2024年11月13日水曜日

自分に備わっているものは全て神からの贈り物(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日

スオミ教会

 

列王記上17章8-16節

ヘブライの信徒への手紙9章24-28節

マルコによる福音書12章38-44節

 

説教題 「自分に備わっているものは全て神からの贈り物」

 

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1 はじめに ― やもめの捧げ ― 美談か悲劇か?

 

 エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。

 

 金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。

 

 しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(1240節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。

 

 イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ1312節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。

 

2.自分に備わっているものは全て神からの贈り物

 

 このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?

 

 いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?

 

 その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」92428節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。

 

 そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。

 

 このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!

 

 恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。

 

 このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。

 

 ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。

 

3.勧めと励まし

 

 終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。

 

 二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。

 

 そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。

 

 三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2024年11月4日月曜日

キリスト信仰とはつまるところ復活信仰なのだ(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)  

 

主日礼拝説教 2024年11月3日(全聖徒主日)スオミ教会

 

イザヤ書25章6-9節

ヨハネの黙示録21章1-6節

ヨハネによる福音書11章32-44節

 

説教題 「キリスト信仰とはつまるところ復活信仰なのだ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ71117節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

 

 本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。

 

2.黙示録21章とイザヤ25章の復活

 

 復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

 

 特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

 

 まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。

 

 本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇13913節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסךが使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書257節でも同じ「織物を織る」動詞(נסךが使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

 

 人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。

 

3.復活信仰の確認

 

 次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。

 

 そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。

 

 マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。

 

 しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

 

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

 

 マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

 

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

 それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

 このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。

 

4.勧めと励まし

 

 最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ415節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。

 

 イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ416節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン