2025年3月4日火曜日

イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年3月2日 変容主日 スオミ教会

 

出エジプト記34章29-35節

コリントの信徒への第二の手紙3章12節-4章2節

ルカによる福音書9章28-36節

 

説教題 「イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節の最後の日曜日です。水曜日からイースター・復活祭に向かう四旬節が始まります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 

 イエス様の変容の出来事は、実はキリスト信仰者にとってこの世を生きる希望と勇気の源になることを教えています。今日はこのことを見ていきます。ところで、この出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ827節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と特定できます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 

2.      山の上での出来事

 

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。少し詳しく見てみましょう。

 

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも夢の話と考える人もいるかもしれません。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディアグレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという言い方です。それで、モーセとエリアの出現は夢ではなくて現実に起きたことなら、彼らはやはり幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来にみんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 

 それなのでキリスト信仰の天国は他の宗教の天国とかそれに類するものと大きく異なっています。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類するものは、この世から死んだ後すぐ、ないしは30何年後とかの後で到達できるというものです。つまり、今のこの世がまだ存在している時に到達できるのです。ところがキリスト信仰では、到達は今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その時が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きます。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日に先立って死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということです。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ539節、ヨハネ1111節、第一コリント151820節)。このようにキリスト信仰では死は復活の日までの眠りで、その時に永遠の安寧に入れるか永遠の滅びに入るかの振り分けが起こります。

 

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日まで神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記1931節、申命記1811節、サムエル記上216節、イザヤ書819節です。

 

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中にもう出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然霧に覆われて視界が無くなるというのは、何も特別なことではありません。その霧は麓から見ると雲なのです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(1823節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよくわきまえていなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

 

3.イエス様の変容と受難の道の選択

 

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ932節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は神聖な神の子としての本質を顕わにしたのです。

 

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(67節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが言われています。さらに、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが言われています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の本質を目に見える形で顕した出来事だったのです。

 

 そこで34節を見ると、「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と言っています。ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、乗りかけた「雲」から降りてしまって、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 

 それは、私たち人間が復活の日に目覚めさせられて、神の栄光を映し出す輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。そうするためにイエス様は受難の道を進んでゴルゴタの十字架にかけられる道を選んだのです。どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか?

 

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪を除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現する神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、それは人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分というものではない、心の中で兄弟を罵ったら同罪と教えました(マタイ52122節)。「姦淫するなかれ」も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同2728節)。詩篇51篇でダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。このように罪は洗い清めなければならない汚れなのです。その洗い清めはもはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 

 そこで神は、できない人間にかわって自分で人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。では、「赦す」ことがどうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のことです。

 

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、つまり不問にするからこれからは神に背を向けず神を向いて新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは全て本当のことだとわかり、それでイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそれを神の守りと導きのうちに進むことになるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、「罪の赦しの救い」という神の贈り物を準備するためでした。私たちはこの贈り物を素直に受け取ってそれを携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。もちろん、全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそこを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、37節辺りから見ていくとわかるようになります。

 

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現すのです。しかし、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。というのは、神の栄光を映し出せる位に心の奥底まで掟を完璧に守ることは出来ないからです。それで、十戒は人間が誰でも罪を持っていることを明らかにする鏡です。なので、神の栄光を現す神聖な掟は人間を罰に定めてしまうのです。十戒だけでは人間は神聖な神のみ前に立たされた時、裁かれてしまうのです。

 

 しかし、神の御心はあくまで人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てて、神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。パウロが3章の9節で言っていること、人を罪に定める務め、つまり十戒の務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め、つまりキリストの務めは、なおさら、栄光に満ちて溢れているというのはこのことです。

 

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の焼き尽くす危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがイエス様の十字架と復活の出来事が起こって、この世は神から罪の赦しを頂ける時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままで真の栄光を見ようとしない人たちがいることをパウロは嘆きます。

 

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けているので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 

 12節「この希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」と言う時の希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使う時は、大抵は復活と神の栄光の映し出しを指しています。キリスト信仰者は、この希望から勇気を得ると言うのです。その勇気ある生き方の具体例が42節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について人々に真理を語る。そして他の人たちに向かって次のように言えることも。「私たちは罪の赦しの恵みに留まって生きる者です、なので神のみ前でやましいところは何もありません、どうぞそれをあなたたちの良心で判断してみて下さい」と。このように復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われどう思われようと全然平気です。人間は神ではないので恐くはないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年2月24日月曜日

この世で正義は不完全だが、最善を尽くして復活の日に清算してもらおう(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月23日顕現節第7主日 スオミ教会

 

創世記45章3-11、15節

コリントの信徒への第一の手紙15章35-38、42-50

ルカによる福音書6章27-38節

 

説教題 「この世で正義は不完全だが、最善を尽くして

      復活の日に清算してもらおう」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者を祝福せよとか、汝らを侮辱する者のために祈れとか。お前なんか地獄に落ちろと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さいなどと祈らないといけないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげないといけないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞ、とは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰もキリスト信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、困りました、どうしましょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者が物事を見る視点、キリスト信仰に特有な視点について教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が教えようとしている視点とは何か、考えなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 

2.神が与えたものにではなく与えて下さる神に固執せよ

 

 イエス様の実行困難な教えは他にもいろいろあります。どれも聞く人読む人にショックを与えます。一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせるやり方です。

 

 イエス様は金持ちの青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。それに対してイエス様はこう返しました。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。神が用意して下さったものを受け取ることでしか救いは得られないということです。もう一つは、人間は賜物を賜った神よりも賜ってもらったものに固執してしまうということ。賜ってもらったものに固執して賜ったお方を忘れるようになったら神は賜物を取り上げることも辞さないということです。

 

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったりすると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。それは、いつか将来今ある天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に死の眠り復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる。これがキリスト信仰の救いです。

 

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。ただ、神が守って導いて下さるとは言うものの、苦難や困難に出くわすと守りなんかないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として私たち人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世ではそこに至る道を神の守りと導きを受けながら進むことができる、これがキリスト信仰の救いです。

 

 この救いは人間の力では獲得できません。それを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようにしっぺ返しを喰らってしまいます。それでは、なぜ人間の力では獲得できないのか?それは、人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっているためです。その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによって人間は救いを獲得できるようになったのです。イエス様はどうやって解消したのでしょうか?それは、人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は私たち人間がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。このようにイエス様が果たして下さった罪の償いを信仰と洗礼で自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 

 金持ちの青年の出来事が教えているもう一つの大事なこと、人間は賜物を賜った神よりも賜物の方に固執してしまうことについて。神は固執する対象を訂正するために手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。たとえ賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執する心を持っていなければならないのです。宗教改革のルターはその心は次のようなものだと教えます。

 

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからしか得られないと思ってしまう位に愛しいものになってはいけない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えになるのをやめると言われるのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えは、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に追いやって賜物に執着してはならない、執着している限りそんな賜物は取られ奪われて当然だということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきです。そこで、もし逆にルターが教えるように神に固執して賜物を持っていたのに、不当な取られ方、奪われ方をされたらどうするのか?つまり、賜物が取られ奪われるのが当然ではない場合です。それは正義の問題になります。次にそれを考えます。

 

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 

 まず、敵を愛せよ、頬を差し出せという教えを見ます。これらも、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。イエス様はマタイ5章でも同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くでしょう。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前よくすると悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれるとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです(神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書1823節と3311節を見れば明らかです)。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛しています、などと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活と最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげる、ということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 

 復讐心で行わないということには、神がそうせよという命令があるからですが、もう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者が神から罪の赦しを受けた立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が膨張するのを抑える力になります。神聖な神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで私は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は復活の日に向って進む私を毎日支え守り、道を迷わないように導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。至らないところが沢山ある私だが、イエス様がこの私のためにも成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さずつけて生きている。その私を父なるみ神は毎日支え守り導いて下さる。

 

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」この教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活と完全な正義に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私はあいつを裁く、罪びとに定めてやる、赦さないなどと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われるでしょう。イエス様の教えは、私はできない、できない、絶対できない、と言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて簡単なことではありません。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪として、この世では不完全かもしれないが罰せられねばなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

 

4.勧めと励まし

 

 本説教で、キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々である、復活させられて神の御国に迎え入れられる日を目指して、今はこの世で神の守りと導きを受けながら進む日々であると申しました。苦難や困難に遭遇すると守りや導きを疑ってしまうかもしれませんが、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることである、それなので神の守りと導きは時として私たちの理解を超えた仕方で現れることがあるとも申しました。本日の旧約の日課、創世記45章のヨセフの信仰の証しがそれを示しています。愛のない兄弟たちの策略でヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされ、苦難に次ぐ苦難を受けます。しかし、最後にはエジプトの王ファラオに次ぐ高官に任命されるまでに至ります。その時、カナン地方を大飢饉が襲い、兄弟たちは食糧援助を求めてエジプトに来ました。今自分たちの目の前にいる高官がヨセフとわかって彼らは激しく動揺します。しかし、ヨセフは言います。あなたたちが私をエジプトに追放したのではない。後にあなたたちを救うために神が私をエジプトに送ったのだと。ヨセフは、兄弟たちに裏切られて売り飛ばされた時も、その後のエジプトでの様々な苦難の中にあっても、神がそばにおられることを信じて疑わなかったのです。もし疑っていたら、様々な誘惑があった時、神の意思に沿うなど意味がないと背いてしまったでしょう。しかし、背きませんでした。それは、まさに今日の詩篇の日課37篇にある、「主に信頼し、善を行え」という御言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように輝かせて下さる」という御言葉の通り、神に信頼して善を行い、そしてその正しさが光のように輝いたのでした。

 

 こう言うと、ヨセフの場合は運よくそうなったが、神に信頼して善を行ってもみんながみんなハッピーエンドにはならないと言う人も出てくるでしょう。ああ、信仰の薄い者たちよ、そんなことを言うあなたがたは、なぜイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたのかまだわからないのか?復活というものが本当に起きることが明らかになった以上は、正しさが光のように輝くのはたとえこの世の段階でなくても遅くとも復活の日に完全に起こるということがわからないのか?

 

 だから、神を信頼して善を行うことは何も心配しないで行って大丈夫なのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2025年2月10日月曜日

『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

主日礼拝説教 2025年2月9日顕現節第五主日 スオミ教会

 

イザヤ書6章1-8

コリントの信徒への第一の手紙15章1-11節

ルカによる福音書5章1-11節

 

説教題 「『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていく場面です。これと同じ場面がマルコ福音書とマタイ福音書にもありますが、違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。彼らが把握していたのは漁師たちがイエス様につき従ったという結果だけだったようです。ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということです。今日の説教はルカの個所をもとに説き明かしをしていきます。

 

 「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。ペトロや他の弟子たちは本当にそういう勧誘員だったでしょうか?今日は、「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。

 

2.神聖な神を前にした時の罪の自覚と神への恐れ

 

 舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかったのを見てペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫びました。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?

 

 少し出来事を振り返ってみましょう。イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないことです。

 

 岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。

 

 しかし、ペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。だけど、このお方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方だ。それで、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。

 

 半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の大量の魚で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは怖くなって叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。

 

 それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。

 

 本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内には神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んだのです。

 

 ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、自分の意思に反するものを汚れとして焼き尽くす炎の力が備わっています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

 

 このように、人間が真の神を間近にする時、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。なので、神を間近にしてしまった時、自分を神の意思に照らし合わせる人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせをしない人は恐れを抱きません。こう言うと、私は恐れなんか抱いて生きたくないから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。そこで、人間を捕る漁師になった使徒たちは何をしたのでしょうか?神への恐れと罪の自覚を呼び覚ますことだったでしょうか?

 

3.神に関わる真実は無かったことにはできない

 

 イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員になって人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身でした。弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られていました。活動内容も神の国が近づいたと告げ知らせることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちが伝道した町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったと思われます。

 

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づいて、あのお方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。人々は、このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子だとどんどん信じるようになっていきました。最初、彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。

 

 こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったと言えます。そしてイエス様が天のみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。ユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。

 

 使徒たちが権力者に脅されても怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのに無かったなどと、とても言えません。真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけだったら、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を揺るがないものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関わる真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚を持つと、神に関わる真実はますます無かったことにできなくなります。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかにはならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを諦めるようなことはしない、そういう心になるのです。

 

 無かったことにできないという神に関する真実をもう少し詳しくみてみましょう。あのお方は十字架にかけられて死なれたが三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たということが土台にあります。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだとわかりました。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかりました。それで、自分たちもこの世からの死で全てが終わって消滅してしまうのではない、将来、復活の日にイエス様のように復活させられて神の御許に迎え入れられることがわかりました。この一連のわかったことが曲げられない無かったことにできない真実でした。それではどうして使徒たちはイエス様の復活があったので自分たちも復活させられる、そして神の御許に迎え入れられるとわかったのでしょうか?

 

 それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする性向、すなわち罪の問題をイエス様が私たちに代わって解決して下さったとわかったからです。あの方の痛ましい十字架の死は実は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の死であったこと、神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さったことがわかったからです。使徒に続く人たちは、これらのことが全て本当に起こったとわかって、しかも、それらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神はなんと私たちのために約束を果たす忠実なお方であるかと敬愛し、神罰を受けて下さったイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける、そうすればイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いをそっくりそのまま自分のものにすることができる。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。ここからも明らかなように、神は信仰と洗礼の目的として復活の日に私たちを御国に迎え入れることを定めているのです。それなので、神が私たちをその道に置いた以上は、神は私たちが道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 神聖な神を間近にしたら人間は罪の自覚と神への恐れが生じます。間近になることがなくても、かの日に神の御前に立たされることを考えたら自覚と恐れを感じます。しかしながら、神への恐れで終わらないのがキリスト信仰です。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくると言ってもいいです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。こう言っても、まだピンとこなければ、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰です。その信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいことに付き合ってられないと言って離脱するかのどちらかです。キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだとわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。

 

 このように罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に沈んでしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。人を底から岸辺に引き上げる網のような道具は、聖書の御言葉です。使徒たちが目撃したこと、イエス様から見聞きしたこと、イエス様の十字架と復活を通して旧約聖書がわかったこと、使徒たちはこれらを無かったことにできない真実として人々に伝えました。彼らの命を顧みない証しや伝道を聞いた人々は真実を受け入れてイエス様を救い主と信じていきました。彼らの無かったことにできない真実が漁師の網だとすれば、その真実は全て聖書に収められています。それで聖書は使徒という漁師の網なのです。

 

 多くのキリスト教会では今日の日課について説教する時、イエス様は人間を捕る漁師になれと言って弟子を集めた、だから我々クリスチャンは人間を捕る漁師にならなければならないと説教するのではないかと思います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは人間を捕る漁師になる必要はありません。本当の人間を捕る漁師は直接の目撃者である使徒たちです。その証言と教えをもって新約聖書を作り上げた使徒たちです。私たちは直接の目撃者ではありません。聖書も形作っていません。私たちは、聖書という使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年2月4日火曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月2日顕現節第四主日 スオミ教会

 

エレミア書1章4-10節

コリントの信徒への第一の手紙13章1-13節

ルカによる福音書4章21-30節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の説教は先週の続きです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当しました。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という427節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること、その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと、そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと、これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。そうすることで人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。その後で何が起きたでしょうか?

 

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この後でイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。みなイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみせろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないと見破りました。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、後にイエス様が十字架に架けられた時、彼を信じない人たちが口にすることになる言葉でした。

 

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ65節、マタイ1358節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラム王国の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った王国と同じ立場にある、というのです。

 

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

 

3.ゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ1411節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同626節)。

 

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことをその通りだと信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰を受けて滅亡した王国と一緒くたにするとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 

 このことから明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 

 しかしながら、父なるみ神は、人間がたとえ死んでも復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてこの世で生きている間は復活に至る道を無事に歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、神罰を全て彼に受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたことです。人間は、イエス様の身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様が果たして下さった罪の償いは本当にその人のものになります。この時、その人は信仰の目を持っています。

 

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神に背を向けたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを意に介せず、目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄み渡り冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

 

4.勧めと励まし

 

 以上、信仰の目を持つと自分の罪が見るようになるが、罪の赦しの恵みに留まれば大丈夫、何も心配はないことを見てきました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われていています。終わりにそのことを見ておこうと思います。

 

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、これらは、夫婦間だけでなく人間関係一般の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 

 「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」というのはどういうことでしょうか?「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(πανταは「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すべきでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされてもイエス様のおかげで大丈夫、神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 

 どうやって「全てにおいて信じられ、希望を失わない」でいられるのか?パウロはそれを8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは無用になってしまうのです。

 

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、この自分が愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、これらはかつていつも部分的、一時的にしか持てず、持てたと思いきや、すぐ消えてしまうの繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。自分が愛そのものになってしまっているのです。

 

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはまさにこのことです。当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知ることになる」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 

 それでは、「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

 

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたように、私も神の御国で愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたが前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さったことです。私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

 

そこで神は答えられます。

 

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を身に纏った。それからは衣を手離さないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前が手離さないように握りしめた純白の衣の重みでお前の内なる罪は日々圧搾されてお前を支配する力を失っていたのだ。イエスを救い主と信じる信仰に生きたお前は、聖餐のパンと葡萄酒で衣を手離さないように握りしめる力を得ていたのだ。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 

 パウロはフィリピ16節で次にように述べます。

 

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。