2024年11月13日水曜日

自分に備わっているものは全て神からの贈り物(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日

スオミ教会

 

列王記上17章8-16節

ヘブライの信徒への手紙9章24-28節

マルコによる福音書12章38-44節

 

説教題 「自分に備わっているものは全て神からの贈り物」

 

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1 はじめに ― やもめの捧げ ― 美談か悲劇か?

 

 エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。

 

 金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。

 

 しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(1240節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。

 

 イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ1312節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。

 

2.自分に備わっているものは全て神からの贈り物

 

 このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?

 

 いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?

 

 その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」92428節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。

 

 そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。

 

 このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!

 

 恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。

 

 このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。

 

 ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。

 

3.勧めと励まし

 

 終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。

 

 二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。

 

 そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。

 

 三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2024年11月4日月曜日

キリスト信仰とはつまるところ復活信仰なのだ(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)  

 

主日礼拝説教 2024年11月3日(全聖徒主日)スオミ教会

 

イザヤ書25章6-9節

ヨハネの黙示録21章1-6節

ヨハネによる福音書11章32-44節

 

説教題 「キリスト信仰とはつまるところ復活信仰なのだ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ71117節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

 

 本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。

 

2.黙示録21章とイザヤ25章の復活

 

 復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

 

 特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

 

 まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。

 

 本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇13913節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסךが使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書257節でも同じ「織物を織る」動詞(נסךが使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

 

 人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。

 

3.復活信仰の確認

 

 次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。

 

 そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。

 

 マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。

 

 しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

 

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

 

 マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

 

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

 それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

 このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。

 

4.勧めと励まし

 

 最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ415節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。

 

 イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ416節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年10月21日月曜日

贖いと償い(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日

 

イザヤ書53章4-12節

ヘブライの信徒への手紙5章1-10節

マルコによる福音書10章35-45節

 

説教題 「贖いと償い」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)

 

 しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。

 

2.メシアと王国

 

 まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。

 

 イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。

 

 これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前23世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。

 

 どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。

 

 こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。

 

3.償いと贖い

 

 身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあったのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?

 

 まさにこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。

 

 人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。

 

 そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったまま別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。

 

 ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し」のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う」の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。

 

 人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。

 

 この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。

 

 信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。

 

 以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年10月14日月曜日

永遠なるものを前にしての人間の無力さ、 しかし、神が道を開いて下さる(吉村博明)

                      説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日

 

アモス書5章6-7,10-15節

ヘブライの信徒への手紙4章1216節

マルコによる福音書10章17-31節

 

説教題 「永遠なるものを前にしての人間の無力さ、

しかし、神が道を開いて下さる」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。しかし、イエス様は人間には不可能でも神には不可能ではないと言われます。ということは、神の国に入れることを神が可能にしてくれるということです。神はどのようにそうするのか?後ほど見ていきます。

 

 もう一つの難しい教えは、イエス様が親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないぞと言っているように見えることです。なんだか危ない宗教団体のように聞こえます。それだけではありません。十戒の第四の掟「汝、父母を敬え」はどうなるのか?家財はともかく親兄弟を捨てよなどとは「父母を敬え」に反するのではないか?しかし、イエス様の教えには反社会的なことも矛盾もないのです。このことも後ほど見ていきましょう。

 

2.「神の国」、「永遠の命」について

 

 まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何かを確認しなければなりません。意味をあいまいにしたまま話をするととんでもない方向に話は行ってしまいます。最近のキリスト教会では、「神の国」や「永遠の命」は将来本当に起こることではなく、キリスト信仰者が心の中で描く像のようなものだ、とか、この世の何か大切なものを象徴して言っているだけだ、などと教えるところもあります。しかし、このスオミ教会で私はイエス様やパウロが教える通りに、将来本当に起こることとして教えていきますので、ご了承ください。

 

 男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。ところが、聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。なぜなら、それは一度この世で死ぬことを前提としているからです。だから、不死ではないのです。キリスト信仰では、いつか将来今のこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んで眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)と見なされた者は復活の体という、神の栄光を映し出す体を着せられて創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。

 

 復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われます(黙示録214節、717節、イザヤ258節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ1219節、イザヤ354節、箴言2521節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも遠い世界になるところです。さらに、フィンランドの教会の葬儀ではいつも「復活の日の再会の希望」が言われます。つまり、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所であるということです。

 

 復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」と言います。そういうわけで、永遠の命を受け継ぐというのは復活させられて永遠に「神の国」に迎え入れられることです。

 

3.永遠の命は人間の力や努力で獲得できるものではない

 

 さて男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきかと聞きました。男の人はお金持ちだったので、永遠の命も何か正当な権利があれば所有できる財産か遺産のように考えたのでしょう。何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上の富と対比させるために永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、という宗教・文化を問わずどこにでもありそうな教訓話に聞こえます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。

 

 まず、この男の人は私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。イエス様のもとに走り寄ってきて跪きました。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、と真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守っています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきました、という信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

 

 それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟を守りながら財産を築き上げたという経歴があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。それで弟子たちが驚きの声をあげたことも理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさいというイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと思われていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。

 

4.「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは神が可能にした

 

 それでは、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能だが神には不可能ではない、と。つまり、人間の力で出来ないのなら、神が出来るようにしてあげようということです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?

 

 神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしました。人間が持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、すなわち罪が人間の神の国への迎え入れを不可能にしている、その罪の壁を打ち破るためにイエス様は身を投じたのです!それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、イエス様の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになります。罪を償われたら神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦してもらったから、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みの中にとどまっている限り、この結びつきはなくなりません。結びつきがあるおかげで逆境の時も順境の時も全く変わらない神の守りと導きを受けて生きることができます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、復活したイエス様と同じように神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。この大いなる救いは人間が成し遂げるものではなく、神がひとり子を用いて人間のために成し遂げたものです。人間はただそれを信じて受け取るだけでいいのです。そういうわけで、人間の力では不可能だった「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは、神の力で可能になったのです。本当に神にしか出来ないことでした。だからイエス様は、神が唯一の善い方であると言われたのです。

 

5.キリスト信仰は親兄弟家財を心で捨てている

 

 しかしながら、この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、人間には不可能でも神には不可能でないと言われても、まだ理解できません。ペトロの言葉はまだ理解できていないことを示しています。イエス様、あなたは金持ちの男に対して、全てを捨てて貧しい人に施せば永遠の命を得られると言われました。その人は捨てられませんでしたが、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それならば、私たちは永遠の命を得られるのでしょうか?という具合です。これに対してイエス様は、私のため福音のために親兄弟家財を捨てる者は永遠の命を得ると言ったことになっています(新共同訳では)。これだと、ペトロたちは得られると言っていることになります。しかし、それだと永遠の命も結局は、人間がエイヤー!と気合を入れて親兄弟家財を捨てたら得られるものになってしまいます。人間の力が決め手になってしまいます。これでは人間に不可能なことではなくなってしまいます。話が滅茶苦茶になります。

 

 この混乱は問題の個所のギリシャ語の原文が少し複雑なために起きます。二重否定があったりして少し厄介な原文ですが、素直に訳すと次のような流れになります。ペトロが、私たちは全てを捨ててイエス様に従いました、私たちは永遠の命は大丈夫でしょうか?と聞きます。それに対してイエス様は次のように答えたのです。「もしこの世で捨てたものを100倍にできず、次の世で永遠の命も得られないのなら、この世で私と福音のために親兄弟家財を捨てたことにならない。」つまり、もしこの世で捨てたものを100倍にできて、次の世で永遠の命も得られるのなら、この世で親兄弟家財を捨てることになる、というのです。この世で100倍のものを得て次の世で永遠の命を得ることが先で、その次に親兄弟家財を捨てることが来るというのです。普通は逆に考えます。親兄弟家族を捨てたら100倍と永遠の命が来ると。ご褒美だからです。しかし、原文の素直な訳はその逆で、先に100倍と永遠の命を得ないと、親兄弟家財を捨てることもないと。本日の福音書の個所の最後のところでイエス様は、後のものが先になり先のものが後になる、と順序が逆転することを言っていますが、それと見事にかみ合うのです!(素直な訳がどうしてこのようになるかについて、本説教のテキストの終わりに解説をつけて教会ホームーページに載せます。興味ある方はご覧下さい。)

 

 ペトロは、私たちは全てを捨てました、永遠の命は大丈夫ですか、と聞いたのに対して、イエス様は、先に永遠の命を得ないと捨てたことにならないと応じました。それでは、どのようにして先に100倍と永遠の命を得られるのか?言うまでもなくそれは、十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそうなるのです。神と結びつきを持って生きられるようになることが、捨てたものを100倍にして得られることです!この結びつきを持って生きる者に永遠の命が約束されているのです。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は本当に親兄弟家財を捨てているのでしょうか?ここで宗教改革のルターに登場してもらいます。ルターが問題の個所を素直な訳で考えていることは明らかです。

 

 ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を隣人のために役立てよと教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならなくなったら親兄弟家財を捨てるのだ、と言います。この心構えを持っていれば、衝突がない時でも既に「心で捨てている」ことになると言うのです。「捨てる」とは「心で捨てている」ということなのです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがします。しかし、そうではないのです。先週の説教でもお教えしたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守らなければならない。肝心なことは、贈り主が贈り物よりも上にあるということです。これが「心で捨てる」ことです。もし、贈り物が贈り主を捨てろと言ってきたら、信仰者は贈り物を捨てなければならないのです。

 

6.勧めと励まし

 

 それでは、もし贈り主と贈り物が衝突したらどうなるでしょうか?もし肉親がキリスト信仰に反対して捨てろと言ってきたら、どうしたらいいのか?もう心の中ではなくて文字通り捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する肉親を心で捨てているということは起きています。ただ、同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがします。しかし、信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

 

 これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次の質問したことがあります。「もし親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり信仰をやめさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられるという事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち取れるかもしれない。場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」。使徒パウロはローマ12章の中で、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は高ぶることや偉ぶることと無縁であると教えます。使徒ペトロは第一ペトロ3章の中で、キリスト信仰の希望について説明を要求されたら穏やかに敬意をもって正しい良心で弁明しなさいと教えています。誠にその通りです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

問題となっているマルコ102930

 ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου, 

 εαν μη λαβη εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω ζωην αιωνιον.

 

1)素直な解釈は、主節文をουδεις εστιν του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考えます。

 「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」

 この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。

 

2)親兄弟家財を捨てたら永遠の命を得るという理解は、εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてοςαφηκεν ...εαω μη λαβη (…) と見なす解釈ではないかと思います。

「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」

これだと、捨てないと得られないということになり捨てないといけないというプレッシャーがかかります。