2025年12月29日月曜日

「天には栄光、神に 地には平和、御心に適う人に」(吉村博明)

 説教 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカ2章1-20節

 

説教題 「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

1.はじめに

 

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 

 「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

 

 これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

 

2.聖夜の真相

 

 でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

 

 問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

 

 ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 

 やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。

 

3.究極の権力者が共に歩んで下さる

 

 しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来ます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。

 

 人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇234節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。

 

 実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復でき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。

 

4.天使の賛美の意味

 

 説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。

「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?

 

 ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)

 

 さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。

 

「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。

救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン