2025年12月31日水曜日

全知全能の神 vs. この世の悪 (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年12月28日(降誕節第一主日)

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ書63章7-9節

ヘブライの信徒への手紙2章10-18節

マタイによる福音書2章13-23節

 

説教題 「全知全能の神 vs. この世の悪」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の中で難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるのではないでしょうか?その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論が起こるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちがヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。ヘロデは学者たちが戻ってこないので、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

 

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナやガザの戦争も東日本大震災をはじめとする自然災害もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

 

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

 

2.全知全能の神とこの世の悪  キリスト信仰の観点

 

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この種の問題についてキリスト信仰者はどう考えているか以下に見ていこうと思います。

 

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に適うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまいました。何が起きたのかは創世記の1章から3章まで詳しく記されています。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。これが聖書の人間観です。しかし、これには続きがあります。聖書の人間観の続きについては後で出てきます。いずれにしても、人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたいと考えたことが元々の間違いだったのです。

 

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志は十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪を持っていることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの現れなのです。

 

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

 

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は罪の呪いのために永遠の死の滅びに定められてしまいました。その呪いから人間を救うために神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って私たちの代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであったと言われています。それを実現するためには、神のひとり子が犠牲になって死ななければならない。神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が罪の呪いのゆえに陥る運命であった死の滅びをイエス様が代わりに受けて下ったことで人間が陥らないですむ状況が生み出されたのです。

 

それでは人間は罪と死の滅びから解放された後はどうなるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになることです。この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられることです。まさに神との永遠の結びつきを持つ者に解放させられるのです。

 

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本物の罰受けになって人間の罪を償うことが出来たのです。このような仕方で人間を罪と死に追いやる悪魔の力は無にされたのです。それで、ヘブライ217節で言われる通り、イエス様はおよそ神と人間の関係に関する全てのことにおいて人間に対して憐れみ深い誠実な大祭司となられ民の罪を償う方となられたのです。続いて18節で言われます。イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しんだ、それで試練を受けている人たちを助けることが出来るのだと。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

 

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。そして、もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させたのです。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったのです。まさに二重の打撃を被ったのです。

 

神はこのようにして人間に救いを整えて下さいました。今度は人間のほうが、神が整えた死の滅びに至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、その状況に入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整えた救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整えられた状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうすると、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していくだけです。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらえます。そして今度は神の栄光に輝く復活の体を着せてもらえます。

 

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを進んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

 

 以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救いに与れるようにと手を差し伸べているという見解になります。これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを整えて下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

 

3.勧めと励まし

 

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされるというのが聖書の立場です。黙示録204節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えたものを受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命は火を見るよりも明らかでしょう。

 

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判する人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

 

 最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台としそれを目指す信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年12月29日月曜日

「天には栄光、神に 地には平和、御心に適う人に」(吉村博明)

 説教 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカ2章1-20節

 

説教題 「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

1.はじめに

 

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 

 「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

 

 これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

 

2.聖夜の真相

 

 でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

 

 問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

 

 ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 

 やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。

 

3.究極の権力者が共に歩んで下さる

 

 しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来ます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。

 

 人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇234節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。

 

 実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復でき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。

 

4.天使の賛美の意味

 

 説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。

「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?

 

 ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)

 

 さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。

 

「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。

救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年12月18日木曜日

荒野のようなこの世にあっても、キリスト信仰者にとっては緑の大地の道を進むようなもの(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2025年12月14日 待降節第三主日 スオミ教会

 

イザヤ書35章1~10節

ヤコブの手紙5章7~10節

マタイによる福音書11章2~11節

 

説教題 「荒野のようなこの世にあっても、キリスト信仰者にとっては緑の大地の道を進むようなもの」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所も、わかりそうでわかりにくいところです。まず背景としてあるのは、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデの不倫問題を批判したために牢屋に入れられてしまったことがあります。ヨハネは恐らく面会に来た弟子たちからイエス様が権威ある教えを宣べ伝え奇跡の業を行っていることを聞いたでしょう。それで、弟子たちをイエス様のもとに送って、あなたは来たるべきメシアなのか、それとも別の者を待たねばならないのかと聞きました。イエス様は答えとして、自分がどんな奇跡の業を行っているかを述べて、それをヨハネに伝えよと言って弟子たちを返しました。そこで今度は群衆に向かって、ヨハネがどういう人物か話します。風にそよぐ葦とかしなやかな服を着た人の話があります。ヨハネのことを預言者以上の者と言ったりします。女から生まれた者のなかで最も偉大な者というのは、人間から生まれた者の中でという意味です。イエス様は聖霊の力で乙女マリアから生まれたので比較の対象外ということが暗示されています。ところが、最も偉大な者だと言ったかと思いきや、天の国で最も小さな者の方がヨハネより偉大だなどと言います。

 

 さあ、これらが何を意味しているのかをこれから説き明かしてみましょう。その際に注意すべきことは、これはキリスト信仰を持つ説教者がキリスト信仰を持つ会衆に向けて行う話なので、キリスト信仰の観点での説き明かしということです。聖書の言葉を理解しようとする時、キリスト信仰がなくても信仰と無関係な理解はできます。しかし、それは聖書を神が与えた言葉の集大成とみることではなく、人間が創り出した文学作品と同じに扱うことです。キリスト信仰がない方が信仰にとらわれないいろんな解釈ができます。そういう解釈が新しい見方を生み出すと見方が深まったと思う人もいます。しかし、キリスト信仰の観点がない解釈ならば、それは信仰の深まりにはなりません。それでは、キリスト信仰の観点で聖書を繙くというのはどういうことか?それは、まず繙く人が自分はイエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けて聖霊を与えられた者であるとわかっていることが前提です。では、なぜイエス・キリストが救い主かと言うと、彼が十字架にかかって私の罪を神に対して私の代わりに償って下さったからであり、彼が死から復活されて永遠の命に至る道を私にも切り開いて下さったから救い主なのです。そして今はこの主が整えて下さった道を主に守られ導かれながら共に歩んでいるとわかっているのがキリスト信仰者なのです。この信仰の観点で聖書を繙くと難しいところは結構わかってきます。難しすぎて今はわからないところでも、わからないなりにそういうものなんだと一旦受け止めて、いつか目が開かれたようにわかる日が来るから大丈夫と心の中にしまって、今はただ道を歩き続けるのみという物分かりのよさでいるのがキリスト信仰者だと私は思っています。

 

2.洗礼者ヨハネの奇妙な質問

 

 イエス様が権威ある教えを宣べ伝えて奇跡の業を行っていることを牢獄にいた洗礼者ヨハネが伝え聞きました。彼は自分の弟子をイエス様のもとに送り、来るべきメシアはあなたか、それとも別の者を待たねばならないのかと尋ねさせます。この質問は一見奇妙に思えます。なぜなら、ヨハネは以前にイエス様のことを自分とは比べものにならない偉大な方とわかっていて、イエス様に洗礼を授けることを躊躇したほどでした。ヨハネ福音書では、イエス様のことを「神の子」と証ししています。それならば、なぜイエス様が来るべき方かどうかまだわからないでいるような質問を送ったのでしょうか?これについては、いろんな説明の仕方があるようです。一つには、ヨハネは投獄されて意気消沈してしまいイエス様のことを信じられなくなったのでそういう質問を送っただとか、ヨハネの弟子たちは質問をしたのではなく、あなたは来たるべきメシアですと述べたのが正しい文だとかいう説明を聞いたことがあります。でも、ギリシャ語の原文ではちゃんと疑問文になっています。なので、解釈が正しくて聖書の文章が間違っているというような説明は無視しましょう。

 

 もし洗礼者ヨハネがイエス様の教えや業を聞いたのであれば、メシアであることに疑いはなかったはずです。それならば、なぜ聞いたのでしょうか?それは、イエス様の答えをよく目を見開いて見ればわかります。イエス様は次のことをヨハネに伝えよと言いました。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人には福音を告げ知らされているということです。これらは皆、イザヤ書の預言の成就です。イザヤ書の2619節、2918節、3556節、4218節、611節にある預言です。イエス様は、来たるべきメシアはあなたですか、と聞かれて、ハイ、そうです、で済ませるのではなく、その根拠として自分が行っていることは全部旧約聖書に預言されていることであるとまさに旧約聖書に基づいて自分がメシアであることを証ししているのです。ヨハネにはわかっていたことですが、それをイエス様が自分の口で根拠づけて証しするようにさせたのです。この証しはヨハネに向けられたものに見えますが、実はヨハネの弟子たちや周りにいた群衆も聞いたので、大勢の人にとっても証ししたことになります。一見おかしな質問に見えても、もしヨハネがこの質問をしなかったら、イエス様自身による旧約聖書に基づいたご自分の証しは生まれなかったのです。現代を生きる私たちの目にも触れることはなかったのです。つまり、これは洗礼者ヨハネとイエス様の見事な連係プレーだったのです。

 

 証しをした後でイエス様は言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである。」つまり、旧約聖書の預言の成就という有無を言わせない証拠がある以上、私のメシアとしての地位は明確である、これ位の確証があれば、ちょっとやそっとのことでも私に疑いを抱いたりして私に躓いて離れてしまうことはないのだ、私を信頼して復活の日の永遠の命に至るまでしっかりこの世を歩むことができるのだ、それでまことに幸いなのだということです。しかし、弟子たちをはじめ大勢の人がイエス様に躓く時が来ます。彼が裁判にかけられて十字架刑に処せられた時です。しかし、その後に起こる彼の死からの復活がダメ押しの確証になりました。これも旧約聖書の預言の成就でした。死を超える永遠の命が現実のものになった以上、確証は究極の確証になりました。それからは、この確証を抱いている限りイエス様を救い主と信じる人はもう躓く理由がないのです。

 

3.荒野が緑の大地に変わる時

 

 イエス様が群衆に尋ねます。お前たちは何を見に荒野に行ったのか?風にそよぐ葦か?それとも、しなやかな服を着た人か?それとも預言者か?ヨハネがユダヤの荒野とヨルダン川を舞台にして活動を開始した時、彼は大勢の人に悔い改めに導く洗礼を授けました。実に多くの人たちがヨハネのもとにやって来ました。彼の宣べ伝えを聞いて、天地創造の神の怒りの日が近い、神の意思に沿わない者はみな罪人として断罪されると恐れ、罪を悔い改める印として洗礼を受けたのです。人々が荒野に来て見たのはまさしくこの洗礼者ヨハネでした。

 

 それでは、風にそよぐ葦とは何のことか?一つの説明の仕方はこうです。風にそよぐ葦とはすぐ権力になびいてしまうような信念のない人のことであると。しかし、ヨハネは支配者の不正を公けに批判して投獄されたので風にそよぐ葦などではありません。それでここのイエス様の趣旨は、お前たちが荒野に行ったのは風にそよぐ葦を見るためだったのか?そうではなかっただろう、というふうに考えられます。次にイエス様は、では、しなやかな服を着る人を見に行ったのか、と聞きます。しなやかな服とは高価な服、位の高い人の着る服のことです。洗礼者ヨハネは駱駝の毛衣を着て腰に皮の帯を締めていたので、全く正反対の服装です。群衆が荒野に行って見たのは真の預言者であり、それは風にそよぐ葦とも王宮にいる人たちとも全然異なる者であるということを言うのがイエス様の趣旨だったと考えられます。

 

 しかしながら、ここのところはもっと深い意味があります。ここまでの理解はキリスト信仰を持たない人でも出来るものです。深い意味というのは、ここの部分はイザヤ書35章が底流として脈打っているということです。イザヤ書35章は、まず、荒地が喜びの声をあげ、花が咲き誇るようなことが起きると言って始まります。荒地の中にいるような状態の神の民に対して、弱った手足に力を込めよ、恐れるなと呼びかけがあります。そこで何が起こるかと言うと、神が立場のどんでん返しを起こすのです。それはあたかもマタイ福音書5章の山上の説教のはじめイエス様が約束されたこと、悲しむ者は慰められる、へりくだった者は約束の地を受け継ぐことができる、神の義に飢え乾く者は満たされるということが起きるのです。イザヤ35章では、どんでん返しの日、目の見えない人は見えるようになり、聞こえない人は聞こえるようになり、足の不自由な人は飛び跳ねるようになり、口のきけない人は話すようになることが起こるのです。まさにその時、渇いた荒地はみずみずしい緑豊かな大地にかわり、そこには天の御国に通じる真っ直ぐな道が整備されると。その道は罪から贖われた人たちが猛獣などの危険から守られて歩むと。そして最後は目的地にて歓呼の声で迎えられ、苦しみや悩みは逃げ去ると言われます。この終わりの言葉は黙示録21章に響く言葉です。古い天と地に代わって新しい天と地が創造され、そこに現れる神の国に迎え入れられた人たちはみな涙を拭われて、もはや死も悲しみも嘆きも労苦もないと言われます。

 

 イザヤ書35章は、キリスト信仰のない人が読めば、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が荒野を通って祖国に帰還する旅を美しく描いたもの以上でも以下でもありません。しかし、キリスト信仰者が繙くと、ここは、神が民の祖国帰還という歴史上の出来事を材料にして、罪から贖われた者が復活の日を目指して歩むことになる道のりを描いているとわかるのです。

 

 ここで、風にそよぐ葦が何を意味するかもう一度見てみます。イザヤ書35章に荒野がみずみずしい緑豊かな大地に変わって葦が生い茂る様子が描かれています。イエス様が風にそよぐ葦を見に行ったのかと群衆に聞いたのは実は、お前たちはこの世という荒野が今まさにイザヤの預言のように緑豊かな大地にかわったことを洗礼者ヨハネの登場からわかったのかという意味もあるのです。しなやかな服を着た人は王宮にいると言うのも、イザヤ357節の「山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる」と関係してきます。「山犬」と言うのはジャッカルのことです。ジャッカルは乾いた荒地に住む動物なので、土地が渇いて荒地であることを言い表す時にジャッカルが住む土地と言うくらいです。エレミヤ書4933節でそういう言い方をしています。イザヤ357節では、そんな土地が葦やパピルスが生い茂る土地に変化することが言われているのです。エレミヤ書1322節を見ると、バビロン帝国が滅ぼされた後、その王宮はジャッカルの住みかになるという位に荒廃することが言われています。つまり、しなやかな服を着た者は王宮にいると言うのは、それが本当の荒野なのです。洗礼者ヨハネが活動した荒野というのは、イザヤ書の預言のように、荒野にたとえられたこの世が緑豊かな大地に変わって真っ直ぐな道が敷かれるところになることを暗示しているのです。

 

 そこでイエス様は洗礼者ヨハネを預言者以上の者と言って、出エジプト記2320節とマラキ書31節の御言葉を引用します。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」神はイエス様より先に洗礼者ヨハネを遣わし、イエス様の前に道を準備させたのです。先週の福音書の日課でヨハネがイザヤ書40章で預言された荒野で叫ぶ声であったこと、そしてその役割は来るべきメシアのために道を整えることであることを見ました。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚まし悔い改めの必要を感じさせてその印として洗礼を授けました。そして、イエス様が十字架と復活の業を遂げたおかげで人間に罪の赦しの恵みが与えられることになりました。ヨハネは真にイエス様の前に道を整えたのでした。洗礼者ヨハネが預言者以上だったというのは、普通は預言者は預言をしますが、ヨハネの場合は来るべきメシアについて証しをしただけでなく、旧約聖書の預言の実現そのものでもあったのです。かつて預言者によって預言されていたことを真実にしたのです。だから預言者以上の者というのは当たっています。

 

 イエス様は、洗礼者ヨハネのことを人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言いながら、天の御国の最も小さい者の方がヨハネより偉大であると言っていますが、これはどういうことでしょうか?ヨハネが人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言うのはわかります。彼は預言者の預言を実現した者であり、メシアが完成する救いのお膳立て、罪の赦しに導く悔い改めの洗礼を授け、メシアが成就する人間の救い、罪の償いと罪からの贖い、永遠の命への道の切り開き、これらの救いのお膳立てをしたこと、他の人間にはできないことをしたからです。それでも、天の御国で最も小さい者の方が彼より偉大だというのはどういうことでしょうか?

 

 イエス様は洗礼者ヨハネが整えた道を踏み進みました。ヨハネは人々に悔い改めの心を起こし赦しを受け取る心の準備をさせました。それらを踏まえてイエス様は十字架と復活の業を遂げました。私たちはこのイエス様がもたらして下さった罪の償いと罪からの贖いを洗礼と信仰をもって受け取りました。そして復活の日の永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになりました。だから、私たちは天の御国に迎えられる時、イエス様の救いの恵みという完成品を受け取った者として迎え入れられます。私たちは、たとえヨハネのようなイエス様の救いの業の準備というような偉大なことは何もしていなくとも、まだ完成品を持っていなかった地上のヨハネよりも偉大ということになるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 ここで、一つ申し上げたいことがあります。それは、私たちが地上のヨハネよりも偉大な者でいられるのは天の御国に入った段階だけでなく、そこに向かう道を歩んでいるこの世の段階でもそうだということです。なぜなら、神が約束されたことを信じて歩んでいるというのは、もう半分くらいは天の御国に入っているのと同じだからです。ただし、それでもこの世にいる以上は、躓く危険はいつもあります。イエス様では頼りにならない、本当に一緒に歩んでいるのか心もとないなどと疑い始めたら躓きの石はいつでも足元に置かれます。

 

 だから、キリスト信仰者はキリスト信仰を持って聖書の御言葉を繙くこと、神に祈り礼拝から霊的な力を受けることが必要になるのです。本日の使徒書の日課ヤコブの手紙の個所では忍耐の必要性が強調されていました。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」本日の預言書はイザヤ35章でした。そこで預言されている罪から贖われた者が御国に至る道を歩むということは既に実現しています。私たちがそうだからです。肉眼ではこの世は荒野のようにしか見えなくとも、信仰の目では私たちが歩んでいる道はまことに緑の大地に切り開かれた真っ直ぐな道なのです。道を踏み外させようとしたり、歩むことを断念させようとする力や危険から私たちは守られているのです。最後は終着点で歓呼を持って迎え入れられ、嘆きや苦しみは逃げ去るのです。信仰の目で人生の歩みをこのように見れれば、忍耐は備わってくるはずです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年11月24日月曜日

「神の祈りの学校の生徒でいこう!」(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年11月23聖霊降臨後最終主日)スオミ教会

 

エレミヤ書23章1-6節

コロサイの信徒への手紙1章11-20節

ルカによる福音書23章33-43節

 

説教題 「神の祈りの学校の生徒でいこう!」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は聖霊降臨後の最終主日です。来週はもうイエス様の誕生をお祝いするクリスマスの準備期間、待降節/アドベントです。キリスト教会の新年です。それなので今は教会の年の瀬ということになります。フィンランドのルター派教会では聖霊降臨後最終主日は「裁きの主日」と呼ばれ、その日の福音書の日課は「この世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」をテーマにするものが普通です。日本のルター派の聖書日課も先週の福音書の日課はイエス様の終末の預言でした。ただ、今日の福音書の日課はイエス様が十字架に架けられる場面で、イースター前の受難節に相応しい箇所ではないかと思われるかもしれません。でも、よく目を見開いて読むとイエス様はこの世を超えた永遠なるものへの扉を開かれた方であることがわかります。それで聖霊降臨後最終主日に相応しい個所と考えます。

 

 ところで、「世の終わり」だの「最後の審判」だの、ちょっと話が暗すぎないか、人を明るくハッピーにするのが宗教じゃないかと言われてしまうかもしれません。フィンランドの「裁きの主日」ですが、その趣旨は教会の一年の終わりにキリスト信仰者としての自分の歩みを振り返って、自分はイエス様の再臨や最後の審判の時に申し開きができるのか自省し、イエス様がもたらしてくれた罪の赦しの恵みを今一度畏れ多い気持ちで受け取るというのが本来の趣旨です。ところが実際はどうかと言うと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなっているフィンランドの教会で(ただしSLEYの教会は別です!年中どこも満員御礼です!)、「裁きの主日」は一段と少なく、ところが、礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くや否や、待ってましたとばかり町中クリスマスのイルミネーションが一斉に点灯します。アドベントまでまだ1週間あると言うのに。果たして趣旨を心に留めている人はどれ位いるのだろうかと思ったものです。(ところで昨日知ったことですが、ヘルシンキでは昨日クリスマスのオープニング・イベントが大々的にあったとのことで、目抜き通りのアレキサンテリ通りはイルミネーションが華やかに点灯し盛大なパレードが繰り出され大勢の人でごった返したとのこと。アドベントはおろか「裁きの主日」も終わっていないのに!パイヴィによれば、もう何年も前から「裁きの主日」の前に行っているとのことで、私は知りませんでした。こういうことをするから教会の伝統に忠実でいたい人は皆SLEYの礼拝に流れて行ってしまうのでしょう。)

 

 「世の終わり」とか「キリストの再臨」とか「最後の審判」というのは不安や心配を引き起こすテーマで、キリスト教徒と言えどもどう向き合っていいのか悩んでしまう人が多いと思います。ただ、近年では教派によっては、今の世界情勢を見ればキリストの再臨が間近なのは明らかだ、再臨に備えて聖書に書かれてあるようなことを率先して起こそう、そうすれば彼がいらした時に神の御国に迎え入れてもらえるのだ、と血気溢れるようなところもあります。ここで、私たちが礼拝で唱えるキリスト教の伝統的な使徒信条や二ケア信条ではどう言われているか思い出しましょう。再臨するイエス様は生きている人と死んだ人を判断する(裁く)とあります。恐らく急進的なキリスト教徒は、再臨は自分が生きている間に起こると確信しているのでしょう。私は、もちろんその可能性は否定しないが、確率として見たら、主の再臨は自分がこの世を去った後に起こる方が高いのではないか、もしそうなら、まずこの世を去って再臨の日に目覚めさせてもらって判断してもらおう、なので、その日まではルターが言うように安らかに眠ることになるだろうという思いでいます。イエス様の再臨が自分が生きている間に起こるのか、後で起こるのかについては説教の終わりにまた触れたく思います。

 

2.メシアと神の国

 

 本日の福音書の説き明かしに入りましょう。イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。みんな五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。実に痛ましい残酷な場面です。

 

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。イエス様の十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていました。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとこうなるぞ、という具合に。

 

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られたのです。ところが当時、これとは異なる期待もありました。復興される王国とは、この世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わる新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。さて、この世的な国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代にはこの世的でない超越的な王国とそのメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国がこの世的な国ではなく超越的な国であることをはっきりさせたのです。

 

 イエス様を罵った犯罪人は、彼のことをこの世的な王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったのでした。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのす。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様が「あなたの御国」、つまり彼が王である国に入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上にはない、今の世を超えた超越的な国であり、イエス様はその王メシアであると信じたのです。

 

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかわかりません。なんだか苦しみを和らげるための無意味な気休め言葉みたいです。そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは動詞の未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園に入ることになる、今日息を引き取ってこの世から別れた後で楽園に入ることになる、と言っているのです。

 

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあるんじゃなかったのか?今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、キリストの再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?今日中に楽園に入ることになると言ってしまったら、そういうプロセスは飛び越えてしまったということなのか?

 

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。そうであれば、イエス様が今日中に楽園に入ることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので大丈夫です。

 

3.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 

 次に「私のことを思い出して下さい」と言った犯罪人の言葉とイエス様の返答を見てみましょう。これらはよく目を見開いて見ると、キリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白、そしてそれに続く罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 

 その犯罪人は、イエス様がこの世的な国を超えた国の王であると信じています。反対にもう一人の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世的な国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、別の犯罪人は、イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われているのだと直感しています。

 

 このようにこの犯罪人にはイエス様が超越した国の王であることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこういうことを約束してくれる方がおられるというのは何と素晴らしいことでしょうか!

 

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。創世記にあるように人間は堕罪が原因で造り主の神との結びつきを失い、結びつきのないままこの世の人生を送り、この世の人生を終えたら結びつきがないままこの世を去るしかない存在になってしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげよう、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと思いました。それらを可能にするためにイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に開かれたのです。

 

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったのだ、それでイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きることになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままで復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中には神の意志に反するものがよどんでいます。何かの拍子にそれに気づかされた時、キリスト信仰者はがっかり意気消沈します。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の驚くべき計画によってあの十字架が歴史上打ち立てられた以上は、あの方は私の救い主であり続け、救い主である限り神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もうがっかりも意気消沈もありません。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味します。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、罪の赦しという神のお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

 

4.勧めと励まし

 

 本日の福音書の犯罪人は息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けました。そうすると、どうせ最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば罪を赦されて天の御国に迎え入れてもらえるのだから、その前は別にイエス様を信じず洗礼を受けなくても問題ないではないかと言う人もいるかもしれません。実際、そういう方とお話ししたことがあります。以前の説教でお話ししたことですが、ここで改めて取り上げたく思います。最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性は否定しません。しかし、考えなければならないことが二つあります。

 

 一つは、洗礼を受けると聖霊が授けられるというキリスト教の伝統です。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけだと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけだと、イエス様のことを誰もこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の観点です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 

 もう一つ考えなければならないことは、「神の祈りの学校」の在学期間です。「神の祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間でよく口にされる言葉です。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならずに失望や挫折することがあるかもしれない、しかし、そういうことを通してでも神は人間の望みよりも大きなことを与え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。在学期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?そういう心が持てれば、主の再臨が生きている間に来ようがこの世を去った後に来ようがどっちでもよくなると思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年11月10日月曜日

「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師) 

主日礼拝説教 2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

ヨブ記19章23-27a

第二テサロニケ2章1-5、13-17節

ルカによる福音書20章27-38節

 

説教題 「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。

 

 サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 

 サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記255節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。

 

 これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。

 

2.復活の在りよう

 

 まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。

 

 ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。

 

 二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。

 

 三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。

 

 そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。

 

 そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

 

3.神は復活に与かって生きる者の神である

 

 次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記36節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。

 

 このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。

 

 次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。

 

 それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。

 

 次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

 

 そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ61011節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。

 

 パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。

 

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ610節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ611節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

 

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 

(後注1αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2ルカ2038αυτω ζωσιν、ローマ610ζη τω θεω11ζωντας (…) τω θεω (…)

(後注3「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。