2014年6月9日月曜日

聖霊の働き (吉村博明)




スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年6月8日 聖霊降臨祭

ヨエル書3章1-5節
使徒言行録2章1-21節
ヨハネによる福音書7章37-39節

説教題 「聖霊の働き」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下ったのであります。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。クリスマスに、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちの救いのために神が人間となって来られたことを喜び祝います。復活祭には、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、十字架の上で御自分を犠牲の生け贄として捧げて死なれるも、三日後に父なるみ神の力によって復活させられて、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さったことを祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が約束されていた聖霊が、彼の昇天後に天のみ神のもとから送られたことを喜び祝います。聖霊は、ルターの小教理問答にもあるように、私たちがイエス・キリストの福音を読んだり聞いたりする時に、私たちの内に信仰を生み出す力を持つ方です。そして、私たちが神の御言葉に拠って立つ正しい信仰にとどまれるように私たちを日々守り導いて下さる方です。

 聖霊降臨祭は、またキリスト教会の誕生日と言われます。そのことは、先ほど朗読されました使徒言行録の2章を続けて読んでいきますとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証しを行い、神のもとに立ち返る生き方をするように勧めます。これらの言葉を聞いて心を突き刺された(237節)群衆は、すぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

それにしても、聖霊が使徒たちに注がれた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(3節)た、というのは、本当に不可思議な現象です。このことについては、かつて洗礼者ヨハネが、自分の後に来る救世主は聖霊と火によって洗礼を授ける、と預言していましたが(マタイ311節、ルカ316節)、その通りになったのであります。マラキ書3章では、将来到来する救世主のことを、金や銀から汚れを除去する精錬の火である、とたとえられています(23節)。聖霊を受けるというのは、罪の汚れた力を除去することが一緒になっているので、それで汚れを除去する炎を浴びせることと同じと見なされます。

ところで、私たちが洗礼を受ける時にも聖霊を授かりますが、その時私たちは、洗礼を受ける者が炎をあてられるような現象は普通目にしません。しかしながら、洗礼が授けられる時、私たち人間の目にはそう見えなくとも、父なるみ神の目からは、まさに炎で精錬をするようなことが起きていると見えるのでしょう。罪の汚れた力が焼き尽くされると見えるのでしょう。それでは、そうした神の目ではなく、私たち人間の目から見た場合、聖霊を授かった者にはどんな変化が起きたと見えるでしょうか?それについては、イエス様の次の言葉があります。

「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ38節)。

ここでは、風の作用と聖霊の働きが似ているということが言われています。(興味深いことに、ギリシャ語でもヘブライ語でも、風を意味する単語と霊を意味する単語は同じです。)私たちの目には空気は見えません。しかし、空気が移動して風となって、木々を吹き抜けていくと、枝がしなり、葉がざわめいて、ああ、風が吹いたんだな、と空気が移動したことがわかります。聖霊を授けられた人も同じで、それまではイエス・キリストとか天のみ神とか、口にもしなかったり考えもしなかった人がある日突然、考えたり話題にするようになる。また、それまではイエス・キリストと聞いても、世界史の授業や教科書から、ああ、そういう人物が歴史上存在していたんだな、と知識として知っていた人が、ある日突然、実はイエス様は自分の救い主だったのだ、とわかるようになる。そのようにして、イエス様が現代を生きる自分と直接関係のある存在になる。そういう時、その人に聖霊が働いたことがわかるのです。人間は誰も、聖霊が働くことなくしてはイエス様を自分の救い主とわかることはできないのです。聖霊が働かなければ、単なる知識に留まるのです。

さらに、「ヨハネの第一の手紙」4章で、何が天のみ神に由来する霊で何がそうではない霊であるかを判別する決め手になるかというと、それは、イエス様のことを正確に教えているかどうかにかかっている、と教えています。例えば、イエス様は、もともとは天の父なるみ神のもとにいて神と同質であったひとり子で、それが人間と同じ肉をまとってこの世に来た、この真理を公けに言い表す霊が神に由来する霊であります(2節)。

 以上のように、聖霊とは、私たちを罪の汚れから洗い清めてくれたり、神の意思やイエス様のことについて、正確な知識を与えて下さる方であります。本日の福音書の箇所では、こうした聖霊の働きについて、別の視点から教えていますので、それを見ていきたいと思います。
 
2.

 本日の福音書の箇所で、イエス様は、「生きた水」について語ります。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?何か不思議な水です。その意味を明らかにしましょう。

 まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、と言われる。つまり、イエス様が渇きを癒して下さるということです。「渇いている」と言うのは、霊的に何かを熱望しているということ、つまり救いを求めているということです。それでは、救いとは何かと言うと、端的に言えば、天の父なるみ神としっかり結びついて生きられるということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主としっかり結びついていることで、この世の人生の歩みで神から守りと良い導きを与えられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神のもとに永遠に戻ることができる、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がそうした霊的な熱望である救いを叶えてくれるということであります。救いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部自分一人で請け負って、十字架の上でその罰を全て受けて、人間の身代わりとなって死なれたのです。さらに、死から復活させられたことによって、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。こうして人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神からはイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを得られ、こうして神との結びつきを取り戻すことができるようになったのであります。

本日の福音書の箇所はまた、このようにしてイエス様によって渇きを癒され救いが叶えられた人は、今度はその人自身から「生きた水」の急流がほとばしるようになると言います。それでは、その「生きた水」とは何か?これについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(414節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのであります。そういうわけで、「生きた水」、「生きている水」というのは、人を「永遠の命に向かわせる水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」であります。

本日の福音書の箇所によれば、このイエス様が与える「生きた水」は、イエス様を救い主と信じる人たちに与えられる聖霊を意味するということでした。そこで、「生ける水」と聖霊を結びつけて考えると、イエス様の教えは次のように要約することができます。人がイエス様から「生ける水」を受けて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いを叶えられて、イエス様を救い主と信じるようになり、聖霊を受けることになる。すると今度は、聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊は、信じる者を霊的に潤しながら、渇きそうになったらすぐ癒してくれて、まるで信じる者を永遠の命まで押し流してくれる。以上がイエス様の教えの主旨です。まさに、イエス様を救い主と信じる者においては、聖霊は、その人の核心ないし要のようなものとなって、その人を内側から永遠の命という目標に向かわせようとする働きをしている、ということであります。それはそれで素晴らしいことではあります。しかし、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?どうもそうとも思えません。しかし、天の父なるみ神の目から見れば、一度聖霊を受け取って信仰を持って生きる者は、外面上はどんなことが起きても、聖霊を水源としてその人の内面から湧き出る水は、永遠の命を目指して絶えることなく流れていくのであります。そうしたことが、どうして可能なのか、以下に見てみましょう。

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 人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を授かっても、まだ肉を纏って生きています。そうである以上、実はまだ神への不従順と罪を内にもったままです。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか、キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体何なのか?そういう疑問を抱かれると思います。罪と不従順を相変らず抱えているのに何が決定的に変わったかというと、それは次のようなことです。人が父なるみ神の御前で、「はい、あなたの御ひとり子イエス様は私の罪を請け負って私が受けるべき罰を受けられて私の身代わりとなって死なれました。彼の身代わりの死の上に私の今の命があります。だから彼こそ真に私の救い主です。」こう信じて告白すれば、神はその人に、「よくぞ、私がイエスを用いて整えた救いを信じて受け入れてくれた。お前は罪びとだが、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦そう」と言って、その人を永遠の命に至る道に置いて下さります。そして、それからは神から良い導きと助けを得られながら、この世の人生を歩んでいくこととなります。罪というものを人間が神に対して抱えていた借金や負債のように考えると、神はそれを一方的に、イエスの犠牲に免じてなかったことにしてやる、と言って帳消しにして下さったのです。私たちの神に対する負債は、言わばイエス様の流した血が代償となって帳消しにされたのですから、私たちの新しい命はとても高い値がつけられているのです。

こうして、神と人間との結びつきが回復することになりました。罪と不従順は残っているにもかかわらず、罪を赦されて神との結びつきができた以上、罪にはもはや人間を最終的に牛耳る力はないのです。私たちを最終的に牛耳る方は、本来は私たちの造り主である神なのです。イエス様を救い主と信じることで、人間は罪の支配下から神の庇護下に戻させられるのです。

ここで、この世に働くいろいろな力とその背後にある悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは、堕罪の時からそうでした。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者をやっぱり救いようのない罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は、自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきた時は、ルターは次のように答えなさいと言っています。「そう、確かに私は罪びとだ。だが、まさにこのような私が神と結びつきを持てるようになるために、あの方は十字架の上で死なれたのだ。だからあの方は私の真の救い主であり、あの方を送られた神は私の愛すべき父なのだ。」これこそ、天の父なるみ神が私たちから一番聞きたい言葉なのです。

ところで、この世に働く力が、罪とは別の問題で、信仰者を惑わして神への疑念を抱かせることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。その時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などお前もさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

確かに、神としっかり結びついて生きるなどというと、順風満帆の人生が保証された感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についていると言うのですから。そうなれば、こわいものなしです。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども、不幸や苦難に陥ることにかけては、信仰者でない人たちとあまり大差はありません。それにもかかわらず、信仰者はどうして、苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それは、キリスト信仰者は、命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの後に来る天の御国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているという自覚があるからです。この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならない、とわかっているのです。イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死と死からの復活のおかげで大きな人生を歩めているとわかれば、神は苦難困難の時にも目を離さずに見守っていて下さるということが当たり前になるのです。そして、神は時宜にかなった助けを与え下さる、と心静かに忍耐して待てるようになるのです。

以上のように、イエス様を救い主と信じる信仰によって回復した神との結びつきは、信仰人生の途上で、小さくなったり弱まったり感じてしまうことがありますが、それは人間の目から見て勝手に感じられることであって、神の目から見れば何にもかわっていないのです。イエス様を自分の救い主と信じる信仰に立ち続ける限り、周りでどんなに嵐が吹き荒れようと、神との結びつきには何の変更もありません。人間は、目で見たこと耳で聞いたこと肌で感じたことが判断の元になりがちです。しかしながら、こと救いとか罪の赦しとか神との関係のような事柄に関しては、目や耳で捉えたり感じたりしたことを超える把握ができないといけません。しかし、それは人間の力ではできないことです。それを可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。最初にも申し上げましたように、知識として知っていた歴史上の人物のイエス・キリストが、突然今を生きる自分の人生をつかさどる救い主になったというのは、これは聖霊の働きによるのです。ところで聖霊は、聖書の御言葉と密着して私たちに働きかけますから、兄弟姉妹の皆さん、聖霊の働きかけをこれからもしっかり受けることが出来るために、聖書はしっかり読んでまいりましょう。

4.

 ルターは、イエス様の言葉「わたしはあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ1128節)の解き明しで、聖霊の働きを受けた者は重荷が軽くされるということを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。
「イエス様は、『わたしはあなたがたを休ませてあげよう』と言われた。これは、まさにあらゆるものの上に君臨する方が口にすることができる言葉である。いかなる天使も、この言葉で言われていることは自分には果たせないと認めざるを得ないであろう。人間は言うに及ばず、である。この言葉をもって、イエス様は、自分が罪も死も律法も義も命も至福も全てを支配していることを宣言しているのである。そのようなことが可能なのは、まさに神だけである。神は、我々の罪という重荷を、赦しを与えることで取り除いて下さる。さらに、我々の抱えるその他の労苦をも軽くして、我々に喜びと安心を与えて下さる。

我々の良心が罪のために苦しめられる時、神から罪の赦しを与えられて天の御国を継ぐ者にしていただいと告げ知らされること以上に、我々の魂が平安を得ることはない。さらに、神が我々に平安を与えて下さるのは、罪が我々を重苦しくしたり我々の心を引き裂こうとする時だけに限らない。神は、我々が陥る他のあらゆる苦難困難の時にも、我々の傍から離れるつもりはないと言われるのである。神は、飢饉の時も、戦争の時も、絶体絶命の時も、その他我々が直面するであろうありとあらゆる過酷な試練においても、我々を見捨てることはないと言われるのである。

罪が人間を天の御国と正反対の方向に沈めようとする力は、人間が背負う重荷の中で最も重いものである。もし神の御子イエス・キリストが聖霊の働きをもって助けて下さらなければ、誰もこの重荷から解放されることはない。聖霊は、イエス様が父なるみ神にお願いして私たちに送っていただいた方である。聖霊が我々に働く時、我々の心は喜びに溢れ、罪が我々の心を引き裂こうとした事柄はどうでもよいこととなり、また、神が我々にしなさいと言われることをしっかり行わなくてはという気持ちにしてくれるのである。」


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2014年6月2日月曜日

天の御国からこの世への働きかけ (吉村博明)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年6月1日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節
エフェソの信徒への手紙1章15-23節
ルカによる福音書24章44-53節

説教題 「天の御国からこの世への働きかけ」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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十字架の死から復活したイエス様が40日間、弟子たちをはじめとする大勢の人たちの前に姿を現した後で、天の父なるみ神のもとに上げられた。これがイエス様の昇天と言われる出来事です。私たちが用いる新共同訳の使徒言行録では、イエス様は弟子たちが見ている前で、みるみると天高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに理解できます(19節)。ところがギリシャ語の原文をよくみると、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという表現です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を下から支えるようにして一緒に上がっていった。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲の底だけで、その上にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを指します。各国の訳も今申し上げたことに沿っています。フィンランド語では、雲がイエス様を運び去って弟子たちの視野から消えた、という訳です。スウェーデン語の訳は、雲がイエス様を取ったので視野から消えた、です。ルター版のドイツ語訳も、雲がイエス様を拾い上げるように弟子たちの目の前から運び去った、という表現です。英語訳のNIVを見ると、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて、雲が隠してしまった、という訳です。雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていないので、上げられ始めた段階で雲が出現したのでしょう。新共同訳では、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず、スーパーマンのように空高く天に上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような理解が生まれてしまいます。正確な訳とは言えません。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、イエス様を下から支えるように運び去ったのが通常の雲であるにせよ、雲と表現されるような現象であったにせよ、昇天とは真に奇想天外な出来事です。ただ、大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画に出てくるようなSFX特殊視覚効果技術による撮影を現実のものと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、最近のキリスト教徒も、同じように考える人が多いかもしれません。

天に上げられたイエス様は今、天のみ国の父なるみ神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられますが、それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われているような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるのでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるのでしょうか?

ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは、人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり、重さを量ったり、計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして築かれるものです。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関わりを持っています。天の御国も、この確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てで、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主などは存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも全く考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理的現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人も、亡くなった人が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それは亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の心の有り様だと言うでしょう。

信仰に生きる者にとっては、人間を含めてこの現実の世界にあるもの全て、現実の世界そのものは全て創造主に造られたものになります。それで、自然界や人間界に起きることには、神の意思が働いていると考えます。もし起きた出来事が大災害のように大きな不幸をもたらす場合、神の意思は人間の思いと理解をあまりにも超えすぎてとてもついて行けない、ということが起こります。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国の二つにまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発や疑いは静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、また、人間が今の現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を形作れるようになるために、まさにそのために父なるみ神は御子イエス様を私たちに送って下さったのだ、このことを思い返す時、神を愛し慕う心も戻ってきます。

 イエス様の昇天の出来事とは、まさに、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするという、神の意思が働いている出来事なのです。以下、このことを見てまいりましょう。

2.

イエス様が天に上げられなければならなかったのは、一つの理由として、死から復活したイエス様は復活の体を持っており、それは神の栄光を体現する神聖な体でもあるので、存在するには、この罪深い世よりも、神のいる天の御国のほうが相応しいと言えます。復活の体の神聖さについては、復活祭の礼拝の説教でもお教えしたことですので、ここでは振り返らずに先に進みましょう。

 ここで少し脱線しますが、神のいる天の御国が存在するのに相応しい場所だったら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、40日間も留まっていたのか、と疑問を抱かれるかもしれません。この短い期間の地上の滞在には重要な意味があります。まず、この期間にイエス様は弟子たちに、十字架の死と復活の出来事をもって旧約聖書の預言が実現したということ、旧約聖書はそもそも自分について予告する書物であることを明らかにしました。本日の福音書の箇所であるルカ2545節「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、これをギリシャ語原文に密着して理解すると、「イエス様は、弟子たちが旧約聖書をこのように理解できるようにと、彼らの理解力を曇らせていたものを取り除いた」という意味です。イエス様の十字架の死と復活がなかったならば、誰も旧約聖書の意味も目的もわからなかったでしょう。それが、死も復活も両方行った方が、まさに身をもって、旧約聖書の意味と目的を明らかにしたのです。

イエス様が地上に留まることは、また、大勢の人たちに復活というものがあるということをわからせる意味がありました。「コリントの信徒への第一の手紙」の中で使徒パウロは、どれくらいの人たちが復活した主を目撃したかを記しています。直近の弟子たちの次には、500人以上の人たちの前に現れた、そのうちの大部分は今なお生き残っている、と述べています(156節)。つまり、目撃者の多くはまだ生き残っているのだから、疑う者は彼らのところに行って直に聞くがよい、ということであります。もし、復活したイエス様が即、天に上げられてしまっていたら、弟子たちは旧約聖書の意味も目的もわからないままで、復活はあると言ってもなかなか信じられなかったでしょう。

 こうして、弟子たちに旧約聖書の意味と目的を理解させ、大勢の人に復活があることをわからせた後で、イエス様は復活した者に相応しい場所である天のみ神のもとへ上げられました。イエス様の昇天から10日して、今度は彼が送ると約束されていた聖霊が天から地上に送られることになります。これが聖霊降臨と呼ばれるもので、次主日は世界中のキリスト教会でこのことがお祝いされます。

さて、イエス様が天に上げられた理由を考える時、一つにはそれが復活の体を持つ者にとって相応しい場所だからだと申し上げました。それだけではありません。イエス様が天に上げられることで、人間の歴史は新しい局面を迎えることとなったのです。イエス様の昇天とは、実は、人間の歴史にとって一つの大きな分水嶺なのです。どういうことかと言うと、天に上げられる前の人間の歴史とは大体次のようなものでした。堕罪の時に壊れてしまっていた神と人間の結びつきを神が回復しようとして、相応しい時が来るまで歴史を進めさせ、その都度その都度、自分の意思と計画を人間に知らしめた。この知らしめたことが旧約聖書になりました。やがて相応しい時が来た時、神はひとり子をこの世に送って、彼を用いて神と人間の結びつきを回復させる可能性を打ち立てた。それは、人間と神の結びつきを壊していた原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪の罰を全部彼に受けさせて、彼を十字架の上で死なせて、彼の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたということです。神から罪の赦しを受けた人間は神との結びつきを回復することとなります。神との結びつきを回復した人間は、天の御国に至る道に置かれてその道を歩むようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを得られて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって引き上げられて、神のもとに永遠に戻れるようになります。このように、神は、イエス様を用いて人間の救いを準備完了にしたのであります。あとは人間の方がそれを受け取ればよい、という状態にしたのであります。この状態をもたらしたところまでが、イエス様の昇天までの人間の歴史でした。

イエス様の昇天後は、今度はこの神の準備した救いを人間が実際に受け取っていく時代となりました。ここでは、イエス様はこの現実の世界から天の御国に移られてしまったのですが、かわりに天の御国から聖霊が送られて、この聖霊を洗礼を通して注がれた者たちが重要な役割を担うようになりました。彼らの働きを通して、多くの人たちがイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けて、神の準備した救いを受け取っていくこととなったのです。救いを受け取った者たちが、今度は他の人たちが救いを受け取ることができるように働いていくことになりますが、この時、無理解や反対にも多く遭遇します。ひどい時には迫害も起こります。しかし、多くのキリスト信仰者たちは、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいることを思い出して、迫害の最中にあっても、また現実の世界の最後の瞬間にも神への感謝と賛美を絶やさなかったのであります。

この信仰者の働きの時代は、イエス様が再び来ると約束された再臨の日まで続きます。イザヤ書6517節や6622節(601920節も)それに黙示録211節に、神は終わりの日に今ある天と地に変わって新しい天と地を造られると預言されています。これは、今のこの現実の世界が崩れ去って、天の御国が目に見える形で現れる日です。その時にイエス様が再臨されるのです。

3.

そういうわけで、イエス様の昇天から再臨までの間の時代を生きる私たちは、信仰者の働きの時代を生きているのです。その時代の始まりの部分は、新約聖書の使徒言行録によく描かれています。実に私たちは、使徒言行録の続編の時代を生きているのです。無理解や反対や迫害に遭遇しても、イエス様を救い主と信じて大きな命と人生を獲得する人たちは増えていきました。しかし、信仰者の群れが躍進しようが停滞ないしは沈滞しようが、無理解、反対、迫害は決してなくなることがありません。どうして、イエス様の福音に対して無理解、反対、迫害が生じてくるのでしょうか?

それは、この現実の世界の中には、どうしても、人間がこの現実の世界の命と人生しか持てないようにしてやろうという力が堕罪の時から働いているのです。大きな人生など持てないようにしてやろう、とか、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろう、とか、そのようにして人間が自分の造り主である神と結びつきが持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているからなのです。この力は、堕罪の時からずっと今もこれからも、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされるまでは働き続けるのです。しかし、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいる者にとっては、絶えず天のみ神からの助けと良い導きを得られるので、心配は無用です。悪い力は、神との結びつきを壊そうとして私たちの人生を引っ掻き回そうとするでしょうが、引っ掻き回せるのはせいぜいこの現実の世界の人生だけです。イエス様を救い主と信じる限り、大きな人生そのものには何の影響も害もありません。

 最後に、キリスト信仰者の人生には悪魔の引っ掻き回しはつきものであるが、信仰者はその引っ掻き回しを受けても大丈夫なくらい強い守りの中にいるということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。それは、マタイ1127節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

「『全てのもの』とは文字通りに全てのものである。全てのものが、我々の主イエス・キリストの手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。何ものも、このことの例外になりえないのである。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、キリストの御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我々に真の知識と真の光が与えられる。もし、キリストが全てのものを手中に収め、また父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自身述べているように(ヨハネ102829節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ないのである。確かに悪魔は、機会を見つけては、キリスト信仰者をありとあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと悪魔は仕向けてくるであろう。しかし、悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、我々には、悪魔をも足蹴にしている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我々を真にお守り下さる方なのだ。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも身の毛がよだつ恐ろしいことだ。だからこそ、君は祈らなければならないのだ。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならないのだ。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。キリストは、必ず君を苦境から救って下さる。そうである以上、君の方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン