、人との連帯を示すための見かけのものになります。しかし、イエス様の受けた洗礼は見かけなどではなかった。起きなければならないことだったのです。以下にそのことを見ていきましょう。
  
 
2.                            洗礼者ヨハネの洗礼について

 まず、洗礼者ヨハネの洗礼とはどんなものであったかについて見てみましょう。イエス様の時代のユダヤ教社会では、霊的な汚れから清めるために水が用いられたということがありました。例えば、食事の前の手洗いにもそのような霊的な清めの意味があると考えられ、それがもとでマルコ福音書7章にあるイエス様とファリサイ派・律法学者との間の有名な論争が生まれました。そこでは、イエス様の弟子たちが手を洗わないで食事をしたことが非難されます。それに対してイエス様は、ファリサイ派・律法学者たちが人間の作った掟に縛られて神の命じられることをないがしろにしていることを暴露し、「人を汚すものは人の外部から来るものではなく、人の内部から出てくるものが人を汚すのだ」と教えます(715節)。加えて、人の内部から出てくるものとは、人の心から出てくるものであると言い、どんなものが出てくるかというと、まず邪悪な考えがあり、それに伴って「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別」が出てくると、列挙します(71823節)。
 
 こういう罪や神への不従順の考え・行為というものが人間の外側に張り付いた汚れではなく、人間の内部、心から出てきて、自分も他人も汚すという教えは、きっと地動説が天動説に覆されるような衝撃があったでしょう。というのは、罪や不従順が外側に張り付いている汚れのようなものであれば、洗い清める儀式をすれば除去されます。ところが、内側から次から次へと湧き出てくるものであれば、清めの儀式なんかをもってしても消し去ることはできません。外側に張り付いているものであれば、付着したらまた取って、また取って、の繰り返しをすればいいのですが、罪や不従順が内部に心に根差していて、人間の存在を根底から規定しているのであれば、いくら清めの儀式を繰り返したところで、自分と他人を汚すことはなくなりません。マルコ14節に、洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とありますが、ヨハネの「悔い改めの洗礼」の主眼とするところは、まさにこうした人間の存在を内側から根底から規定している罪・不従順を自覚し、そこからの悔い改めだったのであります。
 
この人間の存在を根底から規定している罪・不従順ということについて、あるキリスト教小説の中で言われていることを参考にして見てみたいと思います。1950年代のスウェーデンの小説で、ステーングルンデンStengrundenという題名です。「岩の基盤」、「岩盤」という意味です。作者は、スウェーデンのルター派国教会が世俗化への道を歩み始めた時代に、聖書とルターに立脚することを唱え続けたイェールツB. Giertsという同国国教会の監督です。この小説はフィンランド語にも訳され(Kalliopohja)、スウェーデンとフィンランドのルター派のリバイバル運動にあってそれこそ聖典のように読み継がれてきました。
 
1930年代のスウェーデン中部にある村の教会の集会で、主任牧師ベングツソンが、人間にとって罪と不従順がいかに根底的なものであるかを会衆に教える場面があります。ちょうど、スウェーデン社会において人間の自己中心的な自由や選択ということが強調される風潮が強まり、それが教会や教会員の信仰にも影響を及ぼしていたという時代背景があります。そこで主任牧師は、改心を遂げた人の喜びが往々にしてどのような結末を迎えるかということを、次のようなたとえで話します。
 
改心した人は、神に認められた、受け入れられたと喜び、これからは真人間に生きようと決心する。それまでの悪習、例えば飲酒、喫煙等を絶ち、また人に優しく振る舞おう、自分勝手な思いや行いはやめようと努力する。自分が新しく生まれ変わったことを実感できるために、とにかく悪いことを避け、善いことをしようと努力する。それはあたかも荒れ地に果樹園をつくろうとして、土にシャベルを入れて栽培の障害になる石を除去しようと、掘り出しては外の溝に石を捨てていく農夫の作業のようであった。ところが、掘っても、掘ってもまだ出てくる。一つ悪いことを取り除いても、別のところから別のものがでてくるし、時間がたてば前に取り除いたはずのものと同じものがまた出てくる。溝にはもう石の山が出来上がってしまった。掘る深さも深くなってしまった。そうしているうちに、シャベルはとても大きな石にあたった。掘り出そうとして、石の周りを掘り起こしてみようとするが、どこまでも続いている。ついにそれが果樹園予定地の下部全体を覆っている岩盤であることがわかる。これが、人間を根底的に規定している罪・不従順であるというのであります。
 
この根底的な罪・不従順の存在を目の当たりにした人間は、どうなるか。ひとつには、失望して、真人間になる努力は全く意味がないと見切りをつけ、改心前の生活にまた戻ってしまうことになる。もうひとつは、その岩盤にすぐ土をかぶせて、その上にきれいな花をたくさん植えて、その美しさを人々にほめてもらう。これはファリサイ派と同じ手法であると言います。主任牧師ベングツソンは、この二つに陥らない真の信仰への道を示していきます。その場合、人は自分の内部、心に、このような罪・不従順の岩盤があることを観念して認めることを出発点にしなければならないと説くのであります。
 
ここで、話を本日の福音書の箇所に戻します。洗礼者ヨハネの洗礼は、まさにこの出発点であります。先ほどマルコ14節を引用しましたが、ヨハネが宣べ伝えた洗礼とは、ギリシャ語の原文に忠実に訳すと「罪の赦しに至らせる悔い改めの洗礼」となりました。つまり、ヨハネの洗礼は「悔い改め」の印としての洗礼で、「罪の赦し」はその先にある最終目標です。従って、ヨハネの洗礼では「罪の赦し」はまだ実現されません。人間が自分自身の内部に自分の存在を規定するような罪・不従順がある、イェールツの小説に言うような冷たい大きな岩盤がある、それが自分の真実だと認めますという印の洗礼であります。そのままでは神の裁きを受けて永遠の死滅に投げ出されるだけの呪われた存在ですと認め、そこから救われるために神からいただく「赦しの救い」に全てを託し、それを待ち望みます、と表明する洗礼であります。マルコ15節に、ヨハネが洗礼を授ける際、「人々は罪を告白した」と書いてありますが、まさに罪・不従順を告白し、「赦しの救い」を待ち望む者になったことを証明する洗礼でした。文字通り「悔い改めの洗礼」でした。これで罪と不従順は洗い流されました、というような清めの儀式などではありません。
   
 洗礼者ヨハネは、洗礼を授けた後、群衆に向かって「自分の後に来る強大な方は聖霊を持って洗礼を授ける」と述べます。このイエス様が授ける洗礼、「イエス様の洗礼」こそが、最終目標である「罪の赦し」を実現する洗礼であります。このことからも、ヨハネの洗礼が「悔い改め」の洗礼にとどまることがわかります。「イエス様の洗礼」とは、彼が「父と子と聖霊との名前において」授けよと命じられた洗礼であります。私たちは、牧師を通してこの洗礼を授けられますが、洗礼を与える主体はあくまでもそれを命じられたイエス様です。牧師はそのための媒体か手段であります。従って、「牧師先生が私に洗礼を授けた」と言うのは本当は正確でなく、「私は牧師先生を通してイエス様から洗礼を授けられた」と言うのが正確です。
  
 
3.                            イエス様が洗礼者ヨハネから受けた洗礼の意味

以上から、洗礼者ヨハネの「悔い改めの洗礼」とは、人々をして、自分の内部に罪・不従順が根底的に規定していることを認めさせ、そこからの救いを神に求めて待つ印であることが明らかになりました。そして、その後に到来する「イエス様の洗礼」が、人に罪の赦しを与えて救いを実現するものであることも明らかになりました。それでは、イエス様がヨハネから洗礼を受けたというのは、彼も内部の罪・不従順を認め、救いを待ち望む者であることを示すことになったのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。イエス様がヨハネから受けた洗礼には特別な意味がありました。それをわかるために、次の二つのことに気づく必要があります。
   
まず、イエス様がヨハネから洗礼を受けた時、他の人たちの場合には起こり得なかったことが起きました。聖霊がイエス様に下ったことと、天から「お前はわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が響いたということです。ヨハネの洗礼があって、イエス様は聖霊に満たされた存在になり、天と地と人間を造られた全知全能の神の子であるという確認を得られることになったのです。逆に言えば、ヨハネの洗礼がなければ、イエス様は聖霊に満たされることもなく、神の子の確認も得られず、そのままマリアとヨセフの息子としてナザレで静かに暮らしていたでしょう。
  
こうして見ると、イエス様がヨハネから洗礼を受けたことは、彼が救い主としての働きを始めた出発点になったということができます。これが、イエス様の洗礼の特別な意味の二点目です。実際、4つの福音書をみるとヨハネによる洗礼がイエス様の働きの出発点をなしていることがよくわかります。もちろん、マタイとルカ福音書には、イエス様が神の子として誕生したことが記されています。それでも、神の子として救い主として自覚的に活動を始めるのは、ヨルダン川での洗礼からです(cf. ルカ24152節)。マルコとヨハネ福音書では、ほぼイエス様の洗礼が書物自体の出発点になっています。この点に関して、使徒言行録1章に興味深い箇所があります。主を裏切ったユダにかわって使徒を選出しようということになりました。その時、選出の資格として、「主が洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時から始まって、十字架と復活を経て、天に上げられるまで、いつも主や使徒たちと行動を共にした者」ということが定められました(2122節)。つまり、使徒たちの間でも、イエス様の救い主としての活動はヨハネの洗礼の時に始まると考えられていたのであります。
  
洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエス様は劇的な人生を一気に駆け抜けます。聖霊を受け、神の子であるとの確認を得られるや否や、いきなり荒野に連れて行かれ40日間悪魔から試練を受ける。それに打ち勝った後、本格的な宣教に乗り出す。旧約に記された神の意志とか、そこに預言された神の計画の真理について人々に解き明し、それらを誤って教える者たちを糾弾する。難病や不治の病の癒し、自然の猛威を静めるような奇跡の数々を起こし、神の国の実在性を示す。そして最後は、人間が堕罪によって失った神との関係を回復すべく、人間を罪から贖う十字架の死を敢行し、死から復活させられることで今度は永遠の命の扉を開かれる。こうして神の人間救済計画を全て実現するのであります。
 
さて、洗礼者ヨハネの洗礼は、イエス様に関しては、聖霊で満たされ神の子の確認を得て、神の人間救済計画の実現プロセスを開始する意味があるとわかりました。ここで疑問としてでてくることは、救済計画実現のプロセス開始が、どうしてヨルダン川の洗礼でなければならなかったかということです。どうして、他の場所で、例えばエルサレムの神殿ではいけなかったのかということです。このような問いに対しては、神がヨルダン川の洗礼の場にすると決めたのだから、それ以外にはあり得なかった、としか答えようがありません。
   
以上から、イエス様はなぜ洗礼を受ける必要があったのかという問いに対しては次のように答えることができます。まず、神が洗礼をもってイエス様に聖霊を注ぎ神の子としての資格を与えるためであったということ。それから、そうすることで、イエス様が神の子、救い主としての明確な自覚にたって神の人間救済計画の実現に向かうようにするためであったということです。
  
ところで、ルターは、イエス様が洗礼を通して聖霊を注がれ神の子の確認を得たことは、私たちにとって大きな意味があると教えます。神の子の確認を得たことで、イエス様が私たちのためにすること成すことの全ては神の御心に適うものとなった。それゆえ、私たちが洗礼を通してイエス様に結びつけられれば、私たち自身も神の御心に適う者になるのであります。こうして、イエス様が洗礼を受けて聖霊で満たされ神の子の確認を得たことで、私たちは自分が受けた洗礼(「イエス様の洗礼」)の重要さが一層理解できるのであり、また洗礼を受けた私たちはいかに新しく創造されたかということも一層わかるのであります。このように、ルターによれば、イエス様が洗礼を受けたことは、私たちの受けた洗礼の深い意味を理解させる役割を持っているというのであります。このことも、なぜ神はイエス様が洗礼を受けるように導いたかの答えになるでしょう。
  
 
4.                            「イエス様の洗礼」を受けた者として

 それでは、「罪の赦し」に至らせる「イエス様の洗礼」を受けた私たちキリスト教徒は、あの罪と不従順の岩盤をどうしたでしょうか?洗礼を受けたことで、岩盤は一気に消滅したでしょうか?スウェーデンはダイナマイトの発明国ですので、それをもって木端微塵に粉砕したでしょうか?驚くべき展開が待っていました。このことを先ほどの小説に出てくる主任牧師ベングツソンの説教の続から見て、本説教の結びにしたく思います。
 
 罪と不従順の岩盤のほかに、もうひとつ岩の丘があった。それはゴルガタと呼ばれる丘で、そこに十字架が立てられ、罪と不従順を持たない一人の者が磔にされた。なぜ神はこのようなことをなさったのか。神は長い間、人間の罪と不従順を見逃してきたのだが、ご自分が義の存在である以上はやはり、罪と不従順には呪いと裁きが伴うことを、また神聖という尺度で測るときは手加減は一切しないということを人間に示さなければならない。しかし神は驚くべきことに、呪いと裁きを全て、汚れの無いひとり子に被らせた。彼は私たちのために呪われた者にされ、それによって私たちは呪いから解放された。彼は私たちの目の前で罪びとに仕立てられ、それによって私たちは神が与えられる義を身に纏うことができるようになった。彼は私たちの罪を十字架の上まで背負って運び上げた。彼が受けた傷のおかげで私たちは癒された。それゆえ、ゴルガタの丘は世界で一番神聖な場所になった。神への従順な道はすべてそこに通じる。裁きが人の心を重く捕える時、イエス様を救い主と信じる者は誰でも、この従順の道を辿って、罪の帳消しの丘に登ってよいのだ。
  
そういうわけで、私たちの心の中にある罪と不従順の岩盤は、私たちを裁きに追い込む力を失ったのだ。十字架から垂れ落ちる主の血を受けて、ゴルガタの岩の丘が罪の帳消しの丘に変わったように、罪と不従順の岩盤にも主の血を振り掛けるが良い。その時神は、岩盤の上に十字の印を刻み付け、イエスと結びついた人を義なる者とするであろう。罪と不従順の岩盤は移動させられて、罪の帳消しの丘の上に置かれる。今度はこの丘が人間を内部から根底的に規定するものとなるのだ。もちろん、あの岩盤は残るので、人間は依然として罪びととして存在し続ける。しかし、負債は支払われ、呪いは打ち消されたので、人間は何の恐れもなく神聖な神の御前に進み出ることができるようになった。この罪の帳消しの奇跡を感謝できる者は、救い主の栄誉のために生きようとし始める。ここから信仰の善い実が実り始める。こうして罪と不従順の岩盤にぶち当たった人は、神の救いの業に全てを委ね、その業に自分を根底から規定させることで、豊かな実をもたらす木となるのである。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン