2024年5月27日月曜日

キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とは?(吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)  

 

主日礼拝説教 2024年5月26日 スオミ教会

 

イザヤ6章1-8節

ローマの信徒への手紙8章12-17節

ヨハネによる福音書3章1-17節

 

説教題 キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とは?


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 

 そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。

 

 まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。

 

 三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。

 

 以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。

 

2.キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」は倫理的な事柄である

 

 まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 

 イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。

 

 この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。

 

 それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。

 

3.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 

 その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。

 

 イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。

 

 神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 

 ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

 

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。

 

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。

 

 そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

 

 ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(56節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?

 

 人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

 

4.イエス様の罪の償いを受け取って霊的な存在になる

 

 それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 

 風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。

 

 これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

 

「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない(13節)。」

 

 イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。

 

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」

 

 これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?

 

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。

 

5.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援と指導

 

 しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。

 

 これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

 

 そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

 モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ31416節)。  

 

 こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。

 

 キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ813節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

 

 主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年5月20日月曜日

聖霊 ― 弁護者であり真理の霊である方 (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音境界牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2024年5月19日 聖霊降臨祭 スオミ教会

 

エゼキエル書37章1-14章

使徒言行録2章1-21節

ヨハネによる福音書15章26-27節、16章4b-15節

 

説教題 「聖霊 ― 弁護者であり真理の霊である方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来、復活の日に復活できるようになったことを喜び祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が天に上げられた後、約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まって勇気と希望を持ってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 

 本日の説教では三つのことについてお話します。一つ目は、聖霊降臨の出来事の時、ペトロがそれは旧約聖書のヨエル書の預言が実現したことだと言いますが、それはどういうことか?二つ目は、本日の旧約聖書の日課はエゼキエル書ですが、そこで霊について言われていました。この個所は実はキリスト教会に大いに関係するということについて。三つ目は、イエス様が福音書の日課の中で聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいますが、それはどういうことか?以上の三つのことを見ていきます。

 

2.聖霊降臨の出来事とヨエル書の預言

 

 聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた使徒言行録2章にある通り、イエス様の弟子たちが聖霊を受けて群衆を前にして、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのはとても時間と手間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず語学学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(24節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の誰かが言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(211節)」。

 

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは出身民族は異なるが皆、旧約聖書の天地創造の神を信じるユダヤ教徒です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いてすぐ頭に浮かぶものと言えば、その筆頭は出エジプトの出来事でしょう。大昔イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに向かって民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。それと、神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚からの祖国帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。

 

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」の中には、以上のものに加えてもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分の目で直に目撃したイエス様の出来事でした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子、旧約聖書に預言されていた救世主メシアであった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられた一連の出来事です。イエス様の出来事には旧約聖書の預言が無数に絡んでいました。なので、これもまぎれもない「神の偉大な業」でした。こうしてユダヤ教の伝統的な「神の偉大な業」に並んで、イエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 

 ペトロは、この現象はヨエル書315節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出した。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのでした。

 

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文を見ると、「終わりの日々」という言い方はありません。ペトロが原文を改ざんしたのか?そうではありません。旧約聖書のギリシャ語版で「終わりの日々」と訳されていました。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちは終末論の観点で訳したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 

 それでは「終わりの日々」とはどんな日々でしょうか?それは、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるということです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直されるという天地大変動の時です。大変動の後に唯一残る国として神の国が現れる、その時、誰がそこに迎え入れられるかどうかという最後の審判が行われる。それで、イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちました。しかし、仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。神が罪深い民に怒りを表す日で、バビロン捕囚の前は敵国が攻めてくるような災難を意味しました。捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の後の時代は、彼の再臨の日を意味するようになります。

 

 21節を見ると、そういう天地の大変動の時の破滅から救われて神の国に入れるのは、救い主の名により頼む者であると言われています。そして、22節から後のところで、ペトロは群衆に対してそのような者になりなさいと説いていきます。こうして聖霊降臨の日に異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。その最初の宣べ伝えの日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

3.エゼキエルが神から示されたこと

 

 本日のエゼキエル書の日課にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大な敵国を送られてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいます。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史のところで出てくる「バビロン捕囚」の事件です。連行された者の中に預言者のエゼキエルがいました。ある日エゼキエルは、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれます。そこで無数の枯れた骨を見ます。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられます。これが500年後に起こる聖霊降臨やキリスト教会の誕生とどう関係するでしょうか?それについて見ていきましょう。

 

 3711節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが言われます。大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された骨も同然だ、希望はなく消滅するしかないと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できると約束する。神は、約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。そこまでされたら信じないわけにはいかないでしょう。このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。

 

 ここで14節をよく注意して見ます。新共同訳では、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」となっていますが、ヘブライ語原文は「わたしがお前たちに私の霊を与える」です。新共同訳では単に「霊」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。つまり、聖霊です。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は紀元前538年から祖国帰還ができるようになり復興を遂げます。しかし、民は本当に聖霊を受けて復興を遂げたのでしょうか?

 

 確かに、民は祖国に帰還しエルサレムの町と神殿を再興しました。しかし、ユダヤ民族は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国などの大国に支配され続け、かつてのダビデの王国の再興など夢の夢でした。さらに、民自身が神の意思に沿う生き方が出来ていないのではないかという疑念も起こっていました。イザヤ書2章に、異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言がありますが、現実はほど遠いものでした。そうなると、民に聖霊が与えられて復興を遂げるというのは、祖国帰還と町や神殿の再興とは違うことを意味するのではないかと考えられるようになります。つまり、エゼキエルの預言はまだ未完という理解です。

 

 どうしてこんなことになったのかと言うと、神が本当に目指していたことは、特定の民族の復興ではなくてもっと大きなことだったからです。それは、堕罪の時に起きてしまった人間の罪の問題、罪のために神と人間の結びつきが失われてしまったという問題を解決することでした。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者たちに言葉を下したのです。しかし、言葉は具体的な歴史の中で下されます。そのため、言葉は歴史状況に結び付けられて理解されてしまいます。神は祖国帰還と復興を実現させることで、本当はもっと大きなことを行う力があることを前もって知らせたのです。

 

 それでは、全人類に関わる罪の問題が解決したのはいつでしょうか?それは、神がこの世に贈られたひとり子のイエス様が十字架の死を遂げて人間の罪の償いを果たし、人間を罪の支配から贖い出した時でした。そしてイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命に至る道を人間に開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪と死の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで解放されて聖霊を与えられて「新しい命に生きる」(ローマ64節)ようになることを見越した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル371213節)というのも、罪と死の支配から解放された者たちが将来の復活の日に復活を遂げて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、復活の日をも見越した預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的出来事だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということをいつも覚えて見なければいけません。

 

3.弁護者であり真理の霊である方

 

 それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何だか物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼んでいます(ただし、フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)。まさしく人格を持つ者です。

 

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて語ります。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そこでイエス様は聖霊を送る約束をしますが、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊と言うとき、真理とは何を意味するのか?

 

 まず、聖霊が「真理の霊」であるということについて。キリスト信仰の観点では、聖霊の力が聖書の御言葉を通して働かないと人間はイエス様を救い主と信じる信仰に入ることは出来ません。人間の理解力、能力、理性だけでは、いくら聖書を読んでもイエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の今のイスラエルの国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書の神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。信仰なく理性だけですと、こういう歴史上の人物理解に留まります。歴史の教科書に書いてある理解です。

 

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は表層的なもので、深層部にはもっと大きなことがあるとわかるようになります。大きなこととは、万物の創造主である神の計画が実現したということです。つまり、イエス様が神の力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言から明らかになった。じゃ、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになった。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して罪の償いを受け取ることが出来、償いを受け取ったら神から罪を赦された者と見てもらえるようになる。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになる。この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。以上の旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と死からの復活が行われた。これらのことが、歴史の表層部には見えない、深層部にある本当のこと、真理なのです。理性では到達できない領域です。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は聖霊の力が働くのでこの真理に到達することができるのです。

 

 聖霊の力が働いたおかげで真理が見えるようになると、今度は聖霊は「弁護者」の働きをします。聖霊は何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。何者が私たちを告発するのか?まず、サタンと呼ばれる霊があります。悪魔のことです。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、言葉も行いも心の中も神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、罪の自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけは善人ぶっていますが、一皮むけばどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の結びつきを失わせることです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けて立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって拍手喝采なことになります。

 

 聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられて微動だにしていません」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、このような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは襟を正して本当にもう罪は犯すまいという心を強くするでしょう。

 

 悪魔の告発の他にもう一つ、聖霊が弁護者として働く場合があります。それは、キリスト信仰者が誤解や中傷、酷い場合は迫害を受ける時です。本日の福音書の日課は16章の1節から4節の前半までが省略されていましたが、そこのところでイエス様は弟子たちに迫害の危険があることを述べています。弁護者としての聖霊を送るというのは、このことに関してなのです。

 

 キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰に入った段階で神の意思である十戒を心に刻みつけられています。人を傷つけない、見下さない、敬意をもって接する、偽りを語ったり広めたりしない、盗んだり妬んだりしない、不倫をしない等々のことを行為だけでなく、言葉や考えにおいても守ろうとします。しかし、行為では守れても、言葉や考えで守り切れないことがあります。それで、先ほど述べたように弁護者に支えられて罪の赦しを何度も何度も確認して前に進むのです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神からこう言われます。「お前は罪の赦しの恵みに支えられて罪に反抗する生き方を貫いた。このことは弁護者から十分すぎるほど聞いている」と。

 

 そういうわけで、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、誤解や中傷があっても、何も心配はありません。私たちには永遠の命の弁護者がついているのです。私たちはただ、罪の赦しの恵みを支えにして、神の意思に沿う生き方、罪に反抗する生き方をしていれば、何のやましいことも後ろめたいこともありません。神の意思に沿う生き方がどれほど社会のためになるのかわからない方が憐れで惨めなのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン