2025年6月24日火曜日

聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし (吉村博明)

  

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年6月22日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

イザヤ書65章1~9節

ガラテアの信徒への手紙3章23~29節

ルカによる福音書8章26~39節

 

説教題「聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。

 

 今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。

 

2.悪霊に取りつかれた男の人と神の旧約での約束

 

 本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。

 

 この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分は3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。

 

 さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。

 

 町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。

 

 それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ1056節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えることです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。

 

 そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。

 

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書496節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。

 

3.聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし

 

 次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 

  それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。

 

 さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。

 

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。

 

 しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア327節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。

 

4.勧めと励まし

 

 悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。

 

 主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年6月2日月曜日

イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年6月1日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。ただし、生きたままとは言っても、死からの復活を遂げたので普通の肉体ではない復活の体をお持ちでした。復活の体を持つというのは死を踏み越える命、永遠の命を持つということです。イエス様はそのような者として天の父なるみ神のもとに上げられたのでした。

 

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事ですが、いろいろ考えていくと、なぜこの世を生きるのかという問いに対してキリスト信仰者はどう答えるかを明らかにしてくれます。今日はそのことを見ていきましょう。

 

2.昇天とはいかなる現象か?

 

 最初に昇天とはいかなる現象かをみてみます。以前にもお教えしましたが、これは極めて聖書的な現象です。大事なことなので復習しておきます。

 

 新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(19節)。これを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていくか、ドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実のものと思いません。イエス様の昇天を同じようにイメージしてしまったら、誰も真面目に受け止めないでしょう。

 

 そこで、ギリシャ語の原文を見てみます。雲は上空でイエス様を覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲に類する現象がイエス様を運び去ってしまったのです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいるイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みにフィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまったという理解を与えてしまいます。

 

 聖書には旧約新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。モーセが神から掟を授かったシナイ山の雲しかり、イスラエルの民が運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上で姿が変わった時も雲が現れて神の声が響き渡りました。また、イエス様は裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ1462節)再臨すると予告しました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言います。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨すると。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来るということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天は聖書的な出来事の一つなのです。加えて、冒頭で申し上げたように、イエス様の体は復活の体でした。復活後のイエス様は空間移動が自由にでき食事もするという天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神と同質な方なので天使以上の方です。体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だった、そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国とは?

 

 これで、イエス様の昇天は聖書的な出来事、現象であるとわかりました。次に、天の御国について考えてみます。天に上げられたイエス様は今、父なる神の右に座している、と毎週キリスト教会の礼拝の信仰告白の部で唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのでしょうか?

 

 これも毎年述べていることですが、人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数のロケットやスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても恐らく見つからないのではと思います。

 

 なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰と全く別世界のものだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足を使って確認したり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っていることはこうした計測確認できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして、し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えたことに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、この現実の世界は森羅万象の一部分にしか過ぎないという位に広大な森羅万象を見据えるのが信仰です。天の御国もこの現実の世界を超えたものです。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界が森羅万象の全てだと言うことも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

 

 ところがキリスト信仰者は、自身も含め現実の世界とそこにあるものは全てこの現実の世界の外側におられる創造主に造られたと見ます。なので、創造主と結びついていれば、命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。皆さんご存じのように聖書には終末論と新創造論があります。この現実の世界は始まりがあったように終わりもある、その時は新しい天と地に再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生がまた続いていくと考えます。このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。

 

 日本では普通、この世の人生が終わると、天国にしろ極楽浄土にしろ別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。なので、この世を去った人はあちら側からこちら側を見ているというイメージがもたれます。

 

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論があります。今はこの現実の世界の外側にある神の国がその時に唯一の国として現れます。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来する時、今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前に死んでしまったらどうなるの?と聞かれます。答えはキリスト信仰に特異な復活の信仰です。到来する前に亡くなった人たちは復活の目覚めの日まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言ったのはそのためです。それなので、亡くなった方が起きていて地上の私たちを見守ってくれるというイメージは復活の信仰を持つキリスト信仰者には起きないのです。私たちを見守るのは死んだ人の霊ではなく天地創造の神です。神はかの日に眠れる者を起こして復活させて懐かしい人たちとの再会を果たして下さるのです。

 

4.今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる命と人生

 

 このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。この死生観に立つキリスト信仰者は、どうして神はひとり子を私たちに贈って下さったかが分かります。それは、私たちの命と人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。人間が今のこの世と次に到来する世にまたがる命と人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。命と人生が二つの世にまたがっているということは、本日の使徒書のエフェソ1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

 

 それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が二つの世にまたがる命と人生を持てるようになるのでしょうか?人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の命と人生は持てませんでした。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に反する罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するためにひとり子を贈って彼に大仕事をさせたのです。

 

 イエス様は人間に宿る罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を全部受けられました。罪の償いを人間に代わって果たして下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様は私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去る時も神との結びつきを持って去り、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世とこの次に到来する世にまたがる大きな命と人生を持てるようになったのです。

 

5.勧めと励まし

 

 このように神は私たちが大きな命と人生を持てるようにして下さいました。本日の使徒書エフェソ1章でパウロはそれが保証済みであることを述べています。最後にそのことを見ておきましょう。

 

 まず、神には十分な力があることが言われます。一度死んだ人間を復活させることと、その者を天のみ神の御許に引き上げることは、まずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要することが言われます(1921節)。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つの異なる言葉で言い表します(δυναμις,κρατοςισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεωも出てきます。このようにパウロはこの想像を絶する莫大なエネルギーを何とか人間の言葉で描写しようと苦労しているのです。新共同訳は「力」という言葉を2回しか出さず、彼の苦労が見えません。とにかく死者を復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主の神はそれをお持ちであるということが言われているのです。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 

 ところがもっと肝心なことが言われます。神はこれと全く同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者たちにも及ぼされると言うのです(19節)。キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活を遂げて神の御許に上げられるというのです。これを聞いたらハレルヤ!と叫ばずにはいられなくなるのではないでしょうか?

 

 神が莫大な力を及ぼしてあげようと待機していることに加えて、キリスト信仰者は道の歩みにおいても間違いなく守られていることもエフェソ1章からわかります。パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは天の御国に向かう道に置かれて、それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」とも言われるのです。

 

 その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると同じ体の部分である私たち信仰者もこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている側にいるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で及ばず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝っているイエス様に繋がっている信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

 それは、イエス様を頭としても体の方はまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世は、命と人生は全部ここで終わりだよ、二つになんかまたがっていないよ、と言って私たちの目を曇らせます。私たちが神に背を向けるように、神との結びつきを見失うようにと、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が私たち信仰者にも働き、イエス・キリストの体は全部が神の国の中に置かれることになります。

 

 そういうわけで、イエス様の昇天から再臨の日までの間の時代を生きるキリスト信仰者は二つの相反する現実の中で生きることになります。一方で全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられる現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ1633節で次のように言われたのです。

 

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

 攻め立てられてはいるが守られている、守られてはいるが攻め立てられる、これがキリスト信仰者の現実です。しかし、守られていることの方が攻め立てられることをはるかに上回っています。なぜなら、私たちが部分として繋がっているこのキリストの体はやがて神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているからです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。

 

 以上から、キリスト信仰者は、なぜこの世を生きるのかと問われたら、答えは明快です。私は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれたからです、神はその旅路を守って下さるからです、これが答えです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。