2014年6月9日月曜日

聖霊の働き (吉村博明)




スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年6月8日 聖霊降臨祭

ヨエル書3章1-5節
使徒言行録2章1-21節
ヨハネによる福音書7章37-39節

説教題 「聖霊の働き」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下ったのであります。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。クリスマスに、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちの救いのために神が人間となって来られたことを喜び祝います。復活祭には、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、十字架の上で御自分を犠牲の生け贄として捧げて死なれるも、三日後に父なるみ神の力によって復活させられて、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さったことを祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が約束されていた聖霊が、彼の昇天後に天のみ神のもとから送られたことを喜び祝います。聖霊は、ルターの小教理問答にもあるように、私たちがイエス・キリストの福音を読んだり聞いたりする時に、私たちの内に信仰を生み出す力を持つ方です。そして、私たちが神の御言葉に拠って立つ正しい信仰にとどまれるように私たちを日々守り導いて下さる方です。

 聖霊降臨祭は、またキリスト教会の誕生日と言われます。そのことは、先ほど朗読されました使徒言行録の2章を続けて読んでいきますとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証しを行い、神のもとに立ち返る生き方をするように勧めます。これらの言葉を聞いて心を突き刺された(237節)群衆は、すぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

それにしても、聖霊が使徒たちに注がれた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(3節)た、というのは、本当に不可思議な現象です。このことについては、かつて洗礼者ヨハネが、自分の後に来る救世主は聖霊と火によって洗礼を授ける、と預言していましたが(マタイ311節、ルカ316節)、その通りになったのであります。マラキ書3章では、将来到来する救世主のことを、金や銀から汚れを除去する精錬の火である、とたとえられています(23節)。聖霊を受けるというのは、罪の汚れた力を除去することが一緒になっているので、それで汚れを除去する炎を浴びせることと同じと見なされます。

ところで、私たちが洗礼を受ける時にも聖霊を授かりますが、その時私たちは、洗礼を受ける者が炎をあてられるような現象は普通目にしません。しかしながら、洗礼が授けられる時、私たち人間の目にはそう見えなくとも、父なるみ神の目からは、まさに炎で精錬をするようなことが起きていると見えるのでしょう。罪の汚れた力が焼き尽くされると見えるのでしょう。それでは、そうした神の目ではなく、私たち人間の目から見た場合、聖霊を授かった者にはどんな変化が起きたと見えるでしょうか?それについては、イエス様の次の言葉があります。

「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ38節)。

ここでは、風の作用と聖霊の働きが似ているということが言われています。(興味深いことに、ギリシャ語でもヘブライ語でも、風を意味する単語と霊を意味する単語は同じです。)私たちの目には空気は見えません。しかし、空気が移動して風となって、木々を吹き抜けていくと、枝がしなり、葉がざわめいて、ああ、風が吹いたんだな、と空気が移動したことがわかります。聖霊を授けられた人も同じで、それまではイエス・キリストとか天のみ神とか、口にもしなかったり考えもしなかった人がある日突然、考えたり話題にするようになる。また、それまではイエス・キリストと聞いても、世界史の授業や教科書から、ああ、そういう人物が歴史上存在していたんだな、と知識として知っていた人が、ある日突然、実はイエス様は自分の救い主だったのだ、とわかるようになる。そのようにして、イエス様が現代を生きる自分と直接関係のある存在になる。そういう時、その人に聖霊が働いたことがわかるのです。人間は誰も、聖霊が働くことなくしてはイエス様を自分の救い主とわかることはできないのです。聖霊が働かなければ、単なる知識に留まるのです。

さらに、「ヨハネの第一の手紙」4章で、何が天のみ神に由来する霊で何がそうではない霊であるかを判別する決め手になるかというと、それは、イエス様のことを正確に教えているかどうかにかかっている、と教えています。例えば、イエス様は、もともとは天の父なるみ神のもとにいて神と同質であったひとり子で、それが人間と同じ肉をまとってこの世に来た、この真理を公けに言い表す霊が神に由来する霊であります(2節)。

 以上のように、聖霊とは、私たちを罪の汚れから洗い清めてくれたり、神の意思やイエス様のことについて、正確な知識を与えて下さる方であります。本日の福音書の箇所では、こうした聖霊の働きについて、別の視点から教えていますので、それを見ていきたいと思います。
 
2.

 本日の福音書の箇所で、イエス様は、「生きた水」について語ります。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?何か不思議な水です。その意味を明らかにしましょう。

 まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、と言われる。つまり、イエス様が渇きを癒して下さるということです。「渇いている」と言うのは、霊的に何かを熱望しているということ、つまり救いを求めているということです。それでは、救いとは何かと言うと、端的に言えば、天の父なるみ神としっかり結びついて生きられるということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主としっかり結びついていることで、この世の人生の歩みで神から守りと良い導きを与えられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神のもとに永遠に戻ることができる、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がそうした霊的な熱望である救いを叶えてくれるということであります。救いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部自分一人で請け負って、十字架の上でその罰を全て受けて、人間の身代わりとなって死なれたのです。さらに、死から復活させられたことによって、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。こうして人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神からはイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを得られ、こうして神との結びつきを取り戻すことができるようになったのであります。

本日の福音書の箇所はまた、このようにしてイエス様によって渇きを癒され救いが叶えられた人は、今度はその人自身から「生きた水」の急流がほとばしるようになると言います。それでは、その「生きた水」とは何か?これについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(414節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのであります。そういうわけで、「生きた水」、「生きている水」というのは、人を「永遠の命に向かわせる水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」であります。

本日の福音書の箇所によれば、このイエス様が与える「生きた水」は、イエス様を救い主と信じる人たちに与えられる聖霊を意味するということでした。そこで、「生ける水」と聖霊を結びつけて考えると、イエス様の教えは次のように要約することができます。人がイエス様から「生ける水」を受けて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いを叶えられて、イエス様を救い主と信じるようになり、聖霊を受けることになる。すると今度は、聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊は、信じる者を霊的に潤しながら、渇きそうになったらすぐ癒してくれて、まるで信じる者を永遠の命まで押し流してくれる。以上がイエス様の教えの主旨です。まさに、イエス様を救い主と信じる者においては、聖霊は、その人の核心ないし要のようなものとなって、その人を内側から永遠の命という目標に向かわせようとする働きをしている、ということであります。それはそれで素晴らしいことではあります。しかし、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?どうもそうとも思えません。しかし、天の父なるみ神の目から見れば、一度聖霊を受け取って信仰を持って生きる者は、外面上はどんなことが起きても、聖霊を水源としてその人の内面から湧き出る水は、永遠の命を目指して絶えることなく流れていくのであります。そうしたことが、どうして可能なのか、以下に見てみましょう。

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 人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を授かっても、まだ肉を纏って生きています。そうである以上、実はまだ神への不従順と罪を内にもったままです。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか、キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体何なのか?そういう疑問を抱かれると思います。罪と不従順を相変らず抱えているのに何が決定的に変わったかというと、それは次のようなことです。人が父なるみ神の御前で、「はい、あなたの御ひとり子イエス様は私の罪を請け負って私が受けるべき罰を受けられて私の身代わりとなって死なれました。彼の身代わりの死の上に私の今の命があります。だから彼こそ真に私の救い主です。」こう信じて告白すれば、神はその人に、「よくぞ、私がイエスを用いて整えた救いを信じて受け入れてくれた。お前は罪びとだが、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦そう」と言って、その人を永遠の命に至る道に置いて下さります。そして、それからは神から良い導きと助けを得られながら、この世の人生を歩んでいくこととなります。罪というものを人間が神に対して抱えていた借金や負債のように考えると、神はそれを一方的に、イエスの犠牲に免じてなかったことにしてやる、と言って帳消しにして下さったのです。私たちの神に対する負債は、言わばイエス様の流した血が代償となって帳消しにされたのですから、私たちの新しい命はとても高い値がつけられているのです。

こうして、神と人間との結びつきが回復することになりました。罪と不従順は残っているにもかかわらず、罪を赦されて神との結びつきができた以上、罪にはもはや人間を最終的に牛耳る力はないのです。私たちを最終的に牛耳る方は、本来は私たちの造り主である神なのです。イエス様を救い主と信じることで、人間は罪の支配下から神の庇護下に戻させられるのです。

ここで、この世に働くいろいろな力とその背後にある悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは、堕罪の時からそうでした。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者をやっぱり救いようのない罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は、自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきた時は、ルターは次のように答えなさいと言っています。「そう、確かに私は罪びとだ。だが、まさにこのような私が神と結びつきを持てるようになるために、あの方は十字架の上で死なれたのだ。だからあの方は私の真の救い主であり、あの方を送られた神は私の愛すべき父なのだ。」これこそ、天の父なるみ神が私たちから一番聞きたい言葉なのです。

ところで、この世に働く力が、罪とは別の問題で、信仰者を惑わして神への疑念を抱かせることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。その時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などお前もさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

確かに、神としっかり結びついて生きるなどというと、順風満帆の人生が保証された感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についていると言うのですから。そうなれば、こわいものなしです。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども、不幸や苦難に陥ることにかけては、信仰者でない人たちとあまり大差はありません。それにもかかわらず、信仰者はどうして、苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それは、キリスト信仰者は、命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの後に来る天の御国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているという自覚があるからです。この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならない、とわかっているのです。イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死と死からの復活のおかげで大きな人生を歩めているとわかれば、神は苦難困難の時にも目を離さずに見守っていて下さるということが当たり前になるのです。そして、神は時宜にかなった助けを与え下さる、と心静かに忍耐して待てるようになるのです。

以上のように、イエス様を救い主と信じる信仰によって回復した神との結びつきは、信仰人生の途上で、小さくなったり弱まったり感じてしまうことがありますが、それは人間の目から見て勝手に感じられることであって、神の目から見れば何にもかわっていないのです。イエス様を自分の救い主と信じる信仰に立ち続ける限り、周りでどんなに嵐が吹き荒れようと、神との結びつきには何の変更もありません。人間は、目で見たこと耳で聞いたこと肌で感じたことが判断の元になりがちです。しかしながら、こと救いとか罪の赦しとか神との関係のような事柄に関しては、目や耳で捉えたり感じたりしたことを超える把握ができないといけません。しかし、それは人間の力ではできないことです。それを可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。最初にも申し上げましたように、知識として知っていた歴史上の人物のイエス・キリストが、突然今を生きる自分の人生をつかさどる救い主になったというのは、これは聖霊の働きによるのです。ところで聖霊は、聖書の御言葉と密着して私たちに働きかけますから、兄弟姉妹の皆さん、聖霊の働きかけをこれからもしっかり受けることが出来るために、聖書はしっかり読んでまいりましょう。

4.

 ルターは、イエス様の言葉「わたしはあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ1128節)の解き明しで、聖霊の働きを受けた者は重荷が軽くされるということを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。
「イエス様は、『わたしはあなたがたを休ませてあげよう』と言われた。これは、まさにあらゆるものの上に君臨する方が口にすることができる言葉である。いかなる天使も、この言葉で言われていることは自分には果たせないと認めざるを得ないであろう。人間は言うに及ばず、である。この言葉をもって、イエス様は、自分が罪も死も律法も義も命も至福も全てを支配していることを宣言しているのである。そのようなことが可能なのは、まさに神だけである。神は、我々の罪という重荷を、赦しを与えることで取り除いて下さる。さらに、我々の抱えるその他の労苦をも軽くして、我々に喜びと安心を与えて下さる。

我々の良心が罪のために苦しめられる時、神から罪の赦しを与えられて天の御国を継ぐ者にしていただいと告げ知らされること以上に、我々の魂が平安を得ることはない。さらに、神が我々に平安を与えて下さるのは、罪が我々を重苦しくしたり我々の心を引き裂こうとする時だけに限らない。神は、我々が陥る他のあらゆる苦難困難の時にも、我々の傍から離れるつもりはないと言われるのである。神は、飢饉の時も、戦争の時も、絶体絶命の時も、その他我々が直面するであろうありとあらゆる過酷な試練においても、我々を見捨てることはないと言われるのである。

罪が人間を天の御国と正反対の方向に沈めようとする力は、人間が背負う重荷の中で最も重いものである。もし神の御子イエス・キリストが聖霊の働きをもって助けて下さらなければ、誰もこの重荷から解放されることはない。聖霊は、イエス様が父なるみ神にお願いして私たちに送っていただいた方である。聖霊が我々に働く時、我々の心は喜びに溢れ、罪が我々の心を引き裂こうとした事柄はどうでもよいこととなり、また、神が我々にしなさいと言われることをしっかり行わなくてはという気持ちにしてくれるのである。」


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン