2024年12月30日月曜日

イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2024年12月29日 降誕節第一主日 スオミ教会

 

サムエル記上2章18-20、26

コロサイの信徒への手紙3章12-17節

ルカによる福音書2章41-52節

 

説教題 「イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様が12歳の時の出来事についてです。両親と一緒にエルサレムの過越祭に参加した後で行方不明になってしまった、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという出来事です。神殿でイエス様は神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。よく見ると、この出来事は私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。母マリアとイエス様のやり取りの中にその大事なことがわかるカギがあります。今日はそれについて見てみましょう。

 

2.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

 

 今日の個所はよく目を見開いて読むと、成人するまでのイエス様の生涯のことがいろいろわかってきます。マルコ福音書とヨハネ福音書のイエス様の記録は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。翻って、マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まり、双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。例えば、ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後のことは今日のルカ2章の箇所で12歳の時の出来事が記されているだけです。あとは洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年頃のことなので、この12歳の時の出来事は幼少期と大人期の間の長い空白期の中の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでもイエス様のことがいろいろわかってきます。

 

 まず、マリアとヨセフが毎年過越祭に参加していたことに注目します。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、どうしてエルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?それは、旅行が一家族で行うものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味があります。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、きっとまた誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたかがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端が窺えるのです。

 

 そして12歳の時に今までになかったことが起こりました。イエス様は両親と一緒に帰途につかず神殿に残りました。両親は行方不明になった子供を必死に探し回り、やっと見つかったと思ったら、なんと神殿で律法学者と議論しているではありませんか!マリアとヨセフの驚きようと言ったらなかったでしょう。この出来事について後ほど詳しく見てみます。

 

 この出来事の後のイエス様の様子はどうなったでしょうか?51節を見ると、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」とあります。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけない、いい子で生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

 

 洗礼者ヨハネ登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に抱く愛顧も増していった」です。そういうわけで、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年に育ったのでしょう。その彼がやがて、人間と神の関係の障害となっている問題、罪と死の問題を解決するために自らを犠牲に供する道を進むことになるのです。

 

3.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

 

 以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

 

 マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。マリアとヨセフは1日分の帰り路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。加えてエルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を行方不明の一人の子供を捜し出すというのは絶望的な感じがしてしまいます。その時の二人の必死の思いはいかほどだったか想像に難くありません。運よくイエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶどころではありませんでした。見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。なんだこれは、と両親が唖然とした様子が目に浮かびます。

 

 そこでマリアの問いに対するイエス様の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言ってはいないのです。「どうして捜したのか」と言うと、あなたたちは捜す必要はなかったのにどうして捜したのですか?と聞いていることになります。イエス様はそんなことは聞いていません。じゃ、何を聞いたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」少しわかりにくいですが、意味はこうです。あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」がそれです。「父の家」とは父なるみ神の家、つまりエルサレムの神殿のことです。ところが、ここも説明が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。もちろん、神殿はそうした事柄の一つですが、神殿の他にも「父に属する事柄、父に関する事柄」はあります。それでは、他にどんなことがあるのかということをこれから見て行きます。「私は、父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」。イエス様がいなければならない「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か?

 

 エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としてはまだ12歳です。ということは、言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でもお祈りし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの日、律法学者の話を耳にした時、以前だったら抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時は何が問題になっているかがわかるようになっていたのです。

 

 それでは、12歳のイエス様は律法学者の教えに対してどんなわかりかたをしたのでしょうか? 12歳のイエス様の言語能力と語彙力は、確かに30歳や40歳の学者よりも限られているかもしれません。しかし、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年頃になったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言って教えていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。なぜなら、神は彼の父だからです。イエス様はこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思については被造物である人間なんかよりもよくわかっていました。それで律法学者の公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。12歳のイエス様の言葉は学者が使う言葉とは違うけれど、神のことを全てわかっているので質問も答えも本質をつくものだったでしょう。人々が驚いたのも当然です。

 

 ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなければならないという意味ではなかったのです。そうではなくて、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力がありました。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるでしょうか?マタイ728節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」神のひとり子と人間の知識人の差は既に歴然としていたのです。

 

4.勧めと励まし

 

 ここでイエス様を捜す、見出すということについて、私たちの場合はイエス様を捜す、見出すというのはどういうことか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時とか、私たちに苦難や困難が降りかかる時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。キリスト信仰者は神に祈る時、必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」祈ります、ということです。他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主です、ということを父に知らせます。なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の神罰を代わりに受けて下さったからです。そのようにして私と神との間を取り持って下さったからです。そして死から復活されたことで私のために死を滅ぼして復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さったからです。今その道を共に歩んで下さっているからです。イエス様は、世の終わりまで一緒にいると約束されました。

 

 ところが、このように祈っても苦難や困難が終わらないと、イエス様は一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?行方不明になってしまったのか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰は、イエス様がそばにいたら苦難や困難は皆無という見方をしません。逆に苦難や困難があるのはそばにいない証拠だという見方もしません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。祈り願い求めているのにその通りにならないのはなぜかという質問をたてて答えを求めようとすると、日本の場合はすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰は、もちろん苦難困難は早く終わるにこしたことはないが、仮に早く終わらなくてもトンネルの出口を目指してイエス様が一緒に歩いて下さるという信仰です。

 

 それでは、苦難や困難の中でも、暗いトンネルの中でも、イエス様が一緒に歩いて下さることがどうしてわかるのか?それについては、彼が母マリアに言った言葉を思い出しましょう。「私は神に関わる事柄の中にいなければならない。」神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。まず、聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。行方不明なんかではありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちはこの暗闇のような世の中でひとりぼっちで立ちすくんでしまうこともないし、正しい方角もわからずにやみくもに進むということもないのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         

 

2024年12月27日金曜日

福音の光を心に届けるクリスマス (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2024年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカ2章1-20節

 

説教題 「福音の光を心に届けるクリスマス」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

1.はじめに

 

 今私たちはイエス・キリスト誕生に至る流れを聖書に基づいて駆け足で見ました。最後に朗読されたルカ福音書2120節はイエス様が誕生した時の出来事を伝える個所です。世界中のキリスト教会のクリスマス・イブの礼拝で朗読されます。このイブの日、日本やオーストラリアで世界に先駆けて朗読されます。そこからユーラシア大陸にあるキリスト教会、アフリカやヨーロッパにある教会、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸にある教会で朗読されて世界を一周します。天にいます父なるみ神よ、どうか、戦乱や自然災害、権威主義体制のもとで平和な礼拝を持つことが難しいところでも、今日大勢の人がこの聖句に耳を傾けて、外面的な混乱に左右されない内面的な平安を持つことができるようにして下さい。アーメン

 

 さて、毎年同じ聖句を読んで聞かされてキリスト教徒は飽きないのかと言われるかもしれません。これは飽きる飽きないの問題ではありません。この日はイエス様の誕生を覚える日です。主の誕生を覚えるのに何が相応しいかと言えば、この聖句に耳を傾けて思いを巡らすことをおいて他にはありません。キリスト信仰者は、創造主の神と自分自身との関係について、また信仰者として自分のこの世での立ち位置について、毎週日曜の礼拝や日々の生活の中で確認しながら人生を歩みます。同じ聖句を何度も読んだり聞いたりするのは、神の御言葉は何があっても揺るがない確固としたものだからです。そのようなものに照らし合わせてこそ神との関係や自分の立ち位置を確認することが出来るのです。揺るいでしまうものや確固としていないものに照らし合わせたら、神との関係も自分の立ち位置もわからなくなってしまいます。

 

2.世界で一番最初のクリスマスの出来事

 

 さて、ヨセフとマリアがナザレという町から150キロ離れたベツレヘムという町に旅をしていました。時はローマ帝国がユダヤ民族を占領下に置いていた時代です。当時ユダヤ民族にはヘロデという血筋的には異民族に属する王様がいましたが、これはローマに服従するもので独立国ではありませんでした。ローマの皇帝が税金の取り立てを強化するため領民に対して本籍地で住民登録せよと勅令を発しました。ヨセフの遠い先祖はかつての民族の英雄ダビデ王だったので本籍地はダビデ家系発祥の地のベツレヘムでした。それで二人はベツレヘムに旅立ったのです。

