2023年2月6日月曜日

キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし (吉村博明)

  

主日礼拝説教 2023年2月5日(顕現節第五主日)

 

スオミ教会

 

イザヤ書58章1-12節

コリントの信徒への第一の手紙2章1-16節

マタイによる福音書5章13-20節

 

説教題 「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり

- 然らば、地の塩、世の光たるべし」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

  本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。

 

 「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。

 

 このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

 

 イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。

 

 ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

 

2.「地の塩」とはどのような者か?

 

 それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

 

 塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

 

 ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

 

 本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント214節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

 

3.「世の光」とはどのような者か?

 

 次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。

 

 輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。

 

 イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

 

 そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(5868節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

 

 人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。

 

 光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。

 

 「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

 

 さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。

 

 このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

 

4.ファリサイ派や律法学者の義に勝るキリスト信仰者の義

 

 イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

 

 それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

 

 このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

 

 ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

 

 このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

 

 ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン