説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2019年4月28日 復活後第一主日
使徒言行録5章12節-32節
ヨハネの黙示録1章4節-18節
ルカによる福音書24章13-35節
説教題 「死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししよう!」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様が復活された後の出来事の一つです。過越祭後の新しい週の最初の朝、それは私たちのカレンダーの日曜日ですが、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は、同じ日曜日の夕刻に起きたものです。
二人の弟子がエルサレムから約11キロ程離れたエマオという村に向かっている途中で突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について講義され、その晩泊った家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまいました。これは多くの人には怪談話に聞こえるのではないでしょうか?ところが、キリスト信仰者には、これは全く怪談話に聞こえないのです。なぜでしょう?それは、信仰者はこの出来事を復活という観点をもって聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活という観点もなく死に対する勝利もありません。むしろ死に負けて支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しした者なので、本日の個所や他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を湧き起こしてくれる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。
そういうわけで本日の説教では、既に引越しした人には今の自分の立ち位置を確認することを、まだ引っ越ししていない人にはどうしたら出来るかということを福音書の個所をもとにして教えていこうと思います。
2.復活、死に対する勝利、倫理・道徳、死生観
復活とは死に対する勝利であると申しました。死に対する勝利とはどういうことか?不死身の人間になることか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰で復活とか死に対する勝利と言ったら、意外に思われるかもしれませんが、何が正しいことか何が善いことかという倫理や道徳の問題に関わってきます。不死身の人間というのはそういうものと無関係に考えられるものです。
死に対する勝利とは、先週お教えしたので手短に繰り返しますと、まず、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たちの罪の神罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになります。つまり、罪の償いを私たちに代わって全部神に対して果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たしてくれた完璧な償いがあるので思うようにできなくなってしまいました。罪は破綻してしまったのです。加えて、神が偉大な力でイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命があることを示されました。その扉が私たち人間に開かれたのです。そこで人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がこのように整えて下さった罪の償いと赦しをしっかり受け取れます。そして、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。
その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ない。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてくる。不意を突かれてしまう信仰者もいる。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからはもう罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しくされた自分の新しさに磨きをかけていくような人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光で光り輝きます。
このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力が破綻した結果、死も人間に対する力を失いました。使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとって死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまいました。パウロは第一コリント15章の後半で復活の体について述べていますが、それによると、私たちが復活する時、地上の時に着ていたこの朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは本当に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。かつて死は罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていましたが、それも破綻してしまったのです。
復活の体について、先週の説教でも申し上げましたが、イエス様の例から明らかなように不思議なことがいろいろあります。その一つは、弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気づかなかったということです。本日の個所もそうですし、先週のマグダラのマリアの時もそうでした。どうしてそんなことになったのかと言うと、先週申し上げましたように、復活とは蘇生とは異なるものだからです。復活が起きると今纏っている肉の体ではなく、特別な復活の体を纏うことになります。それで肉の体を持つ者が肉眼で気がつきそうでつかない何かが起きる。蘇生というのは死んだ人が少しして生き返るということなので、それは遺体が腐敗する前に起きなければなりません。復活というのは、肉体が消滅腐敗した後で、将来の復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。イエス様自身、復活したものは天使のようになると言っていましたが、まさにその通りでした。
ところで、復活の体を着せられる復活というのは、将来神が今の天と地を終わらせて新しい天と地を創造する時に起きるというのが聖書の立場です。イエス様の場合はその日を待たずしての復活でしたが、それは人々に復活が本当にあることを目撃させるためでした。そうすると、そのような復活の日が将来来るまではこの世から死んだ人は眠りにつくことになります。聖書にあるようにイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡、つまり蘇生を行いました。それは、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって知らせる奇跡でした。その時彼は死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって死とは復活の日までのひと眠りということと肉の体にかわって復活の体に着せ替えられることを意味します。このようにこの世の人生の次に来る段階のことが心配なくなったので、あとは、そこに向かって行こう、道を踏み外さないように注意しよう、この世にいる間はイエス様を贈って下さった神の意志に沿う生き方をしようということになります。神の意志に沿う生き方とは、簡単に言えば、神を全身全霊で愛するということと隣人を自分を愛するがごとく愛するということ、これを各自自分の持ち場立場で行うことです。
持ち場立場によって愛の現れ方が異なってくるかもしれませんが、それらを超えて共通なこともあると思います。例えば、愛と正義の板挟みになるということがあると思います。愛に目をつぶって正義を行おうとすると裁きになってしまう。正義に目をつぶって愛を行おうとすると甘やかしになってしまう。神は立場上、完全な愛と完全な正義を両方持ってそういう板挟みを超えておられる方です。少し具体的に申しますと、神のひとり子のイエス様は十戒の掟を行為の上でも心の中でも完全に実現している方でした。正しさの権化と言ってもよいでしょう。普通だと、そういう正しさの塊を見ると、お高く留まって生意気な奴だと毛嫌いされるでしょう。ところがイエス様はお高く留まりませんでした。正しさを持てない奴は情けないとか相手にしないという態度ではありませんでした。そうではなくて、私たちが神聖な神の前に出されても大丈夫でいられるように正しさを私たちに譲り渡すことをしたのです。そのために強盗や反逆者が受ける刑罰を自ら受けるに任せたのです。ここに神の愛があります。
このように神は完全な正義と完全な愛の双方を持つ方であるからには、私たちもそれから外れるような生き方は許されません。そうなると、板挟みになることを覚悟しなければなりません。それでも復活の日に神の国に迎え入れられると、そこは完全な愛と完全な正義が両方一緒にあるところです。その日神の国に迎え入れられる者はその2つの「完全」に取り込まれます。黙示録21章4節に神が全ての涙をことごとく拭い取って下さると言われていますが、板挟みの辛さや不完全さの無念さから流した涙も拭い取ってもらえるのです。
このように、この世の人生の次の段階のことが一応押さえられると、それに付随してこの世の人生の方針もはっきりしてきます。死の観点と生の観点が一緒になっていて、まさにキリスト信仰の死生観と言ってよいでしょう。もちろん死生観はキリスト教の専売特許ではなく、他の宗教もみなそれぞれに持っているでしょう。キリスト教の死生観は何かと問われたら、今申し上げたようなことで宜しいのではないかと思います。死に打ち勝つ世界に引っ越しすると、それに応じて死生観も変わるのです。
3.イエス様の体の臨在と霊的な臨在
次に本日の福音書の個所を見てみましょう。それは、復活したイエス様の臨在とはどのようなものであるかを教えてくれます。聖書をよく見ると、イエス様はかつてのように常時、弟子たちと一緒にいません。本日のように二人の弟子の前に現れて消えたり、家の中に集まっている弟子たちの前に突然現れたり、ガリラヤ地方に先に行って弟子たちを待っていたり、さらにガリラヤ湖で魚取りをしている弟子たちの近くに現れたりです。使徒言行録1章3節でイエス様は「40日にわたって彼らに現れ」と言われているのは、40日間ずっと一緒だったというのではなく、40日の間現れたり姿を消したりの繰り返しだったと言えます。ガリラヤ湖の出来事を見ると、弟子たちの側でも復活したイエス様というのは現れてはいなくなるものと受け入れていたようです。そして、復活から40日目に最終的に弟子たちの目の前で天に上げられました。
マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と言いたくなります。実は「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様にとって霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちにはそれが現実にあるものか確かではありません。それが現実である、これを受けたら臨在はもう現実なのだ思い知れ、というのが洗礼と聖餐です。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実にするものです。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきましょう。
イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?その答えは、まず、どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、そしてどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかります。
二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認を難しくする必要があったのでしょうか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」の呼びかけで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?
実は、神が何かの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせることをするというのは旧約聖書、新約聖書を通してある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をおいて見ていくことにします。
神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみます。もし、神が二人の目を遮らず、二人はすぐにか、またはマリアのように声を聞いてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起きたことは起こらなくなります。その後で起きたこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様が正したということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。
それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?それを明らかにするためにイエス様は上手に会話を導いていきます。イエス様「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」二人は暗い顔をして立ち止まる。弟子の一人のクレオパの言葉からあきれた様子がうかがえます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけは御存じなかったのですか。」イエス様「どんなことでしたか?」イエス様は全てを知っているのでこれは白々しい質問ですが、話を進めて弟子たちの無理解を正すためにわざと聞きました。そこで弟子たちは答えて、彼らの理解の誤りを暴露します。彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者であり、それに加えてイスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だった。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は万事休すになってしまった。
十字架と復活の出来事の前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の他民族支配からの解放についてではなかったのです。神の計画は人類全体にかかわるものでした。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り救世主だったのです。預言がそう理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまって、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起きました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。
イエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放ではない、人類の罪と死からの解放者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。イエス様の処刑と埋葬で全てが終わったという絶望と失望が終わりました。新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人は心に燃え上がるものを感じたのです。
面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。つまり神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば、それはイエス様の体の臨在と引き換えになるくらいのものであるということを言っているのです。体の臨在がなくても、御言葉を正しく聞くことと聖餐式があれば霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。
4.おわりに
以上、死に支配された世界から死に打ち勝った世界への引っ越しは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神が整えた罪の赦しを受け取ると引越し完了になるということを申し上げました。新居の生活には新しい挑戦や課題があることもわかりました。新しい死生観とそれに伴う倫理・道徳です。それゆえ新居での生活は楽ではないかもしれません。引っ越しする前の家の方がよかった、なんで引越しなんかしてしまったのだろう、などと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、新居の生活は決して一人ぽっちではありません。聖書の御言葉と聖餐を通して救い主イエス様が共にいて下さいます。イエス様が共にいるので、天地創造の神もご一緒です。引越し前に比べて何が不足というのでしょうか?
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン