2025年10月13日月曜日

いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)スオミ教会

 

列王記下5章1~3、7~15b

第二テモテ2章1~15節

ルカ17章11~19節

 

説教題 いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

. はじめに

 

 イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所はガリラヤ地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。

 

 さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はその場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せなさいとだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだからと言う通りにただちにエルサレムに向かいました。

 

 ところがどうでしょう、出発後ほどなくして10人はみな治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム行きの目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきた人がいました。先ほども触れたサマリア地方の出身者でした。彼は癒しを与えてくれた神を大声で褒め称えながら戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏し神の癒しを及ぼして下さったイエス様に感謝しました。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。

 

 本日の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを2つ明らかにしています。一つは、神から義なる者と認められて救われるのは律法の規定を守ることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によってであるということ。もう一つは、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つの萌芽がサマリア人の行動から見て取れます。この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、キリスト信仰にとって本質的なことがあるというのは少し気が早いかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。

 

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味

 

 この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみます。この言葉は一見すると、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからということになってしまいます。本当にそうでしょうか?それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだと言うべきでした。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。このことに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみましょう。

 

 マタイ922節、マルコ1052節、ルカ1842節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、気をしっかりもちなさい(後注)。あなたの信仰があなたを救った」と言います。この言葉をかけられた後で女性は健康になります。マルコ10章とルカ18章では、盲人がイエス様に見えるようにしてほしいと懸命に嘆願しました。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。

 

 本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」はギリシャ語原文では現在完了形(σεσωκεν)です。「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味です。それなので「あなたの信仰があなたを救った」というのは、本当は「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

 

 これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時まで救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことがありうるのでしょうか?普通は、治った時に救われたと言います。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間の目から見て良い境遇にあるということと同義ではないのです。境遇が良いか悪いかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。

 

 そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。この不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。

 

 さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には向けられませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。

 

3.キリスト信仰を先取りするサマリア人の行動

 

 先ほども申しましたように、レビ記14章には重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとして定められています。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(1420節)、つまり「清い状態」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。

 

 ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないかと思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。

 

 もう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯したから、かからなかった人は犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間は死ぬ存在であり続けたことに示されているのです。使徒パウロが罪の報酬として死がある(ローマ623節)と言ったのはこのことです。死ぬということが人間が罪を持っていることの表れなのです。

 

 さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを良しとします。つまり、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要な神との和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったのです。モーセの律法には「重い皮膚病」が治った後の「清めの儀式」の他にも罪を償い神との和解を得るための儀式が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、232732節)。

 

 しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。」(1012節)。

 

 そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、神との結びつきを持ったまま去り、復活の日が来たら目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて創造主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にある兄弟姉妹の皆さん、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖い出して、神との和解をもたらして下さいました。私たちキリスト信仰者はそのイエス様を救い主と信じ洗礼を通して、この償い、贖い、和解が自分にはあるという者になりました。私たちが律法の規定を守ることでこれらがあるというのではなく、イエス様を救い主と信じることでこれらがあるという者です。自分では何もしていないのに、なんで?と一瞬あっけに取られます。しかし、自分にあるものをわかるや否や、心と体は強烈な感謝に包まれ、そこから神とイエス様を賛美する心が起こります。ちょうど律法のもとにではなくイエス様のもとに戻ったサマリア人のようにです。神を賛美する心も、神の意思に沿うように生きようと志向する自由な心もこの感謝から出てくるのです。その意味でサマリア人の行動には来るべきキリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後の信仰者はどう立ち振る舞うかをこのサマリア人を例にして前もって教えているのです。

 

 先日、ある教会員の方とお話しする機会があって、いろいろ大変なことがあった人生だったが、今は大分落ち着いて毎晩一日を振り返って一つ一つのことに神さまの良い御心が働いていたことがわかり、感謝に満たされて床につくことができるようになったとおっしゃっていました。素晴らしいことだと思いました。多くの人にとって平穏無事は当たり前になってしまって、特に神に感謝することではなくなっていることが多いからです。後で本説教を準備して、あの時、言っておけば良かったということが出てきました。それは、たとえ平穏無事が離れてしまう時があっても、償い、贖い、和解がある限り、離れない平穏無事を私たちは持っているということです。人間の目では平穏無事はなくても、神の目で見える平穏無事を持っているのです。だから、いつどこででも神に感謝するのは当然であり相応しいことなのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注 θαρσει「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと、健康になりなさい、というふうになって、これから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。

2025年10月6日月曜日

キリスト信仰者にとって信仰の成長とは? (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年10月5日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会

 

ハバクク書1章1~4節、2章1~4節

テモテへの第二の手紙1章1-14節

ルカによる福音書17章5-10節

 

説教題 キリスト信仰者にとって信仰の成長とは?


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の最初は、イエス様の有名な「からし種」のたとえの教えです。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じです。他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。これと似たような話はマタイ17章とマルコ11章にもあります。ただ、それらでは移動するのは桑の木ではなく山です。マルコ11章ではからし種は出てきません。本日の説教は日課に定められているルカ福音書に集中して話を進めます。

 

 からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが34メートル位の木に育つと言われています。それなのでイエス様の答えを聞くと、お前たちにはからし種一粒ほどの信仰もないから桑の木に命じてもそんなことは起きない、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?

 

 もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。実は、そういうことではないのです。では、どういうことか?以下に見ていきましょう。

 

2.からし種のたとえ

 

 最初にからし種のたとえを見てみましょう。イエス様は本当に、お前たちにせめてからし種程度の信仰があれば奇跡を起こせるのに、しかし、お前たちにはそれがない、などと言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?

 

 イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。実際にはないが、もしあれば、という意味になります。これは、高校の英文法で習った事実に反することを言う仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。なので、ここは事実に反することではなく、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っているともいないとも言っていないのです。

 

 ところが不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを言っているのです。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろう。しかし、実際にはそんなことを命じないだろうから、桑の木が海に引越すことはないだろう」という意味です。少し複雑になってきたので整理します。

 

 からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。

 

 このようにイエス様は、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長するということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。それで、ここのイエス様の趣旨は次のようになります。「信仰を小さなものから大きなものに成長するからし種のように持てば、例えばの話であるが、ここにある桑の木に海に引越せと命じたら、その通りになるだろう。ただし、これは例えばの話で実際には誰も桑の木にそんなことを命じたりはしないだろう。しかし、他のことで予想を超えたこと普通では考えられないことを起こせるのだ。」

 

 そこで問題になるのが、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神と聖霊が一緒に自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う人にはない「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長しているなどと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。

 

 奇跡の業や「恵みの賜物」は神が決められることで、キリスト信仰者の「信仰の成長」の度合いを測る物差しではありません。そうなると、「信仰の成長」とは何か考えてみないといけません。私は、それは「信仰の中で私たちが成長する」というふうに考えます。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰です。それが成長するのではなく、その信仰の中で私たちが成長するということです。信仰の中で成長するとはどういうことか?それは次に来る、召使いは労われないで当たり前という教えが明らかにしています。次にそれを見てみましょう。

 

3.労われない召使い

 

 このたとえの教えで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指すからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間が神の意思に従って生きるというのは、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってしまうではないかと言われるかもしれません。

 

 ところが、神は、労いや誉め言葉などなくても私たちは全然平気、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はひとり子を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。

 

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、神から罪を赦された者と見なされるようになり、神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この神から与えられた罪の赦しという恵みに留まり、それを手放さないようにしっかり携えて道を歩み続けていくと、かの日、全知全能の神のみ前に立たされる時、大丈夫だ、お前にはやましいところはないと宣せられるのです。本当は、神の御心に沿うことに関しては、失敗だらけ至らないことだらけだったのですが、いつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて、かつて打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにあることを確認してきました。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに覆われて道の歩みを続けることができました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このように道を歩む人生になるのです。このように歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでかの日には何も心配せずに神のみ前に立つことが出来るのです。

 

 冒頭で自己肯定感について述べましたが、キリスト信仰者の自己肯定感はここにあります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、神のみ前に立たされても大丈夫でいられる、何もやましいことはないと宣せられる。まさにそういう者になれるように神は私にイエス様を贈って下さったのだ。まだ私が神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はその私にイエス様を贈って下さったのだ。

 

 こうしたことがわかると、やるべきことをした後で労われたり誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。ご褒美は一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと宣せられるようになることを神自らがして下さった。全知全能の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ!これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを得られてできる自己肯定感ではありません。別に見返りなんかなくても平気という自己肯定感です。

 

 もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただキリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで全知全能の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。そういうわけで、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきて、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の御心に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらったからです。神が自分のひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それで人間同士の関係の自己肯定感に振り回されずにせいせいした気持ちでいられます。

 

 そうすると、自己肯定感が神との関係からでなくて、人間同士の関係から生まれるものだけに頼ると、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。いつの間にか肝心の自己が周囲の者に造られていってしまうのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちが信仰の中で成長するというのは、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、罪の赦しは揺るがずにあることを確認してまた歩み出すという繰り返しです。それはまた、神の意思に沿うように生きようという思いを新たにすることの繰り返しでもあります。繰り返せば繰り返すほど思いは強くなっていきます。これこそ罪に敵対する生き方です。こうすることで、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になるというのは、復活の日の私たちの有り様を意味しています。

 

 イエス様は、このように信仰の中で成長する私たちには何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があることを述べました。桑の木の海への引越しはあまり現実性のない一例として述べられました。きっとイエス様は教えていた時に、たまたまその辺に生えていた桑の木が目に入って、勢いであんなことを言ったのではないかと思われす。イエス様の教えには聞く人の度肝を抜くような誇張がしばしば見られるからです。桑の木の件は現実性のない一つの例でしたが、イエス様の教えではっきりしていることは、信仰の中で成長していく人には何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があるということです。それが何であるかは人それぞれです。大勢の人の目を引くようなものもあるでしょう。他方では、他の人から見たらあまり大したことじゃないと思われることでも、本人にしてみれば普通だったらありえないことが起こったということもあります。それなので、兄弟姉妹の皆さん、共に礼拝を守り、共に聖餐式に与かって一緒に信仰の中で成長を遂げて行くスオミ教会の皆さんにおかれては、もし、そういうことがあれば、「私の場合は桑の木の海への引越しとは違いますが、こんなことがありました」とお教え下さい。みんなで分かち合って、そのような可能性を与えて下さった神を一緒に賛美しましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεει εσχετεにすべきでしょう。

(後注2εχετε  ως は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(IHeikel & AFridrichsenGrekisk-SvenskOrdbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

2025年9月29日月曜日

旧約聖書の精神と復活の信仰が結合すれば悔い改めが生じる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)スオミ教会

 

アモス書6章1、4-7節

テモテへの第一の手紙6章6-19節

ルカによる福音書16章19-31節

 

説教題 「旧約聖書の精神と復活の信仰が結合すれば悔い改めが生じる」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                    アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?

 

 金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

 

 ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。

 

 さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

 

 ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。

 

 しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。

 

 少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。

 

2.天国、地獄、陰府

 

 まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。

 

 キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。

 

 本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。

 

 新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

 

 そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄」でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。

 

 どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。

 

3.旧約聖書の精神と復活の信仰

 

 金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。

 

 アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。

 

 さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。

 

 ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。

 

 しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。

 

 ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 

 この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?

 

 旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。

 

 この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。

 

 これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。

 

 このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシスの意味です。

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年9月18日木曜日

信仰も悔い改めも神の業なり、人間の業にあらず (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会

 

出エジプト32章7-14節

第一テモテ1章12-17節

ルカ15章1-10節

 

説教題 「信仰も悔い改めも神の業なり、人間の業にあらず」


 

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。

 

 それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。

 

 そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めをするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。

 

2.罪びとは神に受け入れられて方向転換が起こる

 

 ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。

 

 イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。

 

 新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。

 

 イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦されるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。

 

 ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。

 

 そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。

 

 そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(1524節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。


 放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。

 

 息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。

 

 それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。

 

3.神による受け入れはすぐそこまで来ている

 

 イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。

 

 実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。

 

 あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。

 

 このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン