2025年5月26日月曜日

イエス・キリストのシャーローム (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年5月25日復活後第六主日 スオミ教会

 

使徒言行録16章9-15節

ヨハネの黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネによる福音書14章23-29節

 

説教題

イエス・キリストのシャーローム

שלומ יהושע משיח

Η ειρηνη Ιησου Χριστου

            

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は戦争がない状態と理解されます。今私たちはウクライナやガザの戦争が一日も早く終わるようにと願い毎日祈っています。ところが世界には他にも武力衝突があったりもうすぐ起きそうなところもあったりして世界から平和が失われていく状況があります。また他国の攻撃に備えるためと言って軍備の増強があちこちで進められています。そんな時世にイエス様が平和を与えると言っても空しく聞こえてしまうかもしれません。

 

 ここでイエス様が与えると言った「平和」について立ち止まって考えてみます。イエス様は「私の与える平和」と言い、この世が与える平和とは違うと言います。イエス様が与える平和とはどんな平和なのでしょうか?イエス様はまた、自分の平和を与える時、この世が与えるような仕方では与えないと言います。イエス様はどのような仕方で平和を与えて下さるのでしょうか?

 

 このことについて宗教改革のルターが上手に教えています。以前にも紹介したことですが、要点だけ復習すると、この世が与える平和とは外面的に害悪がない状態のことである、イエス様が与える平和とは外面的にはいろんな害悪、疫病とか敵、貧困とか罪や死それに悪魔といった害悪が私たちに襲い掛かって来ても失われない平和である。この平和を頂くと、心は外面的な不幸に左右されないばかりか、不幸の時の方がかえって勇気と喜びが増し加わる。まさに使徒パウロがフィリピ4章7節で言うような「人知を超えた神の平和」です。

 

 このようにルターは、外面的には平和がなく不幸や害悪があっても内面的にはそんなことに動じない平和があるというのです。こんなことを聞くと、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいだ、キリスト教と禅仏教には共通点があるなどと言い出す人がでるかもしれません。しかし、共通点はありません。「心頭滅却」の方は苦難や苦痛に遭遇しても心を無にすれば苦しみを感じなくなるという意味ですが、キリスト信仰の方は心を無にしません。全く逆です。神から頂くものを心で受け取って受け取ってとにかく受け取って、それで心を一杯にして苦しみに埋没しなくなる、そしてしまいには苦しみを踏みつぶして前に進んでいくということです。それなので、イエス様が与える平和を理解しようとしたら、まず神から頂くものは何かがわかってそれで心を満たさないといけません。以前の説教で今日の聖句を扱った時、イエス様が与える平和とは外面的な平和が失われても揺るがない内面的な心の平安であるとお教えしました。今回も同じ内容のことをお話ししますが、少し角度を変えて見ていきます。

 

2.シャロームの観点

 

 本日のイエス様の言葉が書かれているヨハネ福音書は古代ギリシャ語で書かれています。イエス様が言われる「平和」はエイレーネ―という言葉です。ただし、イエス様が弟子たちと会話した時の言葉はアラム語という言葉でした。ギリシャ語のエイレーネ―の元にあるアラム語の言葉は間違いなくシェラームでしょう。これは言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームから来ています。イエス様の時代、ヘブライ語は(後に旧約聖書を構成する)神聖な書物の書き言葉で、律法学者とかファリサイ派のようなユダヤ教社会の知識人エリートが判読できる言葉でした。一般の人はアラム語を話して生活していました。アラム語は文字はヘブライ語と同じ文字を使いますが、文法は古代シリア語に近いのでヘブライ語とは異なる言語です。

 

 さて、ヘブライ語のシャーロームですが、「平和」の他にもいろんな意味があります。辞書(HolladyConciseをみれば、健全な状態、無傷な状態、欠けるものがない状態、繁栄とか成功という意味があります。平和の意味もつまるところ、国と国、人と人との関係がそういう健全な状態、無傷な状態、繁栄した状態になるということです。アラム語のシェラームは挨拶言葉としても用いられるようになります(エズラ417節、57節、ダニエル331節、626節)。ヘブライ語のシャーロームも挨拶言葉になりました。「あなたに平和がありますように」という挨拶は、「あなたが健全な状態、無傷な状態でありますように、あなたに繁栄がありますように」という意味を持ちます。ここで大事なことは、これらの望ましいシャーローム、シェラームは、みな神から与えらるということです。それで挨拶は、神があなたを顧みてこれらの善いものをお与えくださいますように、という意味になるのです。

 

 そこで、イエス様が与えると言った平和、シェラーム、シャーロームとはどんなものなのでしょうか?この世が与えるようには与えないのなら、どのように与えるのか?シャーロームが健全、無傷、繁栄、成功を意味し、もしそれらが揃っていれば、シャーロームがあることになります。神が顧みて下さったと思うことができます。ところが、もし、それらがなかったらどうなるでしょう?病気になったり、傷がついたり、失敗したり、没落してしまったら、シャーロームではなくなってしまう、それは神から見捨てられてしまったことを意味するのか?ここで、ルターが教えたことを思い出します。ルターは、外面的に害悪があって平和が失われた状態でも、内面的には失われない平和がある、そのような平和があれば、外面的な厳しい状態に立ち向かっていける、そういう平和をイエス様は与えると教えるのです。健全、無傷、繁栄、成功はもちろん神が与えてくれるものです。しかし、それらがなくなってしまったら、それは神から見捨てられた証拠だなどと言ってしまったら、シャーロームを神から切り離してこの世が与えるものに貶めてしまうことになるのです。イエス様は、普通に考えたら健全、無傷、繁栄、成功はないのに、実はそれらはあるというシャーロームを与えると言われるのです。それで、この世が与えるようには与えないと言われるのです。イエス様が与えるシャーロームとはどのようなものなのでしょうか?

 

3.神とのシャーローム

 

 イエス様が弟子たちにシャーロームの約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。その後で十字架の出来事が起こり、その三日後に死からの復活が起こりました。イエス様が神の力によって復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だと理解しました(使徒言行録236節、ローマ14節、ヘブライ15節、詩篇27節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間が神から罪の罰を受けないで済むように、神のひとり子が身代わりになって受けて下さったということです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになれるのは、神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたからです。

 

 このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を用いて人間に自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の出来事が起きて人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んで結びつきは失われてしまいました。神の神聖さとは罪を焼き尽くさずにはおかないものだからです。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神との関係が健全・無傷でなくなり、没落と失敗になってシャーロームがなくなったのです。神と人間は敵対関係に陥ったのでした。

 

 しかし、神はひとり子を用いて人間が失ったものを回復する道を開いたのでした。人間はこの神の救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当にメシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのはあの時代の人たちだけでなく後世を生きる私たちにも向けられているんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられ神との結びつきを回復するのです。神との結びつきが回復すると今度は、復活した主が切り開いてくれた道、死を超える永遠の命への道に私たちは置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと導きを与えて下さるということです。この世から去った後も、復活の日に目覚めさせてくれて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。このように神との結びつきを回復した人は神との関係が無傷な状態、無欠な状態、繁栄した状態、成功した状態になるのです。神との関係がシャーロームになるのです。まさに使徒パウロがローマ51節で「主イエス・キリストによって神との間に平和シャーロームを得ている」と言っている通りです。そのシャーロームはイエス様が成し遂げた十字架と復活の業を心で受け取ることで得られました。だから、イエス様が与えるシャロームなのです。この世が与えることができないシャーロームなのです。

 

4.失われないシャローム

 

 しかしながら、私たちが生きているこの世というところは、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力が沢山働いています。例えば、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者と言えども、内側には神の意思に反する罪が残っています。さすがにそれを行為に出して犯すことはしなくても、言葉に出してしまったり、心の中で思い描いたりしてしまいます。まさにその時、お前は神の前では失格者だ、赦されたなんていい気でいるのもそれまでだ、などと糾弾する者がいます。言うまでもなく悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて自覚を失意と絶望に増幅させます。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。ヘブライ語の言葉サタンには非難する者、告発する者という意味があります。文字通り、悪魔は私たちを神の前で告発するのです。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われました(1426節)。

 

 私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて私たちを責めるようになっても、聖霊は神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエスの十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエスを救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです。」すかさず今度は私たちに向かって言われます。「心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているんですよ!」洗礼を通して聖霊を受けた私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた父なるみ神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい。」その時、私たちは安堵と感謝に満たされて、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正すでしょう。本日の福音書でイエス様が言われるように、彼を愛する者は彼の言われたことを守ることが本当のことになる瞬間です。キリスト信仰者は罪の自覚と告白と赦しを受けることを繰り返すことで、神との関係がシャーロームであることがますます真理になっていくのです。

 

 内に残る罪の他に、もう一つキリスト信仰者から神との結びつきを失わせようとするものがあります。私たちに何か神の意思に反することがあったわけではないのに苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいと思ってはいないのではないか?という疑いが生じてきます。一体自分に何の落ち度があったのかと神に対して非難がましくなります。

 

 このようなことはヨブ記の主人公ヨブにもみられました。神の御心に適う正しく良い人間でいたのにありとあらゆる不幸が襲い掛かってきたら、正しく良い人間でいることに何の意味があるというのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところでたたみかけるように問いかけます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。私は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは私が造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、お前たち人間の知恵ではとても把握しきれない仕方で私の意思が働いている。なので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味ということにはならない。人間の知恵では把握できない深いことがある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

 

 神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(2127節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト323233節、詩篇6929節、イザヤ43節、ダニエル121節、フィリピ43節、黙示録35節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ1020節)。黙示録2012節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて眠れる者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ127節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかかり、復活されれたではありませんか!イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪を忘れてやる、過去のことは不問にする、新しく生きなさい、と言って下さるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで満足というような薄情な傍観者ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して復活の日に無事に送り届けようと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをされたのです。なので、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもその道をしっかり歩めるように支援する責任があるのです。神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえない以上はそうなのです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も祈りも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援の形です。

 

 このようにイエス様を救い主と信じる信仰に留まり、罪の赦しのお恵みに留まって進んで行けば、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく見捨てられたなどということはありません。境遇を神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度に考えたら、シャーロームはこの世が与えるものになってしまいます。そうではありません。イエス様の成し遂げて下さった業のおかげと、それを心で受け取る信仰のおかげの二つのおかげで、私たちには神とシャーロームの関係があるのです。私たちの周りでこの世が与えるシャーロームが崩れ落ちても、イエス様が与えるシャーロームは最後まで残るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年5月13日火曜日

小羊の血で衣を白くされた者として (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日

 

使徒言行録9章36節-43節

ヨハネの黙示録7章9節-17節

ヨハネによる福音書10章22-30節

 

説教題 「小羊の血で衣を白くされた者として」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(102728節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。

 

 イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。

 

 イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。103節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。

 

 本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。

 

2.小羊の血で衣を白くされて

 

 黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。

 

 神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 

 「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?

 

 イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。

 

 私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。

 

 聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ118節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト248節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記1711節)。

 

 しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。

 

 こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(91014節)。ガラテア327節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ1314節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。

 

 このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。

 

 白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。

 

3.衣を手放さないように神が支えてくれる

 

 この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。

 

 何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

 

 まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。

 

 そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。

 

 もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。

 

 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?

 

 これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注1)ヨハネ1029章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。

 新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。

 フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。

 さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。

(後注213節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。

2025年5月5日月曜日

現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日

 

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

 

説教題 「現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察」

 


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)

 

 本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。

 

 まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。

 

 このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

 

 まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5111節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?

 

 こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ1128節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。

 

2.神の人間に対する愛 アガペーの愛

 

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。

 

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオφιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオで聞きます。そしてペトロはフィレオで答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ1513節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。

 

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ1210節、使徒言行録282節、形容詞として第一ペトロ38節、副詞として使徒言行録273節、ただしテトス34節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。

 

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」410節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

 

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。

 

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。

 

3.私たちのイエス様に対する自己犠牲の愛

 

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ1421節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ1334節と1512節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。

 

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。

 

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。

 

4.神の栄光を現わすということ

 

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。

 

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

 

このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。

 

5.勧めと励まし

 

 最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(95節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。

 

 今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。