説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年2月17日 四旬節第一主日 横須賀教会
申命記26:5-11、
ローマの信徒への手紙10:8b-13、
ルカによる福音書4:1-13
説教題 「神の御言葉は、悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する最上の武器」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
古いキリスト教会の伝統として紀元後300年頃には、復活祭の前に主日を除いて40日間断食をすることが行われるようになっていました。その40日間を日本語で四旬節と呼びます。本年は、3月31日が復活祭に定められているので、主日を除いた40日間は2月13日、この間の水曜日に始まり、教会歴ではこれを「灰の水曜日」と呼びますが、本主日はこの40日の期間の最初の主日にあたるわけです。どうして40日間の断食かというと、本日の福音書の箇所でイエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受け、その間何も食べなかったという出来事が背景にあります。イエス様の生涯とは、そもそも、人間の救いのために行われた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して、こうした主の備えの生涯を自分の人生にも現実のものとしようとしたのであります。
四旬節は、英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉Lenctenに由来するそうですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国で、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりませんので、「断食」とは名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、救いが確実になるとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。
2.
イエス様の荒野での試練について、本日の福音書であるルカの他に、マタイ、マルコ福音書にも同じ出来事の記述があります。三つを比べて読んでみると記述がそれぞれ異なっていることに気づかされます。マルコ福音書ではたった二節の記述ですが、ルカとマタイ福音書はもっと詳細にわたっています。荒野の試練の時は、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語って聞かせたものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載され、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。
それでは、イエス様は悪魔からどんな誘惑を受けたか、そして、それらをどのようにして撃退したのか、そのことをマタイ4章も視野に入れて見てみましょう。
4章の1-2節をよくみると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続けたことが明らかになります。そして、最後のダメ押しとして受けた三つの誘惑について、詳しく語られるのであります。そのうちの最初のものと最後のものは共通していて、悪魔は「お前が神の子なら、何々してみろ」という言葉で誘惑を始めます。ところで、最初の誘惑である「お前が神の子なら、この石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、三つ目の「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の上からまっさかさまに切り落ちるキルドン谷に身を投げて天使に助けさせてみろ」というのは、一見それほど「誘惑」には見えません。もし、イエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらえれば、それはそれでイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様は、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選びました。どうしてでしょうか?それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力と存在を見せつけることができたのでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意志の下に服することになるからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。一見神の子であることを見せてくれ、と言いつつ、実は自分の言う通りにするように仕向けていくという、巧妙な罠だったのです。イエス様は、あえて空腹と恐怖の方を選びました。
二つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というあからさまの誘惑でした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、私たち人間の救いにとって特に重要な意味を持ちました。なぜなら、イエス様は、この荒野の試練の直前、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、かつ神の子であるとの認証を神から受けたのです。もし、その神の子が悪魔にひれ伏していたならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはならなかったのであります。それゆえ、たとえ万物が悪魔の下に服する事態が生じようとも、それを超える神が厳然とおられるのであります。私たちは、どのような状況に置かれても、そのような神に結びついていることを忘れないようにしましょう。
3.
次に、イエス様はいかにしてこれらの悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく実体のある真実の言葉であります。悪魔が空腹の満たしのような人間の最も根本的な必要に訴えて人間を自分の言いなりにしようとする時、この申命記の言葉を突きつけることで悪魔に次のように反論することになります。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全ては神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」
次に二つ目の誘惑である「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の奴隷になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神を天と地と人間を造り給うた創造主として仰ぐことです。そして、目の前で神の力が働くのを目にする時も、また目に見えて働いてはいないように見える時も、神は変わることなく全てに優る力を持つお方だ、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と神を敬うことです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば、神は恐怖の的以外の何ものでもなく、そこから逃避しなければなりません。しかし、神としっかり結ばれている者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れを抱かせるものから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神に結ばれた者にとって神は恐怖の的とか、逃避の相手ではなく、安心の源、とどまる場所なのであります。
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持・拡大できたとしても、神と敵対していれば、死んだ後は創造主から永遠に引き裂かれ滅びと災いの世界に投げ込まれます。そこには権力も富も持っていくことはできません。みな丸裸でこの世から次の世に移行するのです。しかし神に結びついた者は、死んだ後は永遠に造り主である神のもとに戻ることができます。この世にいる時は安心の源から安心を得て、次の世ではその源自体にいることができるのであります。このように神を畏れるということは、神と結びついたまま今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということなのであります。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょう。そんなもののために神との結びつきを捨ててみろ、などとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか。
三つ目の誘惑、つまり悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、悪魔は今度は巧妙にも聖書の御言葉を用います。それは詩編91篇11-12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから、飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなったとき、指導者モーセに不平を言い始め、神に水をすぐ出すよう要求した出来事です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満と至急の解決要求をぶつけました。何度も神の奇跡的な救いの業を自分たちの目で見てきているのに、困難の度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう神とは見なさない、エジプトに帰ってやると言わんばかりで、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すことばかりを繰り返しました。申命記の中で、もうすぐシナイ半島の荒野から約束のカナンの地に移動するという時、神は40年の出来事を振り返って、そのように「神を試してはならない」と命じるのです。
それでは、人は苦難や困難に遭遇したらどうすればよいのか?それは、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、その与えられた解決を最上の解決として受け取りなさい、それくらい神を信頼しなさい、ということです。申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への絶大な信頼を示すものです。実は、このイエス様の神への絶大な信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。同91篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2-3節)。このような神に対する深い信頼がある限りは、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に貫く神への深い信頼を切り離して、同篇の真ん中辺だけをちょこっと取り出してイエス様にぶつけたわけです。しかし、そんな文脈から切り離した引用など、何の重みも意味もありません。このように悪魔も、また悪魔に限らずキリスト信仰をあらぬ方向に持っていこうとする輩もみな、聖書の御言葉を全体から切り離してひけらかすのに長けていますので、皆さん、御言葉を広くかつ深く学ぶことを絶やさないようにしましょう。
4.
以上のように、イエス様は聖書の神の御言葉を武器にして、悪魔の誘惑を無力にしました。私たちは、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の勝利は私たちにとっても勝利であります。イエス様のもとにとどまる限り、私たちも、悪魔の誘惑を無力にする力に与っているのであります。しかしながら、私たちが洗礼によって神の義を頭から被せられたと言っても、悪魔は、私たちの内部に肉に結びつく古い人が残存していることを知っているので、私たちへの攻撃の手を緩めません。悪魔はなぜ私たちを攻撃するのでしょうか?
最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となり、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生まれてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにするために人間救済計画を立て、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。人間の罪と不従順の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしました。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを自分のものとして受け取ることができます。そして、この世の人生において、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主の神のもとに戻ることができるのです。
このように神は、御自身と人間の間に生じた断絶を解消するために御自分のひとり子さえも惜しみませんでした。しかし、悪魔にはそれが我慢ならないのです。せっかく堕罪の時に作るのに成功した断絶を解消させるなんてとんでもない。なんとしてでも断絶させたままにしてやりたい、と思うのです。しかし、神は無敵な存在なので手の出しようがない。それで弱い存在である人間を苦しめてやろうというのです。このこと自体、悪魔が神に負けている存在であることを示すものですが、攻撃を受ける私たちとしてはどうすればよいのか?それは、本説教においてみてきましたように、イエス様が武器に用いた神の御言葉を思い出し、そこで教えられていることをしっかり守っていくことです。つまり、私たちの必要を満たして下さる一番の大元は神であることを忘れず、自分を造ってくれた以上、神は最後まで自分の名誉にかけて守って下さると信頼し、神の力を疑ったりせず、神を試すようなことはしないようにしましょう。そして、神に結びついている限り、今歩んでいる人生の道は今の世と次の世にまたがっていることをいつも覚えていましょう。
このように聖書の神の御言葉には悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する力があります。イエス様が取り上げた御言葉は旧約聖書からですが、私たちの場合、新約聖書もあるので、私たちの最強の武器庫は一挙に拡大したわけです。ルターも、聖書の御言葉が悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器であると述べていますので、それを引用して本説教の締めとしたいと思います。
「試練や誘惑など信仰を弱めようとするものに遭遇したら、どんな手段をもってそれらに対抗していったらよいのか?そういう時には、自分自身どうしてこんな考えにとらわれてしまうのかと思ってしまうような良からぬ考えを、全力を絞ってかなぐりすてることである。この良からぬ考えをかなぐり捨てることが出来るためには、一生懸命に聖書の神の御言葉に耳を傾けかつ読み進めていかなければならない。ところが、もし君が神の御言葉には目をつむり、人間的な手助けや力に拠り頼んで自己を守ろうとするなら、君は悪魔という強力な霊を相手に無謀な戦いに丸裸で臨むことになろう。それゆえ、良からぬ考えをかなぐり捨てよ。そして、悪魔と議論しないように注意せよ。なぜなら、悪魔は場合によっては、純白の天使を装ったり、キリストの麗しい人格を身に纏って現れるかもしれないからだ。
神聖な聖書に何が書いてあるのか知っている悪魔は、キリストや信仰に反対するために、時としてキリストの美しい言葉を自ら用いるようなこともする。このように悪魔に泣き所を突かれた時、君は直ちに悪魔の攻撃について考えを巡らすことを止めて、悪魔に次のように言うべきである。『私は、父なる神がお与えになり、そして私の罪のために死ぬ苦しみをお受けになったあの方以外にはキリストなる者は知らない。彼は私に怒りを抱かず、私に対して憐れみ深く恵み深いということを、私は知っている。もしそうでなければ、彼は私の身代わりとなって私のために死ぬ苦しみをお受けになることは決してなさらなかったであろう。』
もし、このような言い返しをもって悪魔に対抗することを怠ったり、また聖書を一生懸命読むことをしないならば、我々が失われた者となって絶望に追い込まれるのは火を見るより明らかである。我々は、聖書の神の御言葉で自らを強化しない限り、悪魔の思い通りにさせてしまうことになってしまい、我々のか細い信仰の光はすぐかき消されてしまうであろう。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン