2025年1月8日水曜日

「造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年1月5日 主の顕現の主日 スオミ教会

 

イザヤ60章1-6節

エフェソ3章1-12節

マタイ2章1-12節

 

説教題「造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 

 いつもこの個所について説教する時に申し上げることですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

 

 ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、そんな程度ではまだまだという人が大半ではないでしょうか?イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせて見るということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。何度繰り返してもいいことなので本説教でも述べます。新しい視点を入れて述べます。

 

 ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは次のようなものではないかということを述べておきます。自分自身を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しことをせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証に向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そういうわけで、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分自身を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

 

2.東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性について

 

 まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

 

 1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座の中で異常接近したことを突き止めました。他方では、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があり、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘されています。その中には紀元前7年の星の動きを予測したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するというのは普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

 

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ21323節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

 

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ民族やその信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

 

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ民族の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の日課にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くして王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

 

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。ただ、一つ難しいことは、東方の学者たちがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これについては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や星々さえも創造された(創世記116節)方ですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

 

3.イエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵

 

 東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性を見た後は、いよいよイエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵について見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 

 まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからは彼こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならないと脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

 

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は今の時代を生きる自分のためにも神が成し遂げて下さったのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?

 

イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

 

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうがみんな神の意思に反するので全て罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

 

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟があります。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは、少なくともキリスト信仰では、実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、少なくともキリスト信仰では、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当のことなのです。

 

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言える人はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになります。

 

まさにその時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き受けて私たちのかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主です、と信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり保たれているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

 

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節でパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

 

4.勧めと励まし

 

 最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには聖書の御言葉が星の役割を果たしています。救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ121節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって心の状態が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと変わりなさい(後注)。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。信仰によって心の状態が一新させられたら、後はどのように変わっていくか、その具体的内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

 

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主のイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世の声に倣わないということが暗示されているのです。 

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人に)ローマ122節は新共同訳では「自分を変えていただき」と訳されています。これはμεταμορφουσθεを受動態に考えて「(神によって)あなた方は変えられなさい」と訳したものです。4年前の説教で私も受動態で訳しました。フィンランドの神学部の授業ではここはmedium(中動態)で考えるべきと言われていましたが、私は律法的になるような気がして少し抵抗がありました。ところが、その後考えがかわり、今回はmediumで訳しました。パウロは読み手に対して強い調子で「あなたたちは自分自身で変わりなさい」と言っているということです。律法的にならないかという心配ですが、τη ανακαινωσει του νοοςがあるので律法的にならないことがわかりました。「心の状態を新しくしてもらったことをもって(dativus modi/新しくしてもらったので(dativus causae)」あなたがたは変わりなさい、ということです。νουςは新共同訳では「心」と訳されています。英語ではmindと訳されています。「心」だとκαρδιαと一緒くたになってしまうので「心の状態」としました。キリスト信仰者はνουςが新しくされているので、肉には罪があっても救われているということがローマ7章の終わりで言われています。それで122節は、キリスト信仰者であるあなたたちはνουςが新しくされているので変わるのは当然なんですよ、というような、命令よりも注意喚起になるのではないかと思いました。それを基点にして12章の中にある行動リスト(大半は分詞形、一部は命令形)を見ると、νουςが新しくされたキリスト信仰者にとってはどれも当然のものなのだという注意喚起の続きになるのではないかと思いました。イエス様を救い主と信じる信仰によって救われた結果として、リストの諸行為は当然のものとして現れてくるのだ、忘れるな、ということです。救われるためにこれらをしなければならないという救いの条件ではないということです。救いの条件にしてしまうのが律法的ということです。

2025年1月7日火曜日

「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝 スオミ教会

 

コヘレト3章1-11

黙示録21章1~6a

マタイ25章31-46節

 

説教題 「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の121日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。

 

2.私たちの試練に対する神の手腕

 

 以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

 

 なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

 

 それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでいるという見方になれるのです。

 

 そのことを使徒パウロは第一コリント1013節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

 

 イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ828節です。

 

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 

 私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

 

3.コヘレトの永遠を思う心について

 

 このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。311節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

 

 永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記11節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書6517節、6622節、黙示録211節、他に第二ペトロ37節、313節、ヘブライ122629節、詩篇1022628節、イザヤ516節、ルカ2133節、マタイ2435節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

 

 神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです。

 

 神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト311節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないとמבלי אשרמבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。

 

 もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。

 

 コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?

 

 そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。

 

 ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。

 

 この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ2540節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。

 

 キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。

 

 兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン