2025年2月10日月曜日

『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

主日礼拝説教 2025年2月9日顕現節第五主日 スオミ教会

 

イザヤ書6章1-8

コリントの信徒への第一の手紙15章1-11節

ルカによる福音書5章1-11節

 

説教題 「『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていく場面です。これと同じ場面がマルコ福音書とマタイ福音書にもありますが、違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。彼らが把握していたのは漁師たちがイエス様につき従ったという結果だけだったようです。ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということです。今日の説教はルカの個所をもとに説き明かしをしていきます。

 

 「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。ペトロや他の弟子たちは本当にそういう勧誘員だったでしょうか?今日は、「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。

 

2.神聖な神を前にした時の罪の自覚と神への恐れ

 

 舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかったのを見てペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫びました。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?

 

 少し出来事を振り返ってみましょう。イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないことです。

 

 岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。

 

 しかし、ペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。だけど、このお方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方だ。それで、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。

 

 半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の大量の魚で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは怖くなって叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。

 

 それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。

 

 本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内には神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んだのです。

 

 ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、自分の意思に反するものを汚れとして焼き尽くす炎の力が備わっています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

 

 このように、人間が真の神を間近にする時、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。なので、神を間近にしてしまった時、自分を神の意思に照らし合わせる人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせをしない人は恐れを抱きません。こう言うと、私は恐れなんか抱いて生きたくないから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。そこで、人間を捕る漁師になった使徒たちは何をしたのでしょうか?神への恐れと罪の自覚を呼び覚ますことだったでしょうか?

 

3.神に関わる真実は無かったことにはできない

 

 イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員になって人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身でした。弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られていました。活動内容も神の国が近づいたと告げ知らせることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちが伝道した町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったと思われます。

 

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づいて、あのお方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。人々は、このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子だとどんどん信じるようになっていきました。最初、彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。

 

 こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったと言えます。そしてイエス様が天のみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。ユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。

 

 使徒たちが権力者に脅されても怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのに無かったなどと、とても言えません。真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけだったら、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を揺るがないものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関わる真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚を持つと、神に関わる真実はますます無かったことにできなくなります。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかにはならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを諦めるようなことはしない、そういう心になるのです。

 

 無かったことにできないという神に関する真実をもう少し詳しくみてみましょう。あのお方は十字架にかけられて死なれたが三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たということが土台にあります。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだとわかりました。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかりました。それで、自分たちもこの世からの死で全てが終わって消滅してしまうのではない、将来、復活の日にイエス様のように復活させられて神の御許に迎え入れられることがわかりました。この一連のわかったことが曲げられない無かったことにできない真実でした。それではどうして使徒たちはイエス様の復活があったので自分たちも復活させられる、そして神の御許に迎え入れられるとわかったのでしょうか?

 

 それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする性向、すなわち罪の問題をイエス様が私たちに代わって解決して下さったとわかったからです。あの方の痛ましい十字架の死は実は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の死であったこと、神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さったことがわかったからです。使徒に続く人たちは、これらのことが全て本当に起こったとわかって、しかも、それらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神はなんと私たちのために約束を果たす忠実なお方であるかと敬愛し、神罰を受けて下さったイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける、そうすればイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いをそっくりそのまま自分のものにすることができる。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。ここからも明らかなように、神は信仰と洗礼の目的として復活の日に私たちを御国に迎え入れることを定めているのです。それなので、神が私たちをその道に置いた以上は、神は私たちが道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 神聖な神を間近にしたら人間は罪の自覚と神への恐れが生じます。間近になることがなくても、かの日に神の御前に立たされることを考えたら自覚と恐れを感じます。しかしながら、神への恐れで終わらないのがキリスト信仰です。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくると言ってもいいです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。こう言っても、まだピンとこなければ、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰です。その信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいことに付き合ってられないと言って離脱するかのどちらかです。キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだとわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。

 

 このように罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に沈んでしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。人を底から岸辺に引き上げる網のような道具は、聖書の御言葉です。使徒たちが目撃したこと、イエス様から見聞きしたこと、イエス様の十字架と復活を通して旧約聖書がわかったこと、使徒たちはこれらを無かったことにできない真実として人々に伝えました。彼らの命を顧みない証しや伝道を聞いた人々は真実を受け入れてイエス様を救い主と信じていきました。彼らの無かったことにできない真実が漁師の網だとすれば、その真実は全て聖書に収められています。それで聖書は使徒という漁師の網なのです。

 

 多くのキリスト教会では今日の日課について説教する時、イエス様は人間を捕る漁師になれと言って弟子を集めた、だから我々クリスチャンは人間を捕る漁師にならなければならないと説教するのではないかと思います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは人間を捕る漁師になる必要はありません。本当の人間を捕る漁師は直接の目撃者である使徒たちです。その証言と教えをもって新約聖書を作り上げた使徒たちです。私たちは直接の目撃者ではありません。聖書も形作っていません。私たちは、聖書という使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年2月4日火曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月2日顕現節第四主日 スオミ教会

 

エレミア書1章4-10節

コリントの信徒への第一の手紙13章1-13節

ルカによる福音書4章21-30節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の説教は先週の続きです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当しました。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という427節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること、その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと、そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと、これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。そうすることで人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。その後で何が起きたでしょうか?

 

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この後でイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。みなイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみせろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないと見破りました。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、後にイエス様が十字架に架けられた時、彼を信じない人たちが口にすることになる言葉でした。

 

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ65節、マタイ1358節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラム王国の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った王国と同じ立場にある、というのです。

 

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

 

3.ゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ1411節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同626節)。

 

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことをその通りだと信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰を受けて滅亡した王国と一緒くたにするとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 

 このことから明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 

 しかしながら、父なるみ神は、人間がたとえ死んでも復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてこの世で生きている間は復活に至る道を無事に歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、神罰を全て彼に受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたことです。人間は、イエス様の身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様が果たして下さった罪の償いは本当にその人のものになります。この時、その人は信仰の目を持っています。

 

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神に背を向けたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを意に介せず、目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄み渡り冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

 

4.勧めと励まし

 

 以上、信仰の目を持つと自分の罪が見るようになるが、罪の赦しの恵みに留まれば大丈夫、何も心配はないことを見てきました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われていています。終わりにそのことを見ておこうと思います。

 

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、これらは、夫婦間だけでなく人間関係一般の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 

 「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」というのはどういうことでしょうか?「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(πανταは「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すべきでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされてもイエス様のおかげで大丈夫、神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 

 どうやって「全てにおいて信じられ、希望を失わない」でいられるのか?パウロはそれを8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは無用になってしまうのです。

 

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、この自分が愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、これらはかつていつも部分的、一時的にしか持てず、持てたと思いきや、すぐ消えてしまうの繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。自分が愛そのものになってしまっているのです。

 

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはまさにこのことです。当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知ることになる」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 

 それでは、「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

 

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたように、私も神の御国で愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたが前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さったことです。私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

 

そこで神は答えられます。

 

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を身に纏った。それからは衣を手離さないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前が手離さないように握りしめた純白の衣の重みでお前の内なる罪は日々圧搾されてお前を支配する力を失っていたのだ。イエスを救い主と信じる信仰に生きたお前は、聖餐のパンと葡萄酒で衣を手離さないように握りしめる力を得ていたのだ。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 

 パウロはフィリピ16節で次にように述べます。

 

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。