 

 その時、マリアは身重で出産間近でした。実は二人はまだ婚約中で同居もしていませんでした。マタイ福音書1章にあるように、マリアの妊娠を知ったヨセフは、もうこれで婚約は破棄かと悩みましたが、天使から、マリアの妊娠は神の霊つまり聖霊の力が働いたことによる、生まれてくる子をイエスと名付けよ、と告げられていました。つまり、引き取って育てよ、ということです。マリアもルカ1章にあるように妊娠前に天使から同じように告げられていました。戒律厳しいユダヤ教社会の中で婚約段階の妊娠は良からぬ憶測や疑いを生んだでしょう。しかし、二人は神の計画ならばと忍んだのでした。まさにその時、ローマ皇帝の勅令が下ったのです。

 

 さて、ベツレヘムに着いてみると、同じ目的で旅する人が多かったのか、宿屋は満杯でした。マリアの陣痛が始まってしまいました。二人は馬小屋を案内されて、そこでマリアは赤ちゃんを産みました。二人は赤ちゃんを布に包んで飼い葉おけの中に寝かせました。夜も大分更けた頃でした。

 

 その同じ時に町の郊外で羊飼いたちが野宿して羊の群れの番をしていました。暗い夜空の下、獣が襲ってこないか盗人がこないか起きた羊がどこかに行ってしまわないか、神経を張り詰めていなければなりません。不安と疲れがあったでしょう。そこに突然、目も眩むような輝く天使が現れたのです。羊飼いたちが恐れおののいたのは言うまでもありません。天使は「恐れるな」と言って続けました。旧約聖書に預言されていたメシア救世主が今夜いにしえのダビデの町ベツレヘムでお生まれになったと。メシアが本当に誕生した印として、布に包まれて飼い葉おけに寝かしつけてある赤ちゃんを見つけたら、それがその子だと天使は教えました。羊飼いたちは呆気にとられて天使のお告げを聞いていたでしょう。

 

 その時でした、天使の大軍が夜空に現れて一斉に神を賛美したのです。一人の天使の輝きでも眩しい位なのに大勢いたら夜空の闇などどこかに消え去ってしまったでしょう。天使たちの賛美の声が天空に響き渡りました。


「天には栄光、神に。

地には平和、御心に適う人に。」

 

 賛美し終わると天使たちは最初の天使も一緒に皆、天空に消え去りました。夜空と闇と静けさが戻ってきました。この時の羊飼いたちの心はどうだったでしょうか?ベツレヘムへ行こう!恐れも不安も疲れも皆消え去っていました。ただ、羊の群れは置き去りにはできないので、皆一緒に出発したでしょう。夜の街に突然羊飼いと羊の群れが入って来たので町はちょっとした騒ぎになったでしょう。メシアのいる馬小屋が見つかりました。何の騒ぎかと集まってきた人たちに羊飼いは見聞きしたことを話します。天使はこの子がメシアだと言っていたと。人々は驚きながらも半信半疑だったでしょう。それでも羊飼たちは喜びに溢れ神を賛美しながら野営地に帰って行きました。マリアは飼い葉おけの中で静かに眠る赤ちゃんを見つめながら、心の中で羊飼いたちの話したことやかつて天使が告げたことを思い巡らしていました。

 

3.羊飼いの心の変化は福音の光を受け取る人にも起こる

 

 以上が世界で一番最初のクリスマスの出来事でした。ここで羊飼いたちの心の動きに注目してみましょう。羊飼いたちは暗闇の中で心配と疲労を抱えて過ごしていました。そこに暗闇を打ち消す天使の輝きを見て恐れおののきました。天使のお告げと賛美を聞いた後、暗闇は戻ってきましたが、もう心配も疲労もありません。告げられたことが本当だと信じてそれを確認しようと出かけます。そしてメシアに出会うや、心は神への感謝と賛美に満たされてまた暗闇の中に戻って行ったのです。しかし、暗闇はもう以前のような心配や疲労の暗闇ではありませんでした。メシアを確認できたことで希望と神への感謝で心が一杯になったのです。周りは暗闇でも心は光に満たされたのです。

 

 実は同じような心の動きは、イエス・キリストの福音を聞いて心で受け取った人にも起こります。まず、イエス・キリストの福音とは何か、少し申し上げます。それは、神との結びつきを失ってしまった人間がイエス様のおかげで持てるようになって、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということです。人間が神との結びつきを失った経緯は旧約聖書の創世記3章に記されています。天地創造の神に造られたばかりの人間が蛇の姿をした悪魔の言う通りにして神の意思に反しようとする性向を持つようになってしまいました。これを聖書は罪と呼びます。罪が人間に入り込んだ結果、人間は死ぬ存在になってしまったということも聖書は説き明かします。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いでしまうものになってしまったのです。たとえ犯罪を犯さなくても人間には奥深いところに受け継いでいる罪があるため、何かのきっかけで悪いことを心に描いたり言葉に出してしまったり、最悪の場合は行為に出してしまうのです。これらは全て人間が神との結びつきを失ってしまったことの現れです。

 

 神はこの状態を変えて人間がまた自分と結びつきをもてるようにしてあげようと考え、それでひとり子を自分のもとから贈られたのでした。ひとり子は神でありながら、人間の母親の胎内を通して人間として生まれてきました。子はイエスと名付けられ、成人に達すると大々的に人々に天地創造の神や来るべき神の御国についてに教え、神の子のしるしとして無数の奇跡の業も行いました。しかし、彼に脅威を感じたユダヤ教社会の指導者たちによって捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者として十字架刑に処せられてしまいました。

 

 ところが実はこれは全く表向きの出来事でした。十字架の出来事の真相は表向きのもっと奥深いところにあったのです。それは、神がひとり子に人間の罪の償いをさせたという贖罪の出来事だったのです。イエス様は人間の罪を全部自分で引き受けて本来なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けられたのでした。イエス様は死から三日後に復活され、その40日後に弟子たちの見ている前で天にあげられました。これで十字架の出来事の真相が明らかになったのでした。 全て旧約聖書に預言されていたことが事後的にわかったのです。

 

 それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。この結びつきは、人生順風満帆の時でも大風逆風の時でも全く変わらずにあります。この世から別れる時も神と結びついたまま別れられ、復活の日が来たら再臨するイエス様の力で眠りから起こされて、イエス様と同じように復活を遂げて永遠の神の御国に迎え入れられるようになるのです。これがイエス・キリストの福音です。

 

 私たちがこの福音を受け入れてそれを携えて生きるようになると、羊飼いたちに起きたのと同じ変化が起こります。最初は暗闇の中で心配と疲労を抱えて生きています。聖書の御言葉は最初、神聖な輝きを持つ神は罪を断罪する恐ろしい方であることを伝えます。それで私たちは羊飼いたちのように神の神聖な光に恐れを抱くのです。しかし、聖書は同時に次のことも伝えます。人間が罪と一緒に断罪されて滅びてしまわないために神がひとり子を贈って十字架と復活の業を果たさせたということです。神の神聖な光は罪の汚れを断罪する裁きの光だけではないのです。罪を赦す恵みの光でもあるのです。恵みの光に自分の全てを委ねるのが私たちのキリスト信仰です。そうすれば恐れは消えて安心が取って代わります。一時の気休めの安心ではなく本当の安心です。ベツレヘムの馬小屋に出かけた羊飼いたちのように、私たちも教会の礼拝に出かけて、そこで御言葉の説教に耳を傾け聖餐式に与ることで本当の安心を確認します。そして、新しい一週間に歩み出します。それはちょうど、羊飼いたちが感謝と賛美に心を満たされて暗闇をものともせずに戻って行ったのと同じです。

 

4.勧めと励まし

 

