2026年1月26日月曜日

イエス様は闇を周辺に追いやる真の光 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 202625顕現後第三主日

 

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ8章23節-9章3節

第1コリント1章10-18節

マタイ4章12-23節

 

説教題 「イエス様は闇を周辺に追いやる真の光」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様はヨハネ福音書の8章で自分のことを世の光である、私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと証しています。イエス様がそのような光であることは本日の旧約の日課イザヤ書9章で預言されていました。私たち人間はこの世では暗闇の中を歩んでいるようであり、死の陰の地に住んでいるようなものである、そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩まなくてすむようになり、死の陰の地から脱することができるようになるということです。それで、本日の詩篇の日課27篇の冒頭で言われるように光のおかげで何も恐れる必要はなくなるのです。イエス様がそのような光であることを本日の説教で明らかにしていこうと思います。

 

 まず、出来事の流れを振り返ります。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るという出来事がありました。これはイザヤ書112節と421節の預言の実現でした。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、苦痛から逃れられるために旧約聖書の御言葉を悪用して、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の魂胆は全てお見通しです。悪魔の試みは全て失敗に終わり、悪魔は退散しました。

 

 悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北にあるガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始します。ガリラヤ地方は、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、これはイエス様が生まれた時に命を狙ったヘロデ王の息子です。洗礼者ヨハネはこの領主の不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様はヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。

 

 しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ41630節に記されています。

 

 さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業も行いました。マタイはこれらのことをもってイザヤ書の本日の個所の預言が成就したと記したのです。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。生業も親も捨てて行ってしまったなどと聞くと、なんだかいかがわしい宗教団体みたいです。このことについては、以前の説教でルターの教えをもとにしてお教えしたことがあります。今日は少し視点を変えて、イエス様の弟子として召されるというのはどういうことか、説教の終わりで触れておこうと思います。

 

2.闇を照らし、死の陰を地から導き出す光

 

 まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。

 

 マタイ福音書では成就した預言の文句は、イザヤ書823節と91節の2つの節が引用されています。ちょっと端折った引用ですので、少し詳しく見てみます。新共同訳に倣います。

 

「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

 

 この預言は、これが語られた紀元前700年代の出来事に関わっています。それから700年たった後のイエス様の出来事にも関わっています。さらにはイエス様の出来事が時代を経て現在にまで関わっているということもあります。このように三つの層が折り重なっている預言ですので、それらを一つ一つ解きほぐしていきましょう。

 

 紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神がそうお決めになったからだ、だから心配する必要はない」と言います。実際、イスラエル王国と同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の「辱めを受けたゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、ユダヤ民族の12部族の中のゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、ちょうどイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。

 

 しかしながら、預言の言葉は滅亡で終わっていません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては91節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことをたとえる言い方として普通だったのでしょう。そうは言っても、戦争を賛美する考えのないことは、後に来る4節の御言葉「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた」から明らかです。イザヤ書2章にも全ての軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現する、それは終末の平和であるという預言があります。ゼカリヤ書9章では、軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現することがメシアの到来と結びつけて預言されています。

 

 ところで、イザヤ書9章の預言は3節の後も続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?

 

 紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的に追い詰められた状況が述べられています。それが823節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。

 

 そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南のユダ王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで退却させることに成功しました。ということは、みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまい、主だった人たちはバビロンの地に連行されてしまいました。なんだ、みどりごはヒゼキア王ではなかったのか。では、誰のことか?

 

 紀元前500年代終わりにユダヤ民族は祖国帰還を実現しエルサレムの町と神殿を復興させました。しかしながら、民族はその後、一時期を除いてずっと諸外国の支配下に置かれ続けました。この間に、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族の苦難を意味するのではなく、もっと人間一般の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、特定の民族を再興する民族の英雄ではなくなり、民族に関係なく広く人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。

 

3.神の国への迎え入れ

 

 イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味しました。

 

 神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来到来する神の国というのは、奇跡が当たり前になっているところなのだ、ということを前触れのように体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を代々受け継いでしまっているので神聖な神の国に入ることはできないのです。罪を持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。罪の問題を解決しない限り、神聖な神の国に迎え入れられないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はそのままの状態ではまだ神の国の外側にとどまっているのです。

 

 この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本当なら人間が受けるべき罪の罰を全部ひとり子のイエス様に受けさせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事にはそういう意味があったんだとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神の目に適う者となり、それで神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。そのように変えられた人は、それに相応しく生きようという気概になって生きるようになるのです。

 

 そういうわけで、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2700年前のヒゼキヤ王の時代も、2000年前のイエス様が活動した時代も飛び越えて現代にいる私たちに向けられているのです。神の意思に反する罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、永遠の命が待っている御国に迎え入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方など日本にいる私たちには縁遠いローカルな地名が登場しますが、それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの光を目にするようになったのです。もう死の陰の地に住んでいません。ヨハネ1章で言われる、暗闇も圧倒することができない無敵の光です。それを目にするようになれば、闇は光の周辺か背後に追いやられます。もう真っ暗闇の中を歩むことはないのです。

 

4.勧めと励まし

 

 4人の漁師がイエス様の呼びかけに応じて生業も家も捨てて付き従って行きました。イエス様の呼びかけにそのような力があったのは、人間を死の陰の地から救い出しどんな暗闇も勝てない無敵な光としてのなせる業としか言いようがありません。そうすると、私たちももしイエス様の呼びかけがあったら同じようにしなければならないのか?私たちには弟子たちのようにイエス様の肉声は聞こえません。そこで、もし教会や教派で権威ある人が、この個所はあなたに全てを捨てなさいと言っているなどと教えたら、それに従わないといけないのでしょうか?

 

 ここで、弟子たちの立場と私たちの立場を区別する必要があることに注意します。最初の弟子たちがイエス様に召されたのは、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して後に証言者となるためでした。イエス様の出来事の頂点は彼の十字架の死と死からの復活です。それも目撃した弟子たちは、イエス様は本当に人間を死の陰や闇から救い出す光であることがわかりました。それを人々に伝え知らせ命を賭してまで証しして、それらが記録されたものが聖書に収められました。

 

 さて、私たちは、弟子たちが伝え知らせ証ししたことを聖書を通して受け取りました。洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰によって、死の陰を蹴散らし闇を周辺に追いやる光を目にすることができるようになりました。それで、詩篇27篇の最初の御言葉のように何も恐れる必要がない者になることができたのです。最初の弟子たちが全てを捨てて目撃者となって証言者となってくれたおかげです。そこで、私たちの立ち振る舞いを周りの人たちが見て、あの恐れない心はイエスという光を持てているからだとわかるようになって光のもとに来るようになれば、私たちは弟子たちの役割を継承していることになります。大胆に捨てることで頑張っていることを示すのが目的ではなく、光を持って生きられる人が増えることが目的です。キリスト信仰者自身がそのように生きていれば、周りはそれに気づくのです。マタイ5章の初めでイエス様が「世の光たれ」と言っているのはこのことです。

 

 そうは言っても、現実の場面ではいろんなことに遭遇して光よりも闇の方に目が向いてしまい恐れてしまうことが多いです。だから、日曜日の礼拝で罪の赦しの宣言、聖書の御言葉の説き明かし、聖餐式を受けて光をもう一度目の前に輝かせて闇を周辺に追いやることを繰り返しするのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、礼拝にはそのような、私たち自身を強め、知らずにして証し人にする力があることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。