説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
主日礼拝説教 2025年11月23聖霊降臨後最終主日)スオミ教会
エレミヤ書23章1-6節
コロサイの信徒への手紙1章11-20節
ルカによる福音書23章33-43節
説教題 「神の祈りの学校の生徒でいこう!」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日は聖霊降臨後の最終主日です。来週はもうイエス様の誕生をお祝いするクリスマスの準備期間、待降節/アドベントです。キリスト教会の新年です。それなので今は教会の年の瀬ということになります。フィンランドのルター派教会では聖霊降臨後最終主日は「裁きの主日」と呼ばれ、その日の福音書の日課は「この世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」をテーマにするものが普通です。日本のルター派の聖書日課も先週の福音書の日課はイエス様の終末の預言でした。ただ、今日の福音書の日課はイエス様が十字架に架けられる場面で、イースター前の受難節に相応しい箇所ではないかと思われるかもしれません。でも、よく目を見開いて読むとイエス様はこの世を超えた永遠なるものへの扉を開かれた方であることがわかります。それで聖霊降臨後最終主日に相応しい個所と考えます。
ところで、「世の終わり」だの「最後の審判」だの、ちょっと話が暗すぎないか、人を明るくハッピーにするのが宗教じゃないかと言われてしまうかもしれません。フィンランドの「裁きの主日」ですが、その趣旨は教会の一年の終わりにキリスト信仰者としての自分の歩みを振り返って、自分はイエス様の再臨や最後の審判の時に申し開きができるのか自省し、イエス様がもたらしてくれた罪の赦しの恵みを今一度畏れ多い気持ちで受け取るというのが本来の趣旨です。ところが実際はどうかと言うと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなっているフィンランドの教会で(ただしSLEYの教会は別です!年中どこも満員御礼です!)、「裁きの主日」は一段と少なく、ところが、礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くや否や、待ってましたとばかり町中クリスマスのイルミネーションが一斉に点灯します。アドベントまでまだ1週間あると言うのに。果たして趣旨を心に留めている人はどれ位いるのだろうかと思ったものです。(ところで昨日知ったことですが、ヘルシンキでは昨日クリスマスのオープニング・イベントが大々的にあったとのことで、目抜き通りのアレキサンテリ通りはイルミネーションが華やかに点灯し盛大なパレードが繰り出され大勢の人でごった返したとのこと。アドベントはおろか「裁きの主日」も終わっていないのに!パイヴィによれば、もう何年も前から「裁きの主日」の前に行っているとのことで、私は知りませんでした。こういうことをするから教会の伝統に忠実でいたい人は皆SLEYの礼拝に流れて行ってしまうのでしょう。)
「世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」というのは不安や心配を引き起こすテーマで、キリスト教徒と言えどもどう向き合っていいのか悩んでしまう人が多いと思います。ただ、近年では教派によっては、今の世界情勢を見ればキリストの再臨が間近なのは明らかだ、再臨に備えて聖書に書かれてあるようなことを率先して起こそう、そうすれば彼がいらした時に神の御国に迎え入れてもらえるのだ、と血気溢れるようなところもあります。ここで、私たちが礼拝で唱えるキリスト教の伝統的な使徒信条や二ケア信条ではどう言われているか思い出しましょう。再臨するイエス様は生きている人と死んだ人を判断する(裁く)とあります。恐らく急進的なキリスト教徒は、再臨は自分が生きている間に起こると確信しているのでしょう。私は、もちろんその可能性は否定しないが、確率として見たら、主の再臨は自分がこの世を去った後に起こる方が高いのではないか、もしそうなら、まずこの世を去って再臨の日に目覚めさせてもらって判断してもらおう、なので、その日まではルターが言うように安らかに眠ることになるだろうという思いでいます。イエス様の再臨が自分が生きている間に起こるのか、後で起こるのかについては説教の終わりにまた触れたく思います。
2.メシアと神の国
本日の福音書の説き明かしに入りましょう。イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。みんな五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。実に痛ましい残酷な場面です。
犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。イエス様の十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていました。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとこうなるぞ、という具合に。
このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られたのです。ところが当時、これとは異なる期待もありました。復興される王国とは、この世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わる新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。さて、この世的な国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代にはこの世的でない超越的な王国とそのメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国がこの世的な国ではなく超越的な国であることをはっきりさせたのです。
イエス様を罵った犯罪人は、彼のことをこの世的な王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったのでした。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのす。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様が「あなたの御国」、つまり彼が王である国に入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上にはない、今の世を超えた超越的な国であり、イエス様はその王メシアであると信じたのです。
それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかわかりません。なんだか苦しみを和らげるための無意味な気休め言葉みたいです。そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは動詞の未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園に入ることになる、今日息を引き取ってこの世から別れた後で楽園に入ることになる、と言っているのです。
そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあるんじゃなかったのか?今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、キリストの再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?今日中に楽園に入ることになると言ってしまったら、そういうプロセスは飛び越えてしまったということなのか?
この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。そうであれば、イエス様が今日中に楽園に入ることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので大丈夫です。
3.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言
次に「私のことを思い出して下さい」と言った犯罪人の言葉とイエス様の返答を見てみましょう。これらはよく目を見開いて見ると、キリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白、そしてそれに続く罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。
その犯罪人は、イエス様がこの世的な国を超えた国の王であると信じています。反対にもう一人の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世的な国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、別の犯罪人は、イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われているのだと直感しています。
このようにこの犯罪人にはイエス様が超越した国の王であることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこういうことを約束してくれる方がおられるというのは何と素晴らしいことでしょうか!
この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。創世記にあるように人間は堕罪が原因で造り主の神との結びつきを失い、結びつきのないままこの世の人生を送り、この世の人生を終えたら結びつきがないままこの世を去るしかない存在になってしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげよう、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと思いました。それらを可能にするためにイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に開かれたのです。
そこで人間が、これらのことは本当に起こったのだ、それでイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きることになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままで復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。
ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中には神の意志に反するものがよどんでいます。何かの拍子にそれに気づかされた時、キリスト信仰者はがっかり意気消沈します。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の驚くべき計画によってあの十字架が歴史上打ち立てられた以上は、あの方は私の救い主であり続け、救い主である限り神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もうがっかりも意気消沈もありません。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味します。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、罪の赦しという神のお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。
4.勧めと励まし
本日の福音書の犯罪人は息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けました。そうすると、どうせ最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば罪を赦されて天の御国に迎え入れてもらえるのだから、その前は別にイエス様を信じず洗礼を受けなくても問題ないではないかと言う人もいるかもしれません。実際、そういう方とお話ししたことがあります。以前の説教でお話ししたことですが、ここで改めて取り上げたく思います。最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性は否定しません。しかし、考えなければならないことが二つあります。
一つは、洗礼を受けると聖霊が授けられるというキリスト教の伝統です。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけだと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけだと、イエス様のことを誰もこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の観点です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。
もう一つ考えなければならないことは、「神の祈りの学校」の在学期間です。「神の祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間でよく口にされる言葉です。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならずに失望や挫折することがあるかもしれない、しかし、そういうことを通してでも神は人間の望みよりも大きなことを与え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。在学期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?そういう心が持てれば、主の再臨が生きている間に来ようがこの世を去った後に来ようがどっちでもよくなると思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン