2025年4月22日火曜日

過越祭から復活祭へ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年4月20日 復活祭

 

イザヤ書65章17~25節

コリントの信徒への第一の手紙15章19~26節

ルカによる福音書24章1~12節

 

説教題 「過越祭から復活祭へ」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、その意味は「過越し」です。あのモーセ率いるイスラエルの民がエジプトを脱出した時の出来事であり、それを記念する祝祭です。つまり、フィンランド語では旧約聖書の「過越祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言い表すのです。英語や日本語では別々の言い方をしているのに、どうして一緒なのかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事が過越祭の期間に起こったからでした。なので、フィンランド人はキリスト教会がパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、これは「復活祭」、ユダヤ教の人たちがパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、それは「過越祭」という具合に頭の中で切り替えしているのです。(因みに、スウェーデンでも「過越祭」と「復活祭」は同じ言葉で言い表します。ポスクと言います。)

 

 さて、イエス様が十字架に架けられて死んで葬られた次の週の最初の日の朝、付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃しました。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになる出来事が起きたのでした。遺体がなくて途方にくれていた女性たちに天使が言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活されたのだ。」「死者の中に」と言うのは、ギリシャ語原文では複数形なので、正確には「なぜ、死んだ者たちの中から生きておられる方を捜すのか」になります。古今東西この世から亡くなった人は無数にいたわけですが、十字架刑に処せられて死んでしまったイエス様もその中に加えられてしまった、ところが、突然そこから飛び出すように出て行ってしまったということです。つまり、復活というのは、イエス様が死と縁を切った、無関係になったということです。

 

 それと、大勢の死んだ者たちの中から真っ先に飛び出したということは、今日の使徒書の日課、第一コリント1520節で言われていること、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたことです。つまり、イエス様が死を踏み越える復活を遂げたのは初穂で、私たちも後に続く、言わば、先陣を切ったということです。そういうわけで、今日の説教では、復活とは死と無関係になるということと、私たちもイエス様に続いて復活を遂げられるようになったことについて見ていこうと思います。

 

2.復活とは何か

 

 その前に、そもそも復活とは何かということについて述べておきます。これは毎年復活祭の礼拝説教で述べていることですが、大事なことなのでおさらいしておきます。

 

 よく混同されますが、復活はただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても将来の「復活の日」に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 「復活の体」については、使徒パウロが第一コリント15章の今日の日課の後で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(5254節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ1225節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体は地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所からうかがい知ることができます。ルカ24章やヨハネ20章で、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。他にもいろいろあります。エマオに向かう道で二人の弟子に起きた出来事、墓の前でのマグダラのマリアとのやり取りなど。それらについては、当該箇所が日課になった時に改めてお話しします。

 

3.イエス様の十字架の死で罪は打撃を被り、彼の復活で死は足蹴にされた

 

 復活によりイエス様が死と無関係になったことは、ローマ6章の中でパウロが教えています。「キリストが死から復活したということは、もう死なないということであり、死は彼を支配下に置けなくなったということである。それなので、キリストが死んだというのは、一度にして罪に打撃を与える死だったのである。そして、キリストが生きるというのは、神に結びついて生きるということである。」新共同訳では「ただ一度罪に対して死なれた」となっていますが、これはギリシャ語の用法で「罪が不利益を被るように死んだ」という意味なので、キリストの「罪に対する死」は「罪に打撃を与える死」と理解します(後注)。イエス様が十字架で死なれたことで罪は打撃を被り、復活することで死を足蹴にしたということです。ここで、罪と死が結びつけられて言われています。キリスト信仰の人間観がここに凝縮されています。

 

 キリスト信仰で罪というのは、単なる犯罪行為ではなく、もちろん、それも含みますが、もっと広く、神聖な神の意思に反しようとする性向のようなものです。人間誰しもが持ってしまっているというのが聖書の観点です。神の意思は十戒の中に凝縮されています。他人を傷つけるな、夫婦間の貞潔を守れ、真実を曲げるな、他人に対して妬みや憎しみを抱くな等々、私たちの行動様式や思考様式の現実を映し出す鏡のようなものです。たとえ行いや言葉に出さなくても、私たちの造り主の神は心の中はどうかと見ておられます。今でこそ言葉や行いに出さなくても、境遇や環境が変われば出してしまうかもしれないので、人間は誰でも潜在的に持ってしまっているというのです。今の世界で起きていること、世の中の周りで起きていることを見れば誰もが持っていると認めざるを得ないでしょう。このような罪は、神が最初の人間アダムを造った後で人間の中に入り込んでしまったことが創世記の中に記されています。それがもとで人間は死ぬ存在になってしまったことも。パウロがローマ623節で罪の報酬は死であると言っているのはこのためです。人間は代々死んできたことから明らかなように、罪も代々受け継いでしまったのです。それで、今日の使徒書の日課、第一コリント1522節で、アダムを通して全ての人間が死ぬと言うのです。

 

 ところが、同じ個所には続きがあります。「アダムを通して全ての人間が死ぬように、キリストを通して全ての人間が生きられるようになる。」つまり、最初の人間アダムが罪を人間の中に内在化してしまったためにその後の人間の運命を死に定めてしまった。しかし、キリストがそれを逆転して人間の運命を死から死を超えた命に移し替える可能性を開いたということです。イエス様はどのようにして人間の運命を逆転させたのでしょうか?

 

 それは彼の十字架の死をもってなされたのでした。イエス様は人間皆が持っている罪を全部引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで罪が必ず受けなければならない神の罰、神罰を人間に代わって受けられたのでした。人間が受けて神のみ前から滅び去ってしまうことがないようにと神のひとり子が身代わりになって受けられたのでした。さて、神罰は下されたので罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの状況に入りさえすれば、人間は罪を償ってもらった者として生きることができます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。干からびた虫けらのようになったのです。このことがイエス様が神罰を受けて死なれたことで起こったのです。罪はイエス様と抱き合わせの形で断罪されたのです。

 

 このことからも、なぜ神のひとり子が人間として生まれて来なければならなかったかがわかります。もし神のひとり子が天の父なるみ神のもとで永遠に悠々自適の生活をしていたら、身代わりの断罪など永遠に起きません。乙女マリアから生まれ人間の肉体を持つことで、神のひとり子は死ぬことができるようになったのです。。神罰を受けるのにピッタリな存在になったのです。それだけではありません。ヘブライ4章で言われるように、神のひとり子として罪を持たない側面はそのままだったが、人間として生まれてきたことで、人間の苦しみや悲しみもその心と体でわかるようになったのです。天でふんぞり返っていたらわかりません。このようにひとり子をご自分のもとから私たち人間のもとに贈って下さった神の御名は永遠に讃えられますように。そして、私たちのもとに贈られて神の御心通りに務めを果たされた御子は永遠にほめたたえられますように。

 

4.罪が償われた者として、復活の日を目指す者として

 

 さて、イエス様の十字架の業のおかげで、罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの中に入ることができさえすれば、罪を償われた者として神との結びつきを持てて生きることができるようになります。どうすれば入ることができるでしょうか?それは、神の計らいによって罪の償いは本当に起こった、それを実行したイエス様は本当に救い主です、と信じて洗礼を受けることで入れます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。しかし、それでも人間はこの世から死にます。しかも、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになっても自分の内にはまだ神の意思に反するものがあることに気づきます。イエス様がもらした逆転はどこに行ってしまったのか?まだ自分はアダムの末裔のままなのか?

 

 いいえ、そういうことではありません。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたものはイエス様のもたらした逆転の中にちゃんといます。そのことは、パウロがローマ6章で明らかにしています。洗礼を通して人間はイエス様の十字架の死に結びつけられる、そうするとイエス様が罪に大打撃をくらわしたことがその人にもその通りになります。信仰者が罪に対して、お前は打撃を受けているのだ、わからないのか、と言えば、罪はおずおずと引き下がります。洗礼を通して人間が結びつけられているのはイエス様の死だけではありません。イエス様の復活にも結びつけられます。ここが微妙なところです。復活されたイエス様は確かに肉の体ではない復活の体を持っていて、いつでも天の父なるみ神のもとに戻れる状態にありました。しかし、私たちは洗礼を受けても肉の体はそのままです。復活の体ではありません。

 

 それは、洗礼を通してイエス様の復活に結びつけられたというのは、将来の復活の日に向かう道に置かれて今そこを歩んでいるということなのです。将来の復活の日とは、今日の日課の第一コリント1523節にあるように、イエス様が再臨する日のことです。その日に向かって延びる道を私たちは神との結びつきを持って進んで行きます。なので、神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みの中に留まっている限り、私たちは道を踏み外すことはないのです。それで私たちにとって復活は、ルターが言うように、もう半分は起こったことなのです。残り半分は約束されたものとして今はまだ秘められているのです。

 

5.勧めと励まし

 

 説教の初めに、フィンランドやスウェーデンでは過越祭と復活祭は同じ言葉で言い表すと申しました。二つの全く異なる祝祭には驚くほど共通点があります。モーゼの過越しの時は小羊の血を家の入口に塗ることで、神はそれを見てその家に罰を下すことはしませんでした。イエス様が十字架に架けられて犠牲になって下さったおかげで、私たちは神から罰を受けないで済むようになりました。イエス様が贖罪の小羊にたとえられるゆえんです。マルコ10章でイエス様は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たと言われます。キリスト教会ではイエス様が十字架で流された血が人間を罪と死の支配下から救い出す代価になったと言います。

 

 モーゼ率いるイスラエルの民は奴隷の国エジプトを脱出して約束の地カナンを目指して40年間シナイの荒野を進みました。キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって罪と死が支配する状況から脱出しました。そして復活の体を纏ってもらえる神のみ国を目指して今はこの世という荒野の中を進みます。ところで、イスラエルの民は移動中、神に何度も窮地を救ってもらいながら反抗して罰を受けました。私たちもこの世の荒野の中で試練を受け、神を疑うこともあります。しかし、私たちがどう思おうが、罪の赦しの恵みはそんなのおかまいなしに微動だにしません。なので、私たちがあらゆる疑いをかなぐり捨ててその恵みに留まりさえすれば、私たちと神との結びつきは同じように微動だにしないのです。イスラエルの民はなんとかカナンの地に到達しますが、それはまだハッピーエンドの最終目的地ではありませんでした。復活の日に現れる神のみ国こそが最終目的地です。このように復活祭は、過越祭を花のつぼみにたとえると見事に咲き開いた花と言えます。それはまた旧約聖書に対する新約聖書の姿形でもあります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注)「罪に対して」の与格はdativus incommodiに解しました。そうすると「神に対して」の与格はdativus commodiになり、「神にとって益となるように」の意味になります。それをもっと具体的に言い表せないか、ということでローマ14章に「主のために」の与格が何度も出てくるところに注目しました。「主のために」とはどういうことか、それは8節で「主のもの」(属格)となると言っていることと同じです。なので、6章の「神に対して」/「神にとって益となるように」も同じように「神のものとなる、神と結びつく」というふうに理解しました。

2025年4月19日土曜日

イエス様の十字架 - 人間の出発点、いつでも立ち返れる原点 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年4月18日 聖金曜日

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「イエス様の十字架 - 人間の出発点、いつでも立ち返れる原点」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに - イエス様の受けた十字架刑

 

 イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

 

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景でした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

 

2.イエス様が十字架で受けた真の苦しみ - 神罰の苦しみ

 

 しかしながら、イエス様が受けた激痛は肉体的なものだけではありませんでした。魂の激痛もありました。魂の激痛とはどんな激痛でしょうか?

 イエス様の十字架の死は、表向きは次のように言うことが出来ます。ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスは権威ある教えと奇跡の業をもって大勢の支持者を集めた、それが当時のユダヤ教社会の指導層にとって脅威となった、それで彼は支配国であるローマ帝国に反乱を企てる者として引き出されて死刑判決を受けた、そういう歴史上の権力闘争の一コマであると。

 

 しかし、イエス様の十字架の死は歴史の一コマに留まるものではありませんでした。それは、その後の世界の歴史の進路に大きな影響を与え、現代世界においても一人一人の人間の魂に影響を与えるものとなっています。どうしてそうなのか?それは、万物の創造主である神がイエス様の十字架の死をそのようなものに仕組んだからです。つまり、それは神の計画の実行だったのです。人間の権力闘争は見かけ上のことだったのです。

 

 イエス様の十字架の死が神の計画の実行だったことは、先ほど朗読したイザヤ書から明らかです。その個所は、イエス様の時代の何百年も前に書かれた預言です。そこで言われていることが実際に起こったのです。

 

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とありました。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が自分の内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は人を傷つけたり欺くようなことは行ってはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。それで神のみ前に立たされた時、私は潔白です、やましいところは何もありません、などと申し開きはできないのです。近年ではSNSを悪用して神の意思に反することをもっとするようになってしまいました。ますます申し開きできなくなりました。こういうふうに言うと、そんな自分に都合悪いことを言う神などいらない、と神はますます遠ざけられていきます。

 

 そんな罪の言いなりになって、知らず知らずのうちに罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの状態、奴隷の状態から解放してあげようと手立てを考えたのでした。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰をご自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済む状況を作り出したのです。人間はその状況に入れると罪の奴隷状態から解放され、その言いなりにならないで済むようになるのです。

 

 このような状況を作り出す前の段階でイエス様は、自分がこれから受ける苦しみは肉体的な苦しみを越えた魂の激痛であることをわかっていました。マタイ、マルコ、ルカ福音書にゲッセマネというところでのイエス様の祈りが記されています。最初、父なる神よ、出来ることならこれから起こることになる苦しみの杯を飲まないですむようにして下さい、と祈ります。神のひとり子ともあろうお方、死者を生き返らせたり、嵐を鎮めるような奇跡を行った力ある方が恐れるくらいの苦しみが待ち受けていたのです。何しろ全ての人間の全ての罪の神罰を受けるのだから当然です。しかし、イエス様は最後に、父なる神よ、自分の願いではなく、あなたの御心が行われますように、と祈ります。先ほど読みましたヨハネ福音書の個所でも、弟子たちがイエス様の逮捕を阻止しようとした時、イエス様は、父なる神が与えた杯だ、飲まないわけにはいかないのだと言ってやめさせます。

 

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪を持ってしまって神と切り離された状態にいて、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきを持てて行き先がわかるようになってこの世を生きられるために神は人間の罪を全てひとり子のイエス様に償わせたのでした。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。十字架の出来事が歴史の一コマに留まらずに今日に至る世界の歴史の中の人々の魂に影響を与えたのは、創造主の神のひとり子が魂に激痛を受けたことと無縁ではありません。

 

 イエス・キリストの十字架の出来事は、先ほど見たイザヤ書の個所で詳細に預言されていますが、その他にも、イエス様が十字架の上で「渇く」と言われた時、近くにいた人たちが彼の口元に酸いぶどう酒を差し出したこと、これは詩篇6922節に預言されていたことが起こったのでした。十字架刑を監視していた兵隊たちがイエス様の服をくじ引きで分け合ったことも詩篇221922節に預言されていたことが起こったのでした。このように創造主の神は出来事が起こる何百年も前に計画がどのように実現するかお見通しだったのです。

 

3.イエス様の十字架 - 人間の出発点 キリスト信仰者の立ち返る原点

 

 神は、イエス様に神罰を受けさせることで人間が受けないで済む状況を作り出しました。どうしたら人間はその状況に入ることができるでしょうか?それは人間が、こうしたことは本当に起こったのだ、だからイエス様は私の救い主だ、と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。それで神との結びつきを持てるようになって結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の言いなりになって他人だけでなく自らも傷つき心が病んでしまった人の癒しがそこから始まります。まさに、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りです。

 

 神のひとり子に罪を償ってもらって神から罪を赦されたと見なされる者は果たして罪の言いなりにならないようになるのか、本当に罪の奴隷状態から解放されるのか、について先ほど朗読した「ヘブライ人への手紙」10章の16節と17節が明らかにしています。

 

 17節で神は「人間の罪や背きを思い出すことをしない」と言われます。これはエレミヤ3134節にある神のみ言葉です。十字架の出来事の500年以上も前に述べられていました。神は、私たちの罪を償って下さったイエス様を救い主と信じる者に向かってこう言われるのです。「私の愛するひとり子の犠牲に免じて、お前の罪をもう思い返さないことにする、不問にする、だから、お前はこれからは罪を犯さないようにしなさい」と慰め励まして下さっているのです。これが神の罪の赦しです。この時、人間は、新しい自分というものが神のひとり子の犠牲の上に始まった、これからは気をつけて生きなければと襟を正します。その時神の意思に沿うように生きなければと透徹した謙虚さが生まれます。それが16節で言われる、神が掟を私たちの心や理解に書き記されるということです。イエス様の十字架の出来事の前は、神の掟は人間の外側にあって人間は頑張って実行しなければならないものでした。それが、私たちの身代わりとなって神罰を受けたイエス様を救い主と信じると、神の掟は内面化するのです。体の一部になるのです。だから、イエス様の十字架は新しい生き方の出発点なのです。

 

 イエス様の十字架を出発点にして新しく生きるようになっても、神の掟が内面化されると、今度は神の意思に対して以前にも増して敏感になります。自分には神の意思に沿わないことが沢山あると気づかされてしまいます。さすがに行為として出すことはなくなり、言葉遣いも慎重になるかもしれませんが、思いでは沿わないことを持ってしまいます。その時、自分はイエス様の犠牲を損なってしまったと気づき情けない思いになります。しかし、洗礼を受けた時に与えられた聖霊がキリスト信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。その時、かつて打ち立てられた罪の赦しの十字架は今も揺るがずに確固としてあることを見ることができます。あそこに架けられた主の両肩の上に自分の罪がのしかかっているのだとわかれば、再び厳粛な気持ちになってもう罪をおかさないようにしようという心になるでしょう。それで、イエス様の十字架はキリスト信仰者にとっていつも立ち返れる原点でもあるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2025年4月9日水曜日

ナルドの香油から洗礼へ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年4月6日 四旬節第五主日 スオミ教会

 

イザヤ書 43章16~21節

フィリピの信徒への手紙 3章4b~14

ヨハネによる福音書 12章1~8節

 

説教題 「ナルドの香油から洗礼へ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに - なぜ福音書は4つあるのか

 

 本日の福音書の日課は、イエス様の受難が近づく頃、マルタの姉妹のマリアが高価な香油をイエス様の足に塗ってそれを髪の毛で拭いたという出来事についてです。過越祭の6日前ということは、イエス様の受難と十字架の出来事の6日前のことです。そのため、マリアの行いは、死んで葬られるイエス様の遺体に香油を塗ることを前触れのように行ったものとして考えられてきました。イエス様の死を先取りした行いということです。

 

 マリアが塗った「純粋で非常に高価なナルドの香油」というのは、ナルドというインドが原産地の植物で赤紫色の花が咲き、香りは葉っぱから出るそうです。旧約聖書の雅歌の中にも出てきます。その時代からインド産のものがパレスチナの地に出回るような交易があったのかと驚かされます。ただ、パウロの出身地のタルソスにはナルドの香油が作られていたということなので、地中海沿岸でも栽培されていた可能性があります。どの位高価なものか、1リトラが300デナリ相当と言われています。リトラはローマ帝国の重量の尺度で1リトラは大体300グラム、デナリの方は当時の労働者の一日の賃金が1デナリだったので、300デナリは300日分の賃金。ちなみに、今の東京の最低賃金は1,163円、一日8時間働いて9,304円、その300日分は279万円。これが300グラムの値段なので1グラム9,000円です。誰が見ても高価な香油です。

 

 この香油の出来事はマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にもあります。ただし、マタイとマルコはヨハネと記述が異なっています。場所はエルサレム郊外のべタニア、食事の時の出来事だったことは同じです。誰の家での食事だったか、ヨハネは記していませんが、マタイとマルコは「らい病の人シモンの家」と明記しています。他方でヨハネは、イエス様が死から生き返らせたラザロが食事に招かれていたこと、彼の姉妹のマリアとマルタもいて、マルタの方は給仕の手伝いをしていたことを記しています。マルタが給仕をしてマリアが別のことをするというのはルカ10章にもありました。マリアはイエス様の教えを聞くことに集中してマルタから文句を言われました。今日のところでもマルタが忙しそうにしているのが目に浮かびます。ここでもマリアは給仕とは無関係のことをします。それが香油注ぎでした。ただし、今日のところで文句を言うのはマルタではなく、イスカリオテのユダでした。

 

 マルコ福音書とマタイ福音書は、香油はイエス様の頭から注がれたと記しています。ヨハネ福音書は足に塗ってそれを髪の毛で拭ったと。そこで高価な香油をそんな使い方したことを憤慨し、貧しい人々に施すべきだったとイスカリオテのユダが言います。マタイとマルコでは誰が言ったかはわかりません。

 

 こういうふうに4つの福音書は、同じ出来事を扱っていても細かい点で違っていることがよくあります。どうしてそうなるのかと言うと、福音書を書いた人たちは記録や歴史の専門家ではなく、直接の目撃者だったり、目撃者から話を聞いて書き留めたものを後でまとめた人たちです。こうして最終的に4つの別々の記録が出来上がったということです。彼らにとって、自分の目で見たこと耳で聞いたことが大事な資料です。目で見たこと耳で聞いたことから受けた印象や影響が違ったりすると、同じ出来事を扱っても、人によってはある面を前面に出し別の面は背後にする、別の人は別の面を、ということが出てきます。スウェーデンの有名な釈義学者のB.イェールツが言っていますが、何かの事件の裁判で証人が4人いたとする、もし全員の証言が細部まで一致していたら、裁判官はこれは裏で辻褄を併せる相談をしたに違いないと疑うだろう、逆に細部は食い違っても出来事そのものが一致していれば証言の信ぴょう性は高いと考えるだろう、福音書もこれと同じなのだ、と。

 

 それなので、福音書で同じ出来事を扱っている個所に出くわしたら、これはマタイの視点で見たもの、マルコの視点で見たもの、というふうに受け止めて、それぞれの視点でそれぞれは真実であると受け入れる、同時に、マタイが見落としていることをマルコが自分の視点で取り上げたと受け止めて、最終的には4つの視点が大きな全体を作り上げているのだと把握する、つまり、真実はそれぞれのところと全体的なところの両方にあるという観点で福音書を繙くことが大事です。なぜかと言うと、そうすることで信仰は深まり強まるからす。だから、福音書が4つあるのはまさに神の御心なのです。

 

2.ナルドの香油から洗礼へ

 

 そういうわけで、今日はべタニアの香油の出来事をヨハネの視点で見ていきましょう。マルコとマタイの記述では香油はイエス様の頭からかけられました。ヨハネでは足に塗られて、それを髪の毛で拭うことをしました。それを行ったマリアはイスカリオテのユダから非難されます。なぜ、香油を売って貧しい人に施さなかったのか、と。そこで福音書記者のヨハネはユダがそう言った本心について注釈します。本当は貧しい人のことを思ってそう言ったのではなく、イエス様一行のお金をちょろまかしていたので、それで香油が現金化されなかったのが悔しかったのだと。このユダの偽りの発言に対してイエス様が言い返します。

 

「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 この言葉はユダのマリア批判のすぐ後に言われます。それで、「するままにさせる」とは、この時マリアが髪の毛で香油を拭っていることを指します。

 

 イエス様の言葉の次の部分、「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」はギリシャ語の原文がとても厄介です。素直に直訳すると「彼女が私の葬りの日まで香油を保てるために」です(後注)。これは変です。イエス様は、マリアが彼の足に塗った香油を髪の毛で拭っているのをそのままさせなさい、と言いました。そして、それをさせるのは、マリアが葬りの日まで香油を保てるためだと言うのです。今している髪の毛による拭いをさせるのは、葬りの日まで香油を保てるようにするためなのだと。香油は使ってしまったではありませんか!なので、それを葬りの日まで保つことなど出来ません。

 

 ここは訳をする人は皆悩んだと思います。訳者たちが考えた解決方法は次のことです。マルコ福音書とマタイ福音書では香油はもうすぐ起こる葬りのために前もって体に塗ったと言っています。本当は遺体に塗るべき香油であるが、まだ生きている段階で塗って葬りの準備をした、イエス様の死は不可避だという印をつけたという意味です。それと同じ意味を訳者たちは、このヨハネ福音書の不可解な個所、塗った後も香油は保たれるなどと言う箇所に当てはめたのです。日本語の訳も英語の訳もフィンランド語もスウェーデン語もドイツ語も皆同じです。本当は葬りの日に使うべき香油を前もって使用したという意味にしたのです。

 

 この解決法は、マタイとマルコの視点とヨハネの視点を一致させるものですが、私としては違う言い方をしている以上は、やはりヨハネは別の視点があるのではないかと疑います。それで、この難解な個所をマタイとマルコを参考にしないでヨハネの視点は何かを追求していこうと思います。

 

 マリアがイエス様の足に塗った香油を髪の毛で拭うのは、イエス様の葬りの日まで香油を保つためである。これがヨハネの書き方でした。マルコとマタイの場合は、香油は頭からかけられ、遺体に香油を塗ることを前もって行ったのだという書き方です。なので、塗られた香油を髪の毛はおろか何か拭うもので拭うこともしません。ヨハネの場合は、塗るのは足に限定していて遺体のように体全体に塗ることとは趣きが異なります。まず、足に香油を塗ることを足を清める意味に理解します。というのは、ヨハネ13章でイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、君たちもお互いに同じようにしなさいと教えたことがあるからです。上に立つ者も下にいる者に対して仕えることをしなければならない。このように、足を清めることが仕えることを意味するならば、マリアがイエス様の足に高価な香油を塗ったのも仕えたことになります。ただし、イエス様の場合は罪のない神聖な神のひとり子なので足洗いのような罪の洗い清めの意味はありません。高価な香油を塗ってこれから十字架の死に向かう受難の道を歩む足を聖別する意味になります。このようにマリアは仕えることをしたのです。

 

 もっと大事なのは、マリアが足に塗った香油を今度は髪の毛で拭ったことです。そうすることでマリアの髪の毛にも香油が塗られたことになり、部屋いっぱいに広がる位の強い芳香はイエス様の足だけでなくマリアの髪の毛にも漂うことになります。これがまさに、マリアが葬りの日まで香油を保つこと、自分の体の一部にして保つということなのです。マリアのこの香油の保ちはイエス様の受難を自分に身近なものにする、自分のものにするということです。イエス様は、自分の葬りの日まで香油をつけておいて自分の受難を身近なものにしていなさいということを意味したのでした。

 

 それでは、イエス様が葬られたら受難は終わったので髪についた香油を取り除かなければならないのか?洗い落とさなければいけないのか?でもそれは、たとえ香油の香りが髪の毛に残っていたとしても、イエス様の受難は終わってしまったのだから、その香りにはもう受難を身近なものにする、自分のものにする意味はなくなります。

 

 しかし、その代わりにイエス様の受難を自分のものにする新しい仕方が始まりました。洗礼です。使徒パウロはローマ6章で、洗礼を受けてイエス・キリストに結びつけられた者はキリストの死にも結びつけられたと教えます。キリストの死に結びつけられたからにはキリストと共に葬られたのだと。しかし、洗礼が人を本当にキリストに結びつけるものならば、死と葬りとの結びつきはまだ道半ばです。なぜなら、キリストは死んで終わったのではなく、三日目に創造主の神の想像を絶する力で復活させられたからです。だから、洗礼を受けてキリストに結びつけられた者はキリストの復活にも結びつけられたのです。キリストの復活に結びつけられると、永遠の命に結びつけられます。それまで神の意思に反しようとする性向、罪のために永遠の命から切り離されていた人間は洗礼によって永遠の命に結びつけられます。無理やりと言っていい位に力強く結びつけられます。その瞬間、罪はその人からはじき出されたみたいになって、その人を支配する力、コントロールする力、牛耳る力を失います。

 

 もちろん、人間はキリスト信仰者になっても肉を纏っている以上は罪が残存しています。しかし、それは信仰者から永遠の命を切り離す力をもう持っていないのです。干からびた虫けらのようなものなのです。それで、信仰者が自分の内に神の意思に反するものがあることに気づいた時はいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けます。そうすれば、あの時打ち立てられた罪の赦しは微動だにしていないこと、自分は罪の赦しの恵みの中で生きていることをいつも確認できます。その度に、あの抗しがたく感じられた罪の思いは潮が引くように退いていきます。その度に、罪は本当に支配力を失っていることと、それを可能にしているのはまさしく罪の赦しの恵みであることがわかり、その確信は日々強まっていくのです。これがパウロの言う、罪に対して死に神に対して生きるということです。

 

3.勧めと励まし - 貧しい人々を神の国へ

 

 イエス様は再臨する日までこの世から離れていますが、貧しい人々をキリスト信仰者に委ねました。それにどのように応じたらよいのでしょうか?イエス様がこの世にいない今の時は300デナリを分け与えるのが良いやり方でしょうか?でも、それだと300人に一日分の賃金を与えた後はどうなるか?支給対象を100人に絞ってそれぞれに三日分の賃金を与えるのは?そのようなやり方では資金はすぐなくなってしまいます。もっと持続可能なやり方を考えないといけません。キリスト信仰者にとって持続可能な貧しい人々の支援策はなんでしょうか?

 

 イエス様が貧しい人々について何を言っていたかを見てみましょう。ルカ6章で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。マタイ5章を見るともっと限定して「霊的に貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。「霊的に貧しい」は日本語訳では「心の貧しい」ですが、ギリシャ語原文も他国の訳も「霊的に貧しい」です。「霊的に貧しい」というのは、神の意思は正しい、十戒は正しい、だからそれに沿うように生きなければと思っているのに、それに反することを考えてしまったり、言葉や行いに出してしまう。それで、自分は神から離れてしまっていると気づいて悲しんだり沈んでいる人たちです。どうしてそのような人たちが復活の日に復活を遂げて神の国に迎え入れられるのでしょうか?

 

 それは、そのような人たちは、自分の力では神に義と認められないとわかっているからです。自分の力でできないので、別の力が必要だと痛感している人たちです。イエス・キリストの十字架の業による罪の償い、罪からの贖いの業がまさにそうした別の力の働きです。イエス様の業のおかげで、彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神に義と認められるのです。キリスト信仰者は、基本的に皆、も霊的に貧しい人たちです。自分の至らなさを自覚しています。だからイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神から義と認められて、将来、神の国に迎え入れられるのです。

 

 それなので、キリスト信仰者は霊的に貧しい人も経済的に貧しい人も、まずは神の国に迎え入れられるように導くこと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神の国がその人のものになるように導くこと、これが持続可能な助け方ではないかと思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注) ヨハネ127

αφες αυτην, ινα εις την ημεραν του ενταφιασμου τηρηση αυτο.

これを英語にそのまま転換すると、

Let her (do this) /Allow her (to do this) so that she might keep it (=perfume or ointment?) until the day of my burial.