 このようにイエス・キリストの福音を心で受け取った人はこの世の暗闇をものともしないようになる光を受け取ったのです。どうして福音の光を受け取ったら暗闇のようなこの世をものともしないでいられるのか?それは、先ほども申したようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人は神と揺るがない結びつきを持てるようになったからですが、聖書ではその結びつきを神との平和と言います。使徒パウロもローマ5章で、信仰によって神との結びつきを回復したキリスト信仰者は神と平和な関係があると説いています。天使の軍勢が賛美をした時、「神の御心に適う人に平和」と言いました。「神の御心に適う人」というのは、イエス・キリストの福音の光を受け取って神との結びつきを回復した人のことです。そのような人が「平和」を持つというのです。罪を償ってもらって罪の赦しの中で生きられるようになると、もう神との間に敵対関係はないのです。神と平和な関係があれば、たとえ周りは平和が失われた状況があっても、自分と神との平和な関係に影響はない、周りが平和か動乱かに関係なく自分には失われない動じない平和がある、そういう確固とした内なる平和です。この世が暗闇のようになっても失われない平和です。

 

 このような確固とした内なる平和を持つようになったキリスト信仰者は今度は自分の外に対しても平和な関係を築こうとするようになるとパウロはローマ12章で説きます。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。応じない場合でも相手のまねをして非友好的な態度はとらない。悪に対して悪をもって返さない、善をもって悪に勝て。自分で復讐はせず、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと。なんだか高尚な道徳を説かれているような気がしてしまうかもしれませんが、そうではないのです。キリスト信仰者は自分のことや、この世での自分の立ち位置を考える時は、神との関係において見、神との平和な関係は大丈夫か自省しながら考えます。だから、自分中心にならないのです。神との関係がなくて、そういうことをしろと言われたら、全て自分の力で行わなければならなくなり、それこそ一般人には縁遠い高尚な道徳になります。

 

 いくら神から消えない光、揺るがない平和を頂いて、周囲の人と平和な関係を築くのが大事と思っても、この世でいろいろなことに遭遇すると思いも萎えてしまうというのが現実です。だから、消えない光と揺るがない平和を確認する場として日曜日の礼拝があるのです。どうか、このクリスマスの時も、イエス・キリストの福音の光が多くの人の心に届いて、神と平和な関係を築けた人が暗闇の恐れを捨てて周囲との平和を築く力が与えられますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年12月10日火曜日

神はあなたに良い業を始め、それを主の再臨の日に完成させる(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2024年12月8日待降節第二主日 スオミ教会

 

マラキ書3章1-3節

フィリピの信徒への手紙1章3-11節

ルカによる福音書3章1-6節

 

説教題「神はあなたに良い業を始め、それを主の再臨の日に完成させる」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。

 

 このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。

 

2.神の救いと心の準備

 

 本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。

 

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

 荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?

 

 いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。

 

 「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞ταπεινοωは「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書404節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。

 

 「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見てもσκολιοςעקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べるとמישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。

 

3.神の近づきを妨げる心の障害物

 

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。

 

 私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ623節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。

 

 これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。

 

 神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 

 このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。

 

4.神の側にいて生きる

 

 それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

 

 それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。

 

 聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。

 

 神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。

 

 実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。

 

5.勧めと励まし

 

 主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」

 

 明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?

 

 それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。

 

 このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年12月2日月曜日

主の再臨の日に『ホサナ』を叫ぶ(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教202412日 待降節第一主日

スオミ教会

 

エレミヤ書33章14節-16節

テサロニケの信徒への第一の手紙3章9-13節

ルカによる福音書21章25-36節

 

説教題 「主の再臨の日に『ホサナ』を叫ぶ」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 待降節第一主日の福音書の日課は以前はイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城する箇所が定番でした。その場面ではイエス様を迎えた群衆がホサナと叫びます。ホサナとは旧約聖書の言葉ヘブライ語のホーシィーアンナ―、またはイエス様の時代のユダヤ民族の言葉アラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統では王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。それで、フィンランドやスウェーデンのルター派教会の待降節第一主日の礼拝では讃美歌「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。このスオミ教会でも歌ってきました。

 

 ところが、4年ほど前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。先ほど読んだように、イエス様がエルサレムに入城した後でこの世の終わりについて預言する箇所になってしまいました。以前は、そういう終末論だとか最後の審判に関する箇所は聖霊降臨後の終わりの頃に集中して、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わって心躍るクリスマスに向かうという流れでした。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならない。説教者として気が重いです。

 

2.主の再臨を待ち望むことができるか?

 

 でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると言う人もいますが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、神のひとり子が天の父のもとからこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前の今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされた老人のシメオンややもめのハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間でもあります。

 

 ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えないといけないのです。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。もし天使が羊飼いに知らせなかったら、あるいは不思議な星の動きがなかったなら、誰も気づかなかったでしょう。しかし、次の降臨、すなわち再臨は本日の福音書の個所で言われるように、目がくらむ程の眩しい神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地に再創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。

 

 そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?だって、イエス様は今度は赤ちゃんとしてではなく、裁きの主として、つまりその時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうかを判定する裁きの主として来られるからです。

 

 天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約聖書と新約聖書の双方を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されています。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、心の声に聞くだとかアイデンティティーを追求するだとかはあっちに置いて、私たちの造り主である神の御言葉が詰まっている聖書を繙くのが手っ取り早いということになります。

 

 このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。聖書は、私たち人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っていることを明らかにします。そんな人間が神から潔白だと認められることがあり得るでしょうか?

 

3.最後の審判はクリアーできる

 

 それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。これも聖書が明らかにしていることです。なぜ神のひとり子が贈られなければならなかったか?それがわかるように、聖書は人間の罪性を明らかにするのです。つまり、イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さったということです。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて死なれたのです。つまり、イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に向かう道を人間に切り開いて下さったのです。

 

 このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。

 

 この世を去る時も神との結びつきは途切れません。保たれたままです。復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。このように洗礼と信仰によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。

 

 ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ2128章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよと。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだと。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ823節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」です。肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ2128節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。

 

 そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。でも、本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは自分から罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。しかし、そのように神の目に適う者とされていながら、また「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者にいつもついて回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?

 

 それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりしません。すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩みを続けていきます。

 

 このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは弱まるどころが逆に一層強められていくので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁きの主の前でする申し開きは次のようになります。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれてしまった時もありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。教会の礼拝を通して、聖餐式を受けることを通して。」これはもう神も悪魔も否定できない真実です。裁きの主は「お前は間違いなく罪を圧し潰す生き方をしてきた」と認めるでしょう。実にイエス様が私たちの救い主である限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで主のみ前で何も恐れる必要はないのです。説教の初めに「ホサナ」という言葉はもともと「神よ、救って下さい」と言う意味だったのが、「王様、万歳!」に変ったと申しました。私たちにとっても「ホサナ」は「神よ、救って下さい」だったのが、まさに王の王、イエス様に万歳を叫ぶ言葉になったのです。それで、主の再臨の日に私たちが主に向かって叫ぶに相応しい言葉なのです。

 

 本日のルカ2133節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が有する言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。そうするとパウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しするのが聖書です。その聖書のみ言葉を信じて生きる者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられるのです。聖書の言葉は滅ばないから、そうなるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 終わりに、罪の赦しという恵みに留まって罪を圧し潰す生き方をするキリスト信仰者は、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてそうなるかと言うと、罪の赦しの恵みに留まって生きると、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。命じる必要がないくらいキリスト信仰者の属性になるからです。悪を嫌悪する、善に留まる、お互いに対して心から兄弟愛を示す、互いに敬意を表し合う、迫害する者を祝福する、呪わない、喜ぶ者と共に喜ぶ、泣く者と共に泣く、意見の一致を目指す、尊大な考えは持たない、地位の低い人たちと共にいるように努める、自分で自分を知恵あるものとしない、悪に悪をもって報いない、全ての人にとって良いことのために骨を折る、全ての人と平和な関係を持てるかどうかがキリスト信仰者次第ならば迷わずそうする、自分で復讐しない、正義が損なわれたら最後の審判の時の神の怒りに委ねる、神が報復する、だから、敵が飢えていたら食べさせる、渇いていたら飲ませる、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。善をもって悪に打ち勝つ。

 

 このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時々なんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の中の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて良かった、とわかってうれし泣きしてしまうでしょう。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日なのです。

 

 イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気を張り詰めていることでしょうか?そんなことしていたらこの世で普通の生活が送れなくなってしまいます。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返しの人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取ったことの終着点です。なので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ましていることになります。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、裏を返せば、この世で自分を律して倫理的な生き方をするということです。

 

 主が再臨される時、私たちも「ホサナ!」と歓呼の声をあげましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン