2019年5月27日月曜日

神との平和に立ち、心に平安を保ち、人との平和を目指す (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年5月26日復活後第五主日 スオミ教会

使徒言行録14章8-18節
ヨハネの黙示録21章22-27節
ヨハネによる福音書14章23-29節

説教題 神との平和に立ち、心に平安を保ち、人との平和を目指す



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?

本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。それならば、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば、国が複数の民族から構成されていて、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう安心した暮らしなど出来ません。そんな時、権力者以外は誰も自分の国が平和だとは思わないでしょう。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心した暮らしができると約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数ありました。キリスト信仰者といえどもそうしたものに常に巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがイエス様のこの御言葉を解き明かしているところが大いに参考になります。それを以下に引用します。

「ヨハネ1427節の御言葉で主が与えると約束されている平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がなくて心が落ち着いているという平和ではない。それとは逆に不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。

『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とはどんな平和か?それは、外面的な揺れ動きを引き起した原因となった害悪が消滅するという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうしたものに取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない時に比べて、こっちの方が心の中で勇気と喜びが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。

人間の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえない、そう考える理性はそのような状態にあって心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。どのようにしてか?それは、我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えて下さることによってだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体が怯えるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」

以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても、内面的には平和があるというルターの教えでした。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語原文のエイレーネーειρηνηという言葉が、外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係していると思われます。聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーが外面的な「平和」を意味する時も内面的な「平安」を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉もギリシャ語同様に外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、それで特に区別しないで同じ言葉を用いていると思います。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?せっかく「平安」という言葉があるのに「平和」と訳したら、これは内面の「平安」を意味するんだと言い聞かせて読まなければなりません。

興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ1427節でイエス様が約束しているものは、まさに内面的な平安(fridで訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)を用いています

2.神との平和

以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には心の中に勇気と喜びが失われないばかりか増し加わることさえして、揺るがない安心を持つことが出来ることであるとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もが持ちたいと思うでしょう。

どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは全然難しくありません。イエス様が与えると言っているものを、ありがとうございます、と言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると、今度はイエス様が与えると言っている平和とは何か、どこにそれがあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ないので、次にそれを見ていきましょう。

イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事があり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録236節、ローマ14節、ヘブライ15節、詩篇27節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪深さ対する神の罰を身代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだ、とわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。

このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活のイエス様が扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道に置かれてその道を歩めるようになります。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世を去ることになっても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に引き上げてもらえて、そうして自分の造り主である神の御許に永遠に戻れるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、人間の想像を超えた救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間に罪が入り込んだために失われてしまいました。その失われたものが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に用いることで打ち立てられたものでした。

この壮大な事実を目の前にした人間が、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったのだ、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするだけだったのではないんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ51節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

3.神との平和に基づく心の平安

 しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか、と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなることもあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈の気持ちになることもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることが始まります。

そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるというのか?そういう疑問を持つヨブに対して神は最後に、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。一見、何の関係があるのかと問い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のようなことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

神の目がしっかり注がれているということを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(2127節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト323233節、詩篇6929節、イザヤ43節、ダニエル121節、フィリピ43節、黙示録35節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ1020節)。黙示録2012節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ127節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。

ここからわかってくることですが、神は全ての人間に目を注いでその境遇を知って満足するというような無責任な傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにしようと、それでひとり子をこの世に送って犠牲に供することを惜しまなかったのです。神は、私たちがどんな境遇に置かれても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのなら、それは神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも皆、私たちを力づける神の立派な支援です。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(1426節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い出させて下さいます。その思い出させに自分を委ねてしまい、思い出せばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。

 まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安です。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。

4.人との平和を目指す

 神との平和に立ち心の平安に満たされたら、次は人との平和な関係の構築が待っています。マタイ59節でイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。「平和を実現する」とはどんなことをするのか?ノーベル平和賞をもらえるくらいのことをしなければならないなら、自分には無理だ、ということになってしまうでしょう。しかし、人との平和な関係というのは、身の回りの人たちのことでも全く構わないのです。ローマ1218節でパウロは次のように勧めます。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ここのギリシャ語原文が少し厄介なのですが、訳文では見えてこない深い意味があります。「周りの人と平和な関係を持てるかどうかがあなたがたの肩にかかっていて、それを背負うことが可能ならば、それを背負って全ての人と平和に暮らしなさい(後注)。」つまり、背負うことが出来る場合は、平和な関係を築きなさい、出来ない場合は築けなくてやむを得ない、ということです。どういうことか、以下、詳しく見ていきます。

ローマ12章をみると、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならない、とか、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ、とか、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ、とか、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とかあって、なんだかキリスト教はお人好しで真面目にやったら損をして馬鹿を見る宗教に見えてきます。ここで一つ申し上げると、社会には秩序や法律があるので、犯罪や過失が起こったら、法律に基づいて処罰や補償をしなければならないのはキリスト教でも当然なことです。ただし、その場合でも、復讐とか仕返しの観点は持たないということです。社会や秩序に傷が出来たので、それを修復するとか再発を防ぐとかそういう観点で処罰や補償が考えられるのではないかと思います。そんなことでは被害者の気が収まらないではないかと言われてしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には神との平和という土台とそれに根差した心の平安があるため、「気が収まらない」という気持ちはぎりぎりのところで抑えられていると思います。

このように神との平和に立って心の平安を持てれば、ちょっとやそっとのことで損したとか馬鹿を見たという感じはしなくなります。それらを持っている限りは人との平和の関係を築くことは大丈夫です。パウロが「背負うのが可能ならば」と言う時、神との平和と心の平安があれば「背負うのは可能」です。それでは、「背負うのは不可能」という場合はどんな場合でしょうか?それは、襲い掛かる悪が信仰を捨てるように強要する場合です。つまり、神との平和とそれに基づく心の平安そのものを手放せということです。そうなると相手と平和な関係を築けなくなるのはやむを得ないことになります。果たして、信仰を捨てることを強要する相手とは平和な関係は築けないでしょうか?仮に、キリスト信仰者が信仰を捨てて、強要した側がよしよしよくやったと満足して対立がなくなったとします。そのようにして得られた平和は本当に平和でしょうか?良心の自由を踏みにじることで成り立つ平和は、魂のない静寂にしかすぎず、それは本当の平和ではありません。

信仰を捨てることを強要する相手と本当の平和な関係を築くのは全く不可能なのでしょうか?実は可能になる場合もあります。それは、相手がキリスト信仰者になって、神との平和とそれに基づく心の平安を持つようになる時です。そんなのは理想論で絵に描いた餅だと言われるかもしれません。でも、あれだけ執拗にキリスト教徒を迫害し続けたローマ帝国がいつしか皇帝自らキリスト信仰者になったのです。他にも歴史には同じような事例が一杯あったと思います。どうしてそんな逆転劇が可能だったのか?少なくとも一つ言えることがあります。それは、キリスト教徒が見かけの平和を選んでいたら、そのようなことは決して起こらなかったということです。ここからもわかるように、神との平和に立ち心の平安を持つということは、身の回りの人間関係にインパクトを与えるだけでなく、歴史をも動かす力を秘めているということです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


後注(ギリシャ語が分かる人に)
新共同訳は「できれば、せめてあなたがたは」と、他の人はどうでもあなたがたは頑張って平和に暮らしなさい、ですが、英語(NIV)は”If it is possible, as far as it depends on you”と平和に暮らすことが条件づけられます。ルター訳も同じで”Ist’s möglich, soviel an euch liegt”、フィンランド語訳とスウェーデン語訳もそうです(”Jos on mahdollista ja jos teistä riippuu”/”så långt det är möjligt och kommer an på er”)。

そのような訳になるのはτο εξ υμωνεκgenerisexitusoriginisのいずれかに考えているということだと思います。τοaccusativus limitationisということでしょう。(δυνατονの主語というのはありえないでしょうか?)

2019年5月6日月曜日

パウロの大回心(かいしん)と私たち (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2019年5月5日 復活後第二主日

使徒言行録9章1節-20節
ヨハネの黙示録5章11節-14節
ルカによる福音書24章36-43節

説教題 「パウロの大回心(かいしん)と私たち」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - パウロの大回心

本日の福音書の個所は、復活したイエス様が突然弟子たちの前に現れ、亡霊が出たと恐れおののく弟子たちに対してイエス様がそうではないと手足を見せ、弟子たちから食べ物を取って食べたと言う出来事です。これは復活の体ということですが、それをどう考えたらよいかということについては前回と前々回の説教でお教えしましたので、本日はこの福音書の個所についてではなく、使徒言行録のサウロの回心の出来事について解き明かしをしようと思います。サウロは後にパウロと呼ばれるようになります。使徒パウロのことです。

キリスト教にとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところです。もちろん、十字架の死と死からの復活を遂げたのはイエス様です。パウロが重要だと言うのは、イエス様の十字架と復活は一体何だったのかということ、そしてそれが人間すべてにとってどんなに大事なことなのかということをはっきりわかって、それを福音として教え広めたことにあります。それで、もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったとさえ言えるのです。もちろんルターの宗教改革も起きなかったでしょう。その意味で本日の聖書の個所の出来事、パウロがイエス様に出会い「回心」したという出来事は、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づける重要な出来事であったと言っても過言ではありません。今、日本は天皇と元号が変わって古い時代が終わった、新しい時代が始まったとみんな言っています。イエス様の十字架と復活とパウロの回心は振り返ってみると本当に古い時代から新しい時代への転換点だとわかります。2000年経った今もその新しい時代が続いているというのは感慨深いことだと思います。

ところでパウロの「回心」ですが、この言葉は本日の聖句の見出しにも書かれています。この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教用語になり、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」だそうです。「かいしん」の場合は「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、かつてキリスト教を迫害して悪いことをしてしまったなぁ、これからは心を改めて真人間になってキリスト教を擁護して伝道に努めよう、というような悪人が「改心」して善人になったというレベルの話ではありません。それじゃ、どういうレベルの話かと申しますと、先ほど述べたように、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づけたというレベルの話です。「個人的な信仰体験」と言うにはスケールが大きすぎます。「回心」よりも「大回心」と呼びたいと思います。

そういうわけで本日の説教では、パウロの「回心」が「大回心」と呼ぶに値する大きな出来事であったことを見ていこうと思います。人類の歴史を方向づけたと言うからには、今を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかということも見ていこうと思います。

2.パウロと他の使徒たち

先ほど、もしパウロがいなかったら、またはいても本日の個所のような出来事がなかったら、イエス様の十字架と復活の意味は解明されず、福音の内容もはっきりしなかっただろうと申し上げました。それじゃ、ペトロを初めとする十字架と復活の出来事を直に目撃した弟子たちは何もわかっていなかったのか?それは、ちょっと言い過ぎではないか?と言われてしまうかもしれません。そこで、イエス様の十字架と復活というのは何だったでしょうか?それは、人間を罪と死に支配された状態から救い出して創造主の神との結びつきを回復させよう、そして永遠の命に至る道を歩めるようにしてあげようと、それで神がひとり子をこの世に送って成し遂げさせた業でした。そしてこれは旧約聖書に預言されたことの実現でした。神がこのように整えてくれた「罪の赦しの救い」はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることが出来るようになりました。これらのことは、実はぺトロたちもしっかりわかっていました。聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)を見ればわかります。また、使徒言行録に記録されているペトロたちの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

確かにパウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合はペトロと違って、私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持ちました。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で「異邦人」と訳されます。ペトロを初めとする初期のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれた、それは旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員として生まれたということです。ユダヤ人の男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そのため、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約を受け継ぐ者でなければならない。異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えていたのです。その結果、ローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたのでした(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの立場は、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして「罪の赦しの救い」を等しく受けられて天地創造の神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も神のもとに永遠に戻ることが出来るようになりました。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

3.キリスト教の迫害者から擁護者・伝道者への大変貌

 それでは、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?次にそれをみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループでした。特に清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した神聖な土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのです。まさに、そのためにイエス様は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて罪の償いをする犠牲の生贄となって十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロはキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。あの、宗教指導者たちが異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけます。しかし、ペトロ側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

その時パウロも熱心に迫害に加担しました。厳格なファリサイ派です。罪ある人間が神の目に相応しいとされるには律法を守り抜くことであると信じていました。それ自体は純粋な信仰でした。しかし、そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは律法をないがしろにする邪道にしかすぎません。パウロはエルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が共有する出来事だったのです。

パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者から擁護者、伝道者へと大変貌を遂げました。その経緯は以下の通りです。パウロは強い光に覆い包まれました。まさしく神の栄光、神聖な者が現れたという光です。パウロは目が見えなくなりました。アナニアが手を置きに来るまで3日間見えないまま、飲食もとらず祈っていました。「手を置く」というのは、神のために聖別するとか神に委ねるという意味を持つ儀式的な行為です。「目が見えなくなる」ということについて、先週の説教でもお教えしましたが、聖書の神は何かの目的を持って人の目を一時期見えなくすることをします。エマオの道で復活したイエス様に出会った二人の弟子は神から目を遮られてイエス様と気づきませんでした。しかし、気づかなかったおかげで、彼らの旧約聖書の理解が正確でなかったことが明らかになり、それを正すためにイエス様は教え始めたのです。弟子たちは、メシアとは民族解放の英雄ではなくて人間を罪と死の支配状態から救い出す救世主ということが分かりだしました。最後にイエス様が聖餐のパンを渡した時に目が開かれてイエス様と分かりました。分かった瞬間に姿を消しました。これは絶妙なタイミングでした。というのは、聖書の正確な理解と聖餐があれば、イエス様はたとえ見えなくても臨在していると教えているからです。

パウロの目を見えなくしたことにはどんな目的があったでしょうか?それまではキリスト信仰者たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエス様が自分を名乗って現れたのです。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが明らかになりました。そこから先です。イエス様が神のひとり子なら、彼の十字架と復活は何だったのか?イエス様は自分がやっている迫害を間違っているとしてやめさせた。律法を守って神の目に相応しい者にされることを大事にしたからこそ彼らを弾圧しなければならなかった。しかし、神は彼らを弾圧から守られる。じゃ、神の目に相応しくされるのは律法を守ることによってではないのか?何に拠るのか?その時イエス様の十字架と復活がこの空白を埋めたのです!

アナニアが来たのはこのタイミングだったでしょう。彼はイエス様の命によってパウロのもとに遣わされたと言いますが、それは、これからパウロに行うことはイエス様の名によって行うのだ、自分の考えで行うのではないということを明らかにします。これこそ神の力が働く仕方です。アナニアは手を置いて言います。自分が遣わされたのはお前の目が見えるようになり、聖霊に満たされるためである、と言うとパウロの目が見えるようになりました。これで、イエス様が人間を罪と死の支配状態から解放して神の目に相応しい者に変えて下さる救い主という信仰が目に焼き付いたようになりました。そしてすかさず洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは聖霊を注がれるということです。

イエス様を救い主と信じるだけでは不十分なのか?なぜ洗礼も必要なのか?という質問を時々受けます。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪者の一人がイエス様を救い主と告白して天に御国に迎え入れられた時、洗礼を受けていなかったではないか?と。こう考えたらどうでしょう?犯罪人の場合は息を引き取る寸前の告白で、それをしたらもう信仰から離れて生きる可能性もない位の最後の瞬間だった。しかし、イエス様を救い主と信じてまだ先が長い場合は聖霊に支えてもらわないとすぐ信仰から離れてしまう危険は高い。聖書を創造主の神の視点で読んだり聞いたりできるのも、聖餐を受ける時に主の臨在が最も身近になることも、全て聖霊の働きによるものです。人間の理性や感情だけではそこまで到達できません。人によっては聖霊を受けたにもかかわらず理性や感情を前面に立たせてしまった人もいます。でも、一度受けているので、何かのきっかけで信仰に戻れる可能性はいつでもあります。

さて、イエス様はパウロが今後すべきことについてアナニアに知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(115節)。神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませました。神の前に相応しい者になる律法主義の道を徹底的に歩ませて、イエス様が現れることで壁にぶつけさせて、そこから福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませるという導き方もされるのです!

4.律法の新しい役割

復活の主イエス様が現れたことがきっかけとなってパウロは、イエス様の十字架の死と死からの復活の意味がわかりました。それは、人間を罪と死の支配状態から解放するためになされたのであり、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで人間は神から罪の赦しを受けて神の目に相応しい者とされる、そして永遠の命に至る道を守りと導きのうちに歩むことが出来る、とわかりました。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになりました。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪の自覚を生んでも神の赦しは断固としてあるのです。もし罪に隙をつかれてしまって神の前の相応しさを失ってしまっても、神に赦しを祈りすぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しには変更がないと示してもらえます。神の前の相応しさも大丈夫と言っていただけます。面白いことに、このサイクルの中にいると、律法は私たちに罪があることを気づかせて私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持っています。また、このようにイエス様そして父なる神との結びつきが一層強くなっていけばいくほど、十戒に示された神の意志に沿うように生きようという心が育っていきます。その時、律法の掟は神の目に相応しい者になれるために守るものではなくなります。そうではなくなって、相応しい者にしてもらったので守るのが当然というものになります。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人になって洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。もちろん、パウロ自身やペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者は「ユダヤ・キリスト教徒」、異邦人から信仰者になる者は「異邦人キリスト教徒」と呼ばれます(後注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆「異邦人キリスト教徒」です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教に接して多神教を離れて天地創造の唯一神を信じるようになった女性が多くいましたが、彼女たちはこうしたパウロの教えを支持してキリスト信仰者になりました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ人キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消しました。

5.おわりに - 臨在し私たちに寄り添う主

以上、パウロが復活の主が現れたことをきっかけに、人間を神の目に相応しくするものは律法の厳守ではなく、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることであるとわかったことを見ました。特にパウロの場合、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を頂けるという立場でした。私たち異邦人にとって本当に「福音」です。

最後に、イエス様がパウロに述べた言葉の中で、私たちに励みになるものがあります。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(95節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞く時、聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在すると申しましたが、その臨在される方はただおられるというだけでなく、私たちの境遇や状況に重大な関心を寄せながらおられるのです。そのことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信が持てます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

後注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。