2018年12月3日月曜日

切り株から萌え出る若枝のように (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年12月2日 待降節第1主日
スオミ教会

エレミア書33章14-16節
テサロニケの信徒への第二の手紙3章6-13節
ルカによる福音書19章28-40節

説教題 「切り株から萌え出る若枝のように」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ルカ福音書には「ホサナ」がない

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を見守り、皆様も神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みと生活の上に神が豊かに祝福を与えて下さるように。

本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに「入城」する場面です。毎年お話ししていることですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると朗読はいったん止まります。そこでパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆一同一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、教会の会衆が当時の群衆になり代わって歓呼の言葉を歌で歌うということです。同じ歌を私たちも先ほど歌いました。この歌は、実にフィンランドやスウェーデンでは教会讃美歌集の一番目の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい年を元気よく始める雰囲気に満たされます。時差があるので、あと7時間位したらかの地でもこの歌が響き渡るでしょう。

ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、今日は北欧の教会のように聖書朗読の途中で歌いませんでした。朗読の後でした。どうしてかと言うと、今年の日本のルター派教会の待降節第1主日に定められた福音書はこのルカ19章でして、そこではマルコ、マタイ、ヨハネとは異なり、群衆の歓呼の中に「ホサナ」の言葉がありません。それで、この歌で聖句の朗読にかえるのはちょっとよくないと思い、今回は聖句を一通り読んでいただいた後で歌うことにした次第です。それでは、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書の群衆の歓呼に「ホサナ」があるのに、どうしてルカ福音書にはないのでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

これも毎年お話ししていることですが、手短に振り返ります。まず、「ホサナ」というのはアラム語の言葉で(הישע-נא、ギリシャ語ωσαννα)、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語は旧約聖書の言葉ですが、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になりました。そういうわけで、この言葉はもともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。

どうしてルカ福音書にはこの、王を迎える歓呼の言葉が抜け落ちたのでしょうか?これは4つの福音書がどのようにして出来たかというとても大きな問題に関わるので、ここでは立ち入らないで、「ホサナ」がルカにないことをどう考えたらよいかについて簡単に述べておきます。この福音書と使徒言行録の記者とされるルカは、イエス様のことをユダヤ民族という一民族の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それなので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界の「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、今申しましたようにユダヤ民族が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉でした。それでルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する際、イエス様は神から祝福を受けて神の名において到来する王であるということが読者に伝われば、それで十分。あえてイスラエルの民族性を出さなくても良しとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったでしょうが、彼らは直接耳で聞いたこと、あるいは手にした史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

2.王として迎え入れられたイエス様

さて、エルサレムに入城したイエス様は群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この王は群衆に取り囲まれてはいるが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

実はこれはパロディーでもなんでもないのです。毎年お話ししていることですが、大事なことなので簡単に振り返ってみましょう。

イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるように命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的のため用いられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言がありました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」とありますが、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者(צדיק)、神から力を得て勝利する者(נושע)、へりくだった、みすぼらしい者(עני)」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「神から力を得て勝利する者」というのは、今引用した個所にあるように、神から力を得て世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった、みすぼらしい者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、子ロバに乗ってとことこやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が全世界を神の意志に従わせる、そのような世界をもたらすという預言は、旧約聖書の有名なイザヤ書11110節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが存在せず、全てにおいて神の守りと正義が行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。聖書の観点では、これは今の世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造される時に到来する世です。その新しい世に相応しく完全な正義を実現する「エッサイの若枝」。それは何者なのか?エッサイはダビデの父親の名前ですので、ダビデ王の家系に属する者を指します。つまり、イエス様のことです。やがて、今の天と地にかわって神の意志が隅々まで行き渡る新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完璧な安全と完全な正義を実現するのがイエス様ということです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の意志や神の国つまり将来到来する新しい世について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。確かにこれらの預言は成就したとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、神の意志が隅々まで行き渡る新しい世はまだ来なかったのではないか?従って、預言は完結しなかったのではないか?

3.一民族のではなく全世界の王として

実は、これらの預言はイエス様が再臨つまり次に来られる時に実現するもので、外れたということではないのです。イエス様が最初に来られた時、預言の一部は実現したが、それは預言全体の実現が開始されたということで、イエス様の再臨をもって全てが完結するというものなのです。イエス様は最初に来られた時、無数の奇跡の業を行いましたが、これも害悪や危害がない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味がありました。

 しかしながら、イエス様を歓呼で迎えた弟子たちや群衆は、神の大事業が全世界・全人類に及ぶものとは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様とはあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる自分らの民族の王でしかありませんでした。そういうふうに、旧約聖書が真に意図していたことと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでした。しかし、それはいたしかたのないことでした。一方でバビロン捕囚からユダヤ民族が辿った苦難の歴史があり、他方で旧約聖書にメシアと呼ばれる神に聖別された王についての預言があり、そうなるとメシアに民族解放の期待を結びつけてしまうのは容易なことでした。メシアというのは本当は、所属する民族に関係なく人間を罪と死の支配から解放してくれる、まさに全ての人間にとっての王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

イエス様は全ての人間を罪と死の支配から解放してくれる王であるという時、それはどのようにして起こったでしょうか?イエス様は神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架の上で自分の命を捧げて、人間の罪を神に対して償って下さいました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死なれたイエス様を救い主とわかって洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦して下さいます。神が罪を赦すというのはどういうことかと言うと、わが子イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前をイエスの犠牲に免じて罪に定めないことにする、罪はさもなかったことのようにして不問にする、だからお前はこれからは赦された者として相応しく生きなさい、ということです。神からこのように罪の赦しを受けることで人間は、それまで断ち切れていた神との結びつきを回復し、その結びつきの中でこの世を生きることになります。イエス様の十字架の業のおかげで、罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は本当に無力になったのです。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を人間に開かれました。こうして神から罪の赦しを得て神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に帰ることができるようになりました。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた力を打ち砕きました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

4.旧約聖書の読み方

このように、イエス様は一民族の王なんかではなく、全ての人間の王、全世界の王、文字通り救世主なのです。そのことがはっきりするのは、十字架と復活の出来事の後でした。先ほどのゼカリア書9章やイザヤ書11章の理解の仕方からも伺えますが、旧約聖書を読む時、十字架と復活を通して読むか、通さないで読むかによって大きく意味が変わってきます。通さないで読むと、預言は一民族の王を言っていることになります。イエス様も当時そのように理解されてしまったのです。

同じことが本日の旧約聖書の日課エレミア書33章についてもよく当てはまります。15節に「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」とあります。「彼は公平と正義をもってこの国を治める」と言うと、ユダヤ民族の国を正しく統治する王様です。神がダビデのために生え出でさせる正義の若枝というのは、かつて滅亡したダビデ王朝の王国を再興させる、若枝のような勢いのある王様です。これはどう見ても、ユダヤ民族の王国が理想的な王様の下で再興されるという預言です。しかし、そのようなダビデ王朝の王国はバビロン捕囚の後は実現しませんでした。そうすると預言は実現しなかったことになります。

ところが、15節の預言はヘブライ語の原文を見ると、このようなユダヤ民族の理想的な王の到来を意味する内容にはとどまらないのです。この節は辞書に出ている単語の意味を見ても、もっと大きな内容を含んでいます。新共同訳で「この国を」と訳されている言葉(בארץ)は「地上に、全地に」という意味も持っています。ユダヤ民族の国に限定されません。「公平」(משפט)と訳されている言葉も、辞書の筆頭の意味は「調停して確立された正義」です。人間の罪のゆえに神と人間の間に戦争状態があったのが、イエス様の犠牲の上に両者に平和がもたらされたことを思い出しましょう。「正義」(צדקה)と訳されている言葉ですが、これはまさに「義」、神に義とされること、神の前に出されても大丈夫と見てもらえることです。イエス様の十字架の業のおかげで罪ある人間がそのような義を持てるようになったことを思い出しましょう。以上を踏まえると15節の訳はこうなります。「彼は、この地上で神と人間の不和状態を調停し、義を実現する。」これはもう一民族の王ではありません。まさに全ての人間の王、全世界の王、救世主です。

それでは、どうしてこの聖句はそのように訳されなかったのでしょうか?それは、訳す人が歴史に沿った訳を選んだからです。歴史に沿った訳とは、エレミアの時代というのは国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡する時代で、当時ダビデの家系から将来全世界の人間を罪と死から解放するメシアが出るなどとは誰も考えていないだろう、当時の人たちとしては国を再興してくれる王を待望しただろう、そういうふうに当時の人たちの観点に立って訳したのです。これは実に難しい選択です。歴史に沿った訳をしないと、預言が宣べられた歴史状況がわからなくなってしまいます。歴史状況を踏まえないで理解しようとすると、どんな身勝手な解釈も可能になります。それでも、十字架と復活の出来事がある以上は、天地創造の神の意図は全ての人間の罪と死からの救いであるということは動かせません。神は全ての人間に及ぶご自分の意図をご自分が選んだユダヤ民族の歴史を通して知らせていたのです。そういうわけで旧約聖書を繙く時は、歴史に沿う読み方をしても、十字架と復活に象徴される神の愛があることを心に留めて読むことが大切です。

5.切り株から萌え出る若枝のように

終わりに、イエス様が若枝にたとえられることがいかに私たちに生きる希望を与えるかについてお話したいと思います。若枝の預言は先に見たようにイザヤ11章と本日の旧約聖書の日課エレミア33章にありました。同じ預言はエレミア23章にもあります。

イザヤ11章で若枝とか芽が出てくるのは、エッサイの切り株とか根とか呼ばれるものです。これはどういうことかと言うと、イザヤ書6章に、ユダヤ民族が王から国民までこぞって神の意志に反する生き方をしたことに対する罰が宣べられます。外国に攻められて国は廃墟となり、その様は大木が切り倒されて切り株しか残らないような無残な状態になると預言されます。歴史上それは最終的にバビロン捕囚の時に起きてしまいました。ところが、イザヤ6章の一番終わりを見ると、残された切り株は「神聖な種」になると言われています。イザヤ11章やエレミア書に言われる若枝とは、この廃墟の切り株から生え出てくるのです。歴史の只中に生きていた人たちは、将来の国の復興を預言していると受け取ったでしょう。ところが本当は、神は全ての人間を罪と死の力から救い出して、その上で完璧な安全と正義のもとに招き入れてくれるメシアをこの無残な廃墟の中から起こして下さったのでした。希望の潰えたところに真の希望を打ち据えたのです。

焼け落ちた森の中、切り倒された大木もその切り株も全て水気も生気も失ったままうち捨てられている。そこの一つの切り株の上に小さな茎が小さな緑色の葉をつけて足を据えるようにして立っている。水気と生気があり、これから大きく成長することが誰の目にも明らかである。彼が大いなる者になりますように、そうすれば私たちも蘇るのだから。果たして彼はそのような者になった。ただ、それは人々が思い描いていたのとは違う仕方ではあったが。彼は、私たち人間に神との結びつきを取り戻すために自らを十字架の死に引き渡し、そして神の力で死から復活させられたのだ。彼を救い主と信じる信仰に生きる者は、この切り株の上に萌え出た若枝を心に持つのである。

それだけではない。心にこの若枝を持つ者は、今度はこの若枝と同じように育ち始めるのだ。かつて神の意志に反する生き方をして罰を受けたイスラエルの民のようにもう切り倒されることはない。なぜなら我々は、このひとり子の業のおかげで罪と死の力から解放されて神の目に義とされているからだ。しかしながら、神から罰は受けなくとも、今度はその代わりにこの世から反発を受ける。例えば、なぜ先祖伝来の霊に拠り頼まないで、よそ者に拠り頼むのか、と。しかし、自分の造り主はよそ者ではないのだ。また、なぜ神の目に正しく生きようなどとするのか?なぜ長いものに巻かれないのか?なぜ空気を読まないのか?なぜ忖度しないのか?そうすれば、その日必要な分以上のパンをたっぷり保証されるのに。正しく生きるためにその日の分以上はいらないなどとは、欲なしのお人好しもここまでくると救いようがない、と。しかし、本当に救いようがないのはどちらだろうか?

神に守られているので決して倒れることのない木とは言えども、大きくなればなるほど、確実に雨風により多くより激しく晒されます。しかし、大きくなればなるほど、完璧な安全、完全な正義に届く日は確実に近くなります。エッサイの切り株と根の上に萌え出たものは必ずその日を迎えられる。そう天地創造の神は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン