2025年4月9日水曜日

ナルドの香油から洗礼へ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年4月6日 四旬節第五主日 スオミ教会

 

イザヤ書 43章16~21節

フィリピの信徒への手紙 3章4b~14

ヨハネによる福音書 12章1~8節

 

説教題 「ナルドの香油から洗礼へ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに - なぜ福音書は4つあるのか

 

 本日の福音書の日課は、イエス様の受難が近づく頃、マルタの姉妹のマリアが高価な香油をイエス様の足に塗ってそれを髪の毛で拭いたという出来事についてです。過越祭の6日前ということは、イエス様の受難と十字架の出来事の6日前のことです。そのため、マリアの行いは、死んで葬られるイエス様の遺体に香油を塗ることを前触れのように行ったものとして考えられてきました。イエス様の死を先取りした行いということです。

 

 マリアが塗った「純粋で非常に高価なナルドの香油」というのは、ナルドというインドが原産地の植物で赤紫色の花が咲き、香りは葉っぱから出るそうです。旧約聖書の雅歌の中にも出てきます。その時代からインド産のものがパレスチナの地に出回るような交易があったのかと驚かされます。ただ、パウロの出身地のタルソスにはナルドの香油が作られていたということなので、地中海沿岸でも栽培されていた可能性があります。どの位高価なものか、1リトラが300デナリ相当と言われています。リトラはローマ帝国の重量の尺度で1リトラは大体300グラム、デナリの方は当時の労働者の一日の賃金が1デナリだったので、300デナリは300日分の賃金。ちなみに、今の東京の最低賃金は1,163円、一日8時間働いて9,304円、その300日分は279万円。これが300グラムの値段なので1グラム9,000円です。誰が見ても高価な香油です。

 

 この香油の出来事はマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にもあります。ただし、マタイとマルコはヨハネと記述が異なっています。場所はエルサレム郊外のべタニア、食事の時の出来事だったことは同じです。誰の家での食事だったか、ヨハネは記していませんが、マタイとマルコは「らい病の人シモンの家」と明記しています。他方でヨハネは、イエス様が死から生き返らせたラザロが食事に招かれていたこと、彼の姉妹のマリアとマルタもいて、マルタの方は給仕の手伝いをしていたことを記しています。マルタが給仕をしてマリアが別のことをするというのはルカ10章にもありました。マリアはイエス様の教えを聞くことに集中してマルタから文句を言われました。今日のところでもマルタが忙しそうにしているのが目に浮かびます。ここでもマリアは給仕とは無関係のことをします。それが香油注ぎでした。ただし、今日のところで文句を言うのはマルタではなく、イスカリオテのユダでした。

 

 マルコ福音書とマタイ福音書は、香油はイエス様の頭から注がれたと記しています。ヨハネ福音書は足に塗ってそれを髪の毛で拭ったと。そこで高価な香油をそんな使い方したことを憤慨し、貧しい人々に施すべきだったとイスカリオテのユダが言います。マタイとマルコでは誰が言ったかはわかりません。

 

 こういうふうに4つの福音書は、同じ出来事を扱っていても細かい点で違っていることがよくあります。どうしてそうなるのかと言うと、福音書を書いた人たちは記録や歴史の専門家ではなく、直接の目撃者だったり、目撃者から話を聞いて書き留めたものを後でまとめた人たちです。こうして最終的に4つの別々の記録が出来上がったということです。彼らにとって、自分の目で見たこと耳で聞いたことが大事な資料です。目で見たこと耳で聞いたことから受けた印象や影響が違ったりすると、同じ出来事を扱っても、人によってはある面を前面に出し別の面は背後にする、別の人は別の面を、ということが出てきます。スウェーデンの有名な釈義学者のB.イェールツが言っていますが、何かの事件の裁判で証人が4人いたとする、もし全員の証言が細部まで一致していたら、裁判官はこれは裏で辻褄を併せる相談をしたに違いないと疑うだろう、逆に細部は食い違っても出来事そのものが一致していれば証言の信ぴょう性は高いと考えるだろう、福音書もこれと同じなのだ、と。

 

 それなので、福音書で同じ出来事を扱っている個所に出くわしたら、これはマタイの視点で見たもの、マルコの視点で見たもの、というふうに受け止めて、それぞれの視点でそれぞれは真実であると受け入れる、同時に、マタイが見落としていることをマルコが自分の視点で取り上げたと受け止めて、最終的には4つの視点が大きな全体を作り上げているのだと把握する、つまり、真実はそれぞれのところと全体的なところの両方にあるという観点で福音書を繙くことが大事です。なぜかと言うと、そうすることで信仰は深まり強まるからす。だから、福音書が4つあるのはまさに神の御心なのです。

 

2.ナルドの香油から洗礼へ

 

 そういうわけで、今日はべタニアの香油の出来事をヨハネの視点で見ていきましょう。マルコとマタイの記述では香油はイエス様の頭からかけられました。ヨハネでは足に塗られて、それを髪の毛で拭うことをしました。それを行ったマリアはイスカリオテのユダから非難されます。なぜ、香油を売って貧しい人に施さなかったのか、と。そこで福音書記者のヨハネはユダがそう言った本心について注釈します。本当は貧しい人のことを思ってそう言ったのではなく、イエス様一行のお金をちょろまかしていたので、それで香油が現金化されなかったのが悔しかったのだと。このユダの偽りの発言に対してイエス様が言い返します。

 

「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 この言葉はユダのマリア批判のすぐ後に言われます。それで、「するままにさせる」とは、この時マリアが髪の毛で香油を拭っていることを指します。

 

 イエス様の言葉の次の部分、「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」はギリシャ語の原文がとても厄介です。素直に直訳すると「彼女が私の葬りの日まで香油を保てるために」です(後注)。これは変です。イエス様は、マリアが彼の足に塗った香油を髪の毛で拭っているのをそのままさせなさい、と言いました。そして、それをさせるのは、マリアが葬りの日まで香油を保てるためだと言うのです。今している髪の毛による拭いをさせるのは、葬りの日まで香油を保てるようにするためなのだと。香油は使ってしまったではありませんか!なので、それを葬りの日まで保つことなど出来ません。

 

 ここは訳をする人は皆悩んだと思います。訳者たちが考えた解決方法は次のことです。マルコ福音書とマタイ福音書では香油はもうすぐ起こる葬りのために前もって体に塗ったと言っています。本当は遺体に塗るべき香油であるが、まだ生きている段階で塗って葬りの準備をした、イエス様の死は不可避だという印をつけたという意味です。それと同じ意味を訳者たちは、このヨハネ福音書の不可解な個所、塗った後も香油は保たれるなどと言う箇所に当てはめたのです。日本語の訳も英語の訳もフィンランド語もスウェーデン語もドイツ語も皆同じです。本当は葬りの日に使うべき香油を前もって使用したという意味にしたのです。

 

 この解決法は、マタイとマルコの視点とヨハネの視点を一致させるものですが、私としては違う言い方をしている以上は、やはりヨハネは別の視点があるのではないかと疑います。それで、この難解な個所をマタイとマルコを参考にしないでヨハネの視点は何かを追求していこうと思います。

 

 マリアがイエス様の足に塗った香油を髪の毛で拭うのは、イエス様の葬りの日まで香油を保つためである。これがヨハネの書き方でした。マルコとマタイの場合は、香油は頭からかけられ、遺体に香油を塗ることを前もって行ったのだという書き方です。なので、塗られた香油を髪の毛はおろか何か拭うもので拭うこともしません。ヨハネの場合は、塗るのは足に限定していて遺体のように体全体に塗ることとは趣きが異なります。まず、足に香油を塗ることを足を清める意味に理解します。というのは、ヨハネ13章でイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、君たちもお互いに同じようにしなさいと教えたことがあるからです。上に立つ者も下にいる者に対して仕えることをしなければならない。このように、足を清めることが仕えることを意味するならば、マリアがイエス様の足に高価な香油を塗ったのも仕えたことになります。ただし、イエス様の場合は罪のない神聖な神のひとり子なので足洗いのような罪の洗い清めの意味はありません。高価な香油を塗ってこれから十字架の死に向かう受難の道を歩む足を聖別する意味になります。このようにマリアは仕えることをしたのです。

 

 もっと大事なのは、マリアが足に塗った香油を今度は髪の毛で拭ったことです。そうすることでマリアの髪の毛にも香油が塗られたことになり、部屋いっぱいに広がる位の強い芳香はイエス様の足だけでなくマリアの髪の毛にも漂うことになります。これがまさに、マリアが葬りの日まで香油を保つこと、自分の体の一部にして保つということなのです。マリアのこの香油の保ちはイエス様の受難を自分に身近なものにする、自分のものにするということです。イエス様は、自分の葬りの日まで香油をつけておいて自分の受難を身近なものにしていなさいということを意味したのでした。

 

 それでは、イエス様が葬られたら受難は終わったので髪についた香油を取り除かなければならないのか?洗い落とさなければいけないのか?でもそれは、たとえ香油の香りが髪の毛に残っていたとしても、イエス様の受難は終わってしまったのだから、その香りにはもう受難を身近なものにする、自分のものにする意味はなくなります。

 

 しかし、その代わりにイエス様の受難を自分のものにする新しい仕方が始まりました。洗礼です。使徒パウロはローマ6章で、洗礼を受けてイエス・キリストに結びつけられた者はキリストの死にも結びつけられたと教えます。キリストの死に結びつけられたからにはキリストと共に葬られたのだと。しかし、洗礼が人を本当にキリストに結びつけるものならば、死と葬りとの結びつきはまだ道半ばです。なぜなら、キリストは死んで終わったのではなく、三日目に創造主の神の想像を絶する力で復活させられたからです。だから、洗礼を受けてキリストに結びつけられた者はキリストの復活にも結びつけられたのです。キリストの復活に結びつけられると、永遠の命に結びつけられます。それまで神の意思に反しようとする性向、罪のために永遠の命から切り離されていた人間は洗礼によって永遠の命に結びつけられます。無理やりと言っていい位に力強く結びつけられます。その瞬間、罪はその人からはじき出されたみたいになって、その人を支配する力、コントロールする力、牛耳る力を失います。

 

 もちろん、人間はキリスト信仰者になっても肉を纏っている以上は罪が残存しています。しかし、それは信仰者から永遠の命を切り離す力をもう持っていないのです。干からびた虫けらのようなものなのです。それで、信仰者が自分の内に神の意思に反するものがあることに気づいた時はいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けます。そうすれば、あの時打ち立てられた罪の赦しは微動だにしていないこと、自分は罪の赦しの恵みの中で生きていることをいつも確認できます。その度に、あの抗しがたく感じられた罪の思いは潮が引くように退いていきます。その度に、罪は本当に支配力を失っていることと、それを可能にしているのはまさしく罪の赦しの恵みであることがわかり、その確信は日々強まっていくのです。これがパウロの言う、罪に対して死に神に対して生きるということです。

 

3.勧めと励まし - 貧しい人々を神の国へ

 

 イエス様は再臨する日までこの世から離れていますが、貧しい人々をキリスト信仰者に委ねました。それにどのように応じたらよいのでしょうか?イエス様がこの世にいない今の時は300デナリを分け与えるのが良いやり方でしょうか?でも、それだと300人に一日分の賃金を与えた後はどうなるか?支給対象を100人に絞ってそれぞれに三日分の賃金を与えるのは?そのようなやり方では資金はすぐなくなってしまいます。もっと持続可能なやり方を考えないといけません。キリスト信仰者にとって持続可能な貧しい人々の支援策はなんでしょうか?

 

 イエス様が貧しい人々について何を言っていたかを見てみましょう。ルカ6章で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。マタイ5章を見るともっと限定して「霊的に貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。「霊的に貧しい」は日本語訳では「心の貧しい」ですが、ギリシャ語原文も他国の訳も「霊的に貧しい」です。「霊的に貧しい」というのは、神の意思は正しい、十戒は正しい、だからそれに沿うように生きなければと思っているのに、それに反することを考えてしまったり、言葉や行いに出してしまう。それで、自分は神から離れてしまっていると気づいて悲しんだり沈んでいる人たちです。どうしてそのような人たちが復活の日に復活を遂げて神の国に迎え入れられるのでしょうか?

 

 それは、そのような人たちは、自分の力では神に義と認められないとわかっているからです。自分の力でできないので、別の力が必要だと痛感している人たちです。イエス・キリストの十字架の業による罪の償い、罪からの贖いの業がまさにそうした別の力の働きです。イエス様の業のおかげで、彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神に義と認められるのです。キリスト信仰者は、基本的に皆、も霊的に貧しい人たちです。自分の至らなさを自覚しています。だからイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神から義と認められて、将来、神の国に迎え入れられるのです。

 

 それなので、キリスト信仰者は霊的に貧しい人も経済的に貧しい人も、まずは神の国に迎え入れられるように導くこと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神の国がその人のものになるように導くこと、これが持続可能な助け方ではないかと思います。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注) ヨハネ127

αφες αυτην, ινα εις την ημεραν του ενταφιασμου τηρηση αυτο.

これを英語にそのまま転換すると、

Let her (do this) /Allow her (to do this) so that she might keep it (=perfume or ointment?) until the day of my burial.

2025年3月4日火曜日

イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年3月2日 変容主日 スオミ教会

 

出エジプト記34章29-35節

コリントの信徒への第二の手紙3章12節-4章2節

ルカによる福音書9章28-36節

 

説教題 「イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節の最後の日曜日です。水曜日からイースター・復活祭に向かう四旬節が始まります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 

 イエス様の変容の出来事は、実はキリスト信仰者にとってこの世を生きる希望と勇気の源になることを教えています。今日はこのことを見ていきます。ところで、この出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ827節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と特定できます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 

2.      山の上での出来事

 

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。少し詳しく見てみましょう。

 

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも夢の話と考える人もいるかもしれません。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディアグレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという言い方です。それで、モーセとエリアの出現は夢ではなくて現実に起きたことなら、彼らはやはり幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来にみんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 

 それなのでキリスト信仰の天国は他の宗教の天国とかそれに類するものと大きく異なっています。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類するものは、この世から死んだ後すぐ、ないしは30何年後とかの後で到達できるというものです。つまり、今のこの世がまだ存在している時に到達できるのです。ところがキリスト信仰では、到達は今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その時が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きます。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日に先立って死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということです。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ539節、ヨハネ1111節、第一コリント151820節)。このようにキリスト信仰では死は復活の日までの眠りで、その時に永遠の安寧に入れるか永遠の滅びに入るかの振り分けが起こります。

 

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日まで神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記1931節、申命記1811節、サムエル記上216節、イザヤ書819節です。

 

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中にもう出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然霧に覆われて視界が無くなるというのは、何も特別なことではありません。その霧は麓から見ると雲なのです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(1823節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよくわきまえていなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

 

3.イエス様の変容と受難の道の選択

 

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ932節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は神聖な神の子としての本質を顕わにしたのです。

 

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(67節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが言われています。さらに、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが言われています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の本質を目に見える形で顕した出来事だったのです。

 

 そこで34節を見ると、「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と言っています。ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、乗りかけた「雲」から降りてしまって、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 

 それは、私たち人間が復活の日に目覚めさせられて、神の栄光を映し出す輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。そうするためにイエス様は受難の道を進んでゴルゴタの十字架にかけられる道を選んだのです。どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか?

 

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪を除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現する神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、それは人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分というものではない、心の中で兄弟を罵ったら同罪と教えました(マタイ52122節)。「姦淫するなかれ」も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同2728節)。詩篇51篇でダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。このように罪は洗い清めなければならない汚れなのです。その洗い清めはもはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 

 そこで神は、できない人間にかわって自分で人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。では、「赦す」ことがどうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のことです。

 

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、つまり不問にするからこれからは神に背を向けず神を向いて新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは全て本当のことだとわかり、それでイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそれを神の守りと導きのうちに進むことになるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、「罪の赦しの救い」という神の贈り物を準備するためでした。私たちはこの贈り物を素直に受け取ってそれを携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。もちろん、全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそこを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、37節辺りから見ていくとわかるようになります。

 

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現すのです。しかし、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。というのは、神の栄光を映し出せる位に心の奥底まで掟を完璧に守ることは出来ないからです。それで、十戒は人間が誰でも罪を持っていることを明らかにする鏡です。なので、神の栄光を現す神聖な掟は人間を罰に定めてしまうのです。十戒だけでは人間は神聖な神のみ前に立たされた時、裁かれてしまうのです。

 

 しかし、神の御心はあくまで人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てて、神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。パウロが3章の9節で言っていること、人を罪に定める務め、つまり十戒の務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め、つまりキリストの務めは、なおさら、栄光に満ちて溢れているというのはこのことです。

 

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の焼き尽くす危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがイエス様の十字架と復活の出来事が起こって、この世は神から罪の赦しを頂ける時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままで真の栄光を見ようとしない人たちがいることをパウロは嘆きます。

 

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けているので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 

 12節「この希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」と言う時の希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使う時は、大抵は復活と神の栄光の映し出しを指しています。キリスト信仰者は、この希望から勇気を得ると言うのです。その勇気ある生き方の具体例が42節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について人々に真理を語る。そして他の人たちに向かって次のように言えることも。「私たちは罪の赦しの恵みに留まって生きる者です、なので神のみ前でやましいところは何もありません、どうぞそれをあなたたちの良心で判断してみて下さい」と。このように復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われどう思われようと全然平気です。人間は神ではないので恐くはないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年2月24日月曜日

この世で正義は不完全だが、最善を尽くして復活の日に清算してもらおう(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月23日顕現節第7主日 スオミ教会

 

創世記45章3-11、15節

コリントの信徒への第一の手紙15章35-38、42-50

ルカによる福音書6章27-38節

 

説教題 「この世で正義は不完全だが、最善を尽くして

      復活の日に清算してもらおう」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者を祝福せよとか、汝らを侮辱する者のために祈れとか。お前なんか地獄に落ちろと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さいなどと祈らないといけないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげないといけないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞ、とは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰もキリスト信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、困りました、どうしましょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者が物事を見る視点、キリスト信仰に特有な視点について教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が教えようとしている視点とは何か、考えなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 

2.神が与えたものにではなく与えて下さる神に固執せよ

 

 イエス様の実行困難な教えは他にもいろいろあります。どれも聞く人読む人にショックを与えます。一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせるやり方です。

 

 イエス様は金持ちの青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。それに対してイエス様はこう返しました。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。神が用意して下さったものを受け取ることでしか救いは得られないということです。もう一つは、人間は賜物を賜った神よりも賜ってもらったものに固執してしまうということ。賜ってもらったものに固執して賜ったお方を忘れるようになったら神は賜物を取り上げることも辞さないということです。

 

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったりすると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。それは、いつか将来今ある天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に死の眠り復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる。これがキリスト信仰の救いです。

 

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。ただ、神が守って導いて下さるとは言うものの、苦難や困難に出くわすと守りなんかないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として私たち人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世ではそこに至る道を神の守りと導きを受けながら進むことができる、これがキリスト信仰の救いです。

 

 この救いは人間の力では獲得できません。それを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようにしっぺ返しを喰らってしまいます。それでは、なぜ人間の力では獲得できないのか?それは、人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっているためです。その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによって人間は救いを獲得できるようになったのです。イエス様はどうやって解消したのでしょうか?それは、人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は私たち人間がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。このようにイエス様が果たして下さった罪の償いを信仰と洗礼で自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 

 金持ちの青年の出来事が教えているもう一つの大事なこと、人間は賜物を賜った神よりも賜物の方に固執してしまうことについて。神は固執する対象を訂正するために手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。たとえ賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執する心を持っていなければならないのです。宗教改革のルターはその心は次のようなものだと教えます。

 

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからしか得られないと思ってしまう位に愛しいものになってはいけない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えになるのをやめると言われるのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えは、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に追いやって賜物に執着してはならない、執着している限りそんな賜物は取られ奪われて当然だということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきです。そこで、もし逆にルターが教えるように神に固執して賜物を持っていたのに、不当な取られ方、奪われ方をされたらどうするのか?つまり、賜物が取られ奪われるのが当然ではない場合です。それは正義の問題になります。次にそれを考えます。

 

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 

 まず、敵を愛せよ、頬を差し出せという教えを見ます。これらも、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。イエス様はマタイ5章でも同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くでしょう。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前よくすると悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれるとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです(神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書1823節と3311節を見れば明らかです)。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛しています、などと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活と最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげる、ということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 

 復讐心で行わないということには、神がそうせよという命令があるからですが、もう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者が神から罪の赦しを受けた立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が膨張するのを抑える力になります。神聖な神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで私は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は復活の日に向って進む私を毎日支え守り、道を迷わないように導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。至らないところが沢山ある私だが、イエス様がこの私のためにも成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さずつけて生きている。その私を父なるみ神は毎日支え守り導いて下さる。

 

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」この教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活と完全な正義に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私はあいつを裁く、罪びとに定めてやる、赦さないなどと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われるでしょう。イエス様の教えは、私はできない、できない、絶対できない、と言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて簡単なことではありません。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪として、この世では不完全かもしれないが罰せられねばなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

 

4.勧めと励まし

 

 本説教で、キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々である、復活させられて神の御国に迎え入れられる日を目指して、今はこの世で神の守りと導きを受けながら進む日々であると申しました。苦難や困難に遭遇すると守りや導きを疑ってしまうかもしれませんが、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることである、それなので神の守りと導きは時として私たちの理解を超えた仕方で現れることがあるとも申しました。本日の旧約の日課、創世記45章のヨセフの信仰の証しがそれを示しています。愛のない兄弟たちの策略でヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされ、苦難に次ぐ苦難を受けます。しかし、最後にはエジプトの王ファラオに次ぐ高官に任命されるまでに至ります。その時、カナン地方を大飢饉が襲い、兄弟たちは食糧援助を求めてエジプトに来ました。今自分たちの目の前にいる高官がヨセフとわかって彼らは激しく動揺します。しかし、ヨセフは言います。あなたたちが私をエジプトに追放したのではない。後にあなたたちを救うために神が私をエジプトに送ったのだと。ヨセフは、兄弟たちに裏切られて売り飛ばされた時も、その後のエジプトでの様々な苦難の中にあっても、神がそばにおられることを信じて疑わなかったのです。もし疑っていたら、様々な誘惑があった時、神の意思に沿うなど意味がないと背いてしまったでしょう。しかし、背きませんでした。それは、まさに今日の詩篇の日課37篇にある、「主に信頼し、善を行え」という御言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように輝かせて下さる」という御言葉の通り、神に信頼して善を行い、そしてその正しさが光のように輝いたのでした。

 

 こう言うと、ヨセフの場合は運よくそうなったが、神に信頼して善を行ってもみんながみんなハッピーエンドにはならないと言う人も出てくるでしょう。ああ、信仰の薄い者たちよ、そんなことを言うあなたがたは、なぜイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたのかまだわからないのか?復活というものが本当に起きることが明らかになった以上は、正しさが光のように輝くのはたとえこの世の段階でなくても遅くとも復活の日に完全に起こるということがわからないのか?

 

 だから、神を信頼して善を行うことは何も心配しないで行って大丈夫なのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン