2025年11月24日月曜日

「神の祈りの学校の生徒でいこう!」(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年11月23聖霊降臨後最終主日)スオミ教会

 

エレミヤ書23章1-6節

コロサイの信徒への手紙1章11-20節

ルカによる福音書23章33-43節

 

説教題 「神の祈りの学校の生徒でいこう!」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は聖霊降臨後の最終主日です。来週はもうイエス様の誕生をお祝いするクリスマスの準備期間、待降節/アドベントです。キリスト教会の新年です。それなので今は教会の年の瀬ということになります。フィンランドのルター派教会では聖霊降臨後最終主日は「裁きの主日」と呼ばれ、その日の福音書の日課は「この世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」をテーマにするものが普通です。日本のルター派の聖書日課も先週の福音書の日課はイエス様の終末の預言でした。ただ、今日の福音書の日課はイエス様が十字架に架けられる場面で、イースター前の受難節に相応しい箇所ではないかと思われるかもしれません。でも、よく目を見開いて読むとイエス様はこの世を超えた永遠なるものへの扉を開かれた方であることがわかります。それで聖霊降臨後最終主日に相応しい個所と考えます。

 

 ところで、「世の終わり」だの「最後の審判」だの、ちょっと話が暗すぎないか、人を明るくハッピーにするのが宗教じゃないかと言われてしまうかもしれません。フィンランドの「裁きの主日」ですが、その趣旨は教会の一年の終わりにキリスト信仰者としての自分の歩みを振り返って、自分はイエス様の再臨や最後の審判の時に申し開きができるのか自省し、イエス様がもたらしてくれた罪の赦しの恵みを今一度畏れ多い気持ちで受け取るというのが本来の趣旨です。ところが実際はどうかと言うと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなっているフィンランドの教会で(ただしSLEYの教会は別です!年中どこも満員御礼です!)、「裁きの主日」は一段と少なく、ところが、礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くや否や、待ってましたとばかり町中クリスマスのイルミネーションが一斉に点灯します。アドベントまでまだ1週間あると言うのに。果たして趣旨を心に留めている人はどれ位いるのだろうかと思ったものです。(ところで昨日知ったことですが、ヘルシンキでは昨日クリスマスのオープニング・イベントが大々的にあったとのことで、目抜き通りのアレキサンテリ通りはイルミネーションが華やかに点灯し盛大なパレードが繰り出され大勢の人でごった返したとのこと。アドベントはおろか「裁きの主日」も終わっていないのに!パイヴィによれば、もう何年も前から「裁きの主日」の前に行っているとのことで、私は知りませんでした。こういうことをするから教会の伝統に忠実でいたい人は皆SLEYの礼拝に流れて行ってしまうのでしょう。)

 

 「世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」というのは不安や心配を引き起こすテーマで、キリスト教徒と言えどもどう向き合っていいのか悩んでしまう人が多いと思います。ただ、近年では教派によっては、今の世界情勢を見ればキリストの再臨が間近なのは明らかだ、再臨に備えて聖書に書かれてあるようなことを率先して起こそう、そうすれば彼がいらした時に神の御国に迎え入れてもらえるのだ、と血気溢れるようなところもあります。ここで、私たちが礼拝で唱えるキリスト教の伝統的な使徒信条や二ケア信条ではどう言われているか思い出しましょう。再臨するイエス様は生きている人と死んだ人を判断する(裁く)とあります。恐らく急進的なキリスト教徒は、再臨は自分が生きている間に起こると確信しているのでしょう。私は、もちろんその可能性は否定しないが、確率として見たら、主の再臨は自分がこの世を去った後に起こる方が高いのではないか、もしそうなら、まずこの世を去って再臨の日に目覚めさせてもらって判断してもらおう、なので、その日まではルターが言うように安らかに眠ることになるだろうという思いでいます。イエス様の再臨が自分が生きている間に起こるのか、後で起こるのかについては説教の終わりにまた触れたく思います。

 

2.メシアと神の国

 

 本日の福音書の説き明かしに入りましょう。イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。みんな五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。実に痛ましい残酷な場面です。

 

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。イエス様の十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていました。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとこうなるぞ、という具合に。

 

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られたのです。ところが当時、これとは異なる期待もありました。復興される王国とは、この世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わる新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。さて、この世的な国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代にはこの世的でない超越的な王国とそのメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国がこの世的な国ではなく超越的な国であることをはっきりさせたのです。

 

 イエス様を罵った犯罪人は、彼のことをこの世的な王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったのでした。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのす。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様が「あなたの御国」、つまり彼が王である国に入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上にはない、今の世を超えた超越的な国であり、イエス様はその王メシアであると信じたのです。

 

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかわかりません。なんだか苦しみを和らげるための無意味な気休め言葉みたいです。そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは動詞の未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園に入ることになる、今日息を引き取ってこの世から別れた後で楽園に入ることになる、と言っているのです。

 

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあるんじゃなかったのか?今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、キリストの再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?今日中に楽園に入ることになると言ってしまったら、そういうプロセスは飛び越えてしまったということなのか?

 

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。そうであれば、イエス様が今日中に楽園に入ることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので大丈夫です。

 

3.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 

 次に「私のことを思い出して下さい」と言った犯罪人の言葉とイエス様の返答を見てみましょう。これらはよく目を見開いて見ると、キリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白、そしてそれに続く罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 

 その犯罪人は、イエス様がこの世的な国を超えた国の王であると信じています。反対にもう一人の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世的な国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、別の犯罪人は、イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われているのだと直感しています。

 

 このようにこの犯罪人にはイエス様が超越した国の王であることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこういうことを約束してくれる方がおられるというのは何と素晴らしいことでしょうか!

 

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。創世記にあるように人間は堕罪が原因で造り主の神との結びつきを失い、結びつきのないままこの世の人生を送り、この世の人生を終えたら結びつきがないままこの世を去るしかない存在になってしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげよう、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと思いました。それらを可能にするためにイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に開かれたのです。

 

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったのだ、それでイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きることになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままで復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中には神の意志に反するものがよどんでいます。何かの拍子にそれに気づかされた時、キリスト信仰者はがっかり意気消沈します。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の驚くべき計画によってあの十字架が歴史上打ち立てられた以上は、あの方は私の救い主であり続け、救い主である限り神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もうがっかりも意気消沈もありません。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味します。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、罪の赦しという神のお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

 

4.勧めと励まし

 

 本日の福音書の犯罪人は息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けました。そうすると、どうせ最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば罪を赦されて天の御国に迎え入れてもらえるのだから、その前は別にイエス様を信じず洗礼を受けなくても問題ないではないかと言う人もいるかもしれません。実際、そういう方とお話ししたことがあります。以前の説教でお話ししたことですが、ここで改めて取り上げたく思います。最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性は否定しません。しかし、考えなければならないことが二つあります。

 

 一つは、洗礼を受けると聖霊が授けられるというキリスト教の伝統です。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけだと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけだと、イエス様のことを誰もこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の観点です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 

 もう一つ考えなければならないことは、「神の祈りの学校」の在学期間です。「神の祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間でよく口にされる言葉です。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならずに失望や挫折することがあるかもしれない、しかし、そういうことを通してでも神は人間の望みよりも大きなことを与え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。在学期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?そういう心が持てれば、主の再臨が生きている間に来ようがこの世を去った後に来ようがどっちでもよくなると思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年11月10日月曜日

「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師) 

主日礼拝説教 2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

ヨブ記19章23-27a

第二テサロニケ2章1-5、13-17節

ルカによる福音書20章27-38節

 

説教題 「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。

 

 サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 

 サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記255節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。

 

 これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。

 

2.復活の在りよう

 

 まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。

 

 ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。

 

 二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。

 

 三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。

 

 そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。

 

 そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

 

3.神は復活に与かって生きる者の神である

 

 次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記36節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。

 

 このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。

 

 次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。

 

 それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。

 

 次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

 

 そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ61011節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。

 

 パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。

 

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ610節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ611節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

 

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 

(後注1αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2ルカ2038αυτω ζωσιν、ローマ610ζη τω θεω11ζωντας (…) τω θεω (…)

(後注3「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

2025年11月4日火曜日

復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2025年11月2日 全聖徒主日 スオミ教会

 

ダニエル書7章1~3、15~18節

エフェソ1章11~23

ルカ6章20~31節

 

説教題 「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたのですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?

 

 福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。

 

 ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。

 

2.復活の視点と「幸い」

 

 ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。

 

 「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。

 

 この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。

 

 もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。

 

 「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。

 

 こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。

 

 それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。

 

 イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。

 

3.復活の視点と正義

 

 次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?

 

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 

 敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?

 

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 

 汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。

 

 そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年10月13日月曜日

いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)スオミ教会

 

列王記下5章1~3、7~15b

第二テモテ2章1~15節

ルカ17章11~19節

 

説教題 いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

. はじめに

 

 イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所はガリラヤ地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。

 

 さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はその場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せなさいとだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだからと言う通りにただちにエルサレムに向かいました。

 

 ところがどうでしょう、出発後ほどなくして10人はみな治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム行きの目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきた人がいました。先ほども触れたサマリア地方の出身者でした。彼は癒しを与えてくれた神を大声で褒め称えながら戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏し神の癒しを及ぼして下さったイエス様に感謝しました。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。

 

 本日の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを2つ明らかにしています。一つは、神から義なる者と認められて救われるのは律法の規定を守ることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によってであるということ。もう一つは、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つの萌芽がサマリア人の行動から見て取れます。この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、キリスト信仰にとって本質的なことがあるというのは少し気が早いかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。

 

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味

 

 この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみます。この言葉は一見すると、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからということになってしまいます。本当にそうでしょうか?それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだと言うべきでした。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。このことに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみましょう。

 

 マタイ922節、マルコ1052節、ルカ1842節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、気をしっかりもちなさい(後注)。あなたの信仰があなたを救った」と言います。この言葉をかけられた後で女性は健康になります。マルコ10章とルカ18章では、盲人がイエス様に見えるようにしてほしいと懸命に嘆願しました。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。

 

 本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」はギリシャ語原文では現在完了形(σεσωκεν)です。「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味です。それなので「あなたの信仰があなたを救った」というのは、本当は「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

 

 これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時まで救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことがありうるのでしょうか?普通は、治った時に救われたと言います。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間の目から見て良い境遇にあるということと同義ではないのです。境遇が良いか悪いかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。

 

 そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。この不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。

 

 さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には向けられませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。

 

3.キリスト信仰を先取りするサマリア人の行動

 

 先ほども申しましたように、レビ記14章には重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとして定められています。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(1420節)、つまり「清い状態」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。

 

 ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないかと思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。

 

 もう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯したから、かからなかった人は犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間は死ぬ存在であり続けたことに示されているのです。使徒パウロが罪の報酬として死がある(ローマ623節)と言ったのはこのことです。死ぬということが人間が罪を持っていることの表れなのです。

 

 さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを良しとします。つまり、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要な神との和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったのです。モーセの律法には「重い皮膚病」が治った後の「清めの儀式」の他にも罪を償い神との和解を得るための儀式が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、232732節)。

 

 しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。」(1012節)。

 

 そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、神との結びつきを持ったまま去り、復活の日が来たら目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて創造主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にある兄弟姉妹の皆さん、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖い出して、神との和解をもたらして下さいました。私たちキリスト信仰者はそのイエス様を救い主と信じ洗礼を通して、この償い、贖い、和解が自分にはあるという者になりました。私たちが律法の規定を守ることでこれらがあるというのではなく、イエス様を救い主と信じることでこれらがあるという者です。自分では何もしていないのに、なんで?と一瞬あっけに取られます。しかし、自分にあるものをわかるや否や、心と体は強烈な感謝に包まれ、そこから神とイエス様を賛美する心が起こります。ちょうど律法のもとにではなくイエス様のもとに戻ったサマリア人のようにです。神を賛美する心も、神の意思に沿うように生きようと志向する自由な心もこの感謝から出てくるのです。その意味でサマリア人の行動には来るべきキリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後の信仰者はどう立ち振る舞うかをこのサマリア人を例にして前もって教えているのです。

 

 先日、ある教会員の方とお話しする機会があって、いろいろ大変なことがあった人生だったが、今は大分落ち着いて毎晩一日を振り返って一つ一つのことに神さまの良い御心が働いていたことがわかり、感謝に満たされて床につくことができるようになったとおっしゃっていました。素晴らしいことだと思いました。多くの人にとって平穏無事は当たり前になってしまって、特に神に感謝することではなくなっていることが多いからです。後で本説教を準備して、あの時、言っておけば良かったということが出てきました。それは、たとえ平穏無事が離れてしまう時があっても、償い、贖い、和解がある限り、離れない平穏無事を私たちは持っているということです。人間の目では平穏無事はなくても、神の目で見える平穏無事を持っているのです。だから、いつどこででも神に感謝するのは当然であり相応しいことなのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注 θαρσει「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと、健康になりなさい、というふうになって、これから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。