2018年1月10日水曜日

自分を見つめる座標軸 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2018年1月7日(顕現主日)スオミ教会

イザヤ書60章1-6節
エフェソの信徒への手紙3章1-12節
マタイによる福音書2章1-12節

説教題「自分を見つめる座標軸」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したり自然の猛威を静めたりするなどの数々の奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人のなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって聖書は信仰の書でも神の言葉でもなく、古代オリエント世界の人たちの考えや文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象は信じないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人もいます。イエス・キリストは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、だからその通じるものに注目して(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家、イデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエス・キリストも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。そうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になります。

 本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べます。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていこうと思います。このことは、実は2年前の当教会の説教でも申し上げました。お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、駆け足でおさらいをしておきます。その次に第二の教えとして、聖書に書いてある出来事が80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問にどう答えたらよいかを見ていこうと思います。2年前の説教では、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性とは別のところにある、ということを申し上げました。本日の説教でも同じ答えですが、今回は別の角度から見ていこうと思います。そういうわけで本日の説教は二部構成です。

2.

本日の福音書の箇所に記された出来事の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。出来事の中でも特に不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、本説教はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があって、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、本日の福音書の箇所に続くマタイ21323節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられていました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは、旧約聖書のエステル記から伺えます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所は囁いていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで、本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もいくつかあります。一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきます。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみるということです。

確認できることはとても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもってしても確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないのだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記116節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

(ここで、ひとつ余計なことを述べますが、歴史的信ぴょう性ということについて、キリスト教は他の宗教にない負荷を負っていると思います。他の宗教では、教典に書かれていること、創始者の言ったこと行ったことの記述の歴史的信ぴょう性が果たしてキリスト教のようにうるさく問われているでしょうか?皆さん、案外、何の疑問もなくその通りだと素直に信じているのではないでしょうか?キリスト教神学の特に聖書の成立を扱う分野などは、「このイエスの言葉は、実は本人が言ったものではなく、初代のキリスト教徒の考えをイエスが言ったものにして書いた」などという批判的な研究がごまんとあります。もちろん、そういう結論に対する反論もあるのですが、同じような批判的な研究手法を用いて他の宗教の教典を分析したら、どんなことになるでしょうか?)

3.

以上、本日の福音書の箇所の記述は、現時点で確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになりました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人は、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを自分の目で見て確認できない限りは信じないと言っているのと同じです。ところが、キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 そこでまず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから弟子たちとしては伝道を続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分にも関わっていたのだ、あの出来事は神がこの私のためにイエス様を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?皆さんはどのようにしてそうできたか覚えていらっしゃいますか?

 イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分というものを見つめる時に神との関係においてそうするということです。ご存知のように、聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

自分には造り主がいると認めると、造り主は自分に何か考えや目的を託してこの世に送り出したのだ、ということもわかってきます。まさに、この世を生きることには意味があるということが、自分を造り主との関係に置くことでわかってくるのです。

しかしながら、造り主の神は自分にどんな考え、何の目的をもって自分を造ってこの世に送り出したのか、その考え、目的ははっきりわかりません。仮に、自分は自分の持てる能力を駆使して何か大きな事業を起こして名声と財産を得よう、それこそが神が自分を造った目的だと考えて、それを目指すとします。もし、それが達成できたら、自分は神が託した目的を果たしたと考えることになるでしょう。しかし、もし達成できなかったり失敗したりしたら神の目的を果たせなかったということになってしまいますが、果たしてそう言ってよいでしょうか?また仮に成功しても、それが神の意思に反する仕方で行われたものなら、たとえ成功しても神の目的を果たしたと言えるでしょうか?

神の意思というのは、十戒に凝縮した形であります。もし成功や達成が、父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、事実に反することを言ったり行ったりしたり、妬みや嫉妬を原動力にして獲得されたものならば、それは神の目的とは言えません。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り、人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、こんな掟があるから宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えていますが、その根拠として「復讐は神のすることである」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に仕返しの権利を全部神に譲り渡すということなのです。そんな丸腰では危ないではないか、やられたのにやり返さなかったら相手の言いなりではないかと言われるでしょう。しかしパウロはただ、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つということは、神の正義と人間の正義の緊張関係の中に置かれて、もがかなければならないことを意味します。

さて、造り主である神が自分にどんな目的を託しているのかという問題に戻ります。以上のような神の意思というものを考えると、人間が何かを成し遂げる、その「何か」そのものに神の目的があるのではなく、むしろ、「どのように」成し遂げるか、というところに注意しなければなりません。神の意思に注意しながら「どのように」ということを考えていくと、成し遂げる「何か」も見えてくるのではないかと思います。特に自分が置かれた境遇や状況をよく見て、またそれまで歩んだ道や経験を踏まえて、神の意思に注意していけば何をすべきかは自ずと方向性が決まってくるのではないかと思います。神は拠り頼む者の祈りを必ず聞き遂げて下さるというのが聖書の立場です。神との関係において自分を見つめ捉え直そうとする人の祈りを、神は必ず聞き遂げて、道を示して下さる筈です。

 造り主との関係において自分を見つめるようになると、神の前に立たされた時、自分は神に相応しくない者であることに気づくことも起きてきます。というのは、神は罪を忌み嫌う神聖な方であり、人間の罪を汚れとみなし、それを焼き尽くさずにはいられない方だからです。自分は完璧で、神の前に立たされても何も問題はない、神と対等にやっていける、などという人間はいません。自分は神の意思に沿えない者だと気づかされると、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなってしまうと、自分を見つめたり捉えることを造り主との関係に置かないで、別のものに置いてするようになってしまいます。

まさにそのような時に、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を送られたのかを思い返します。神聖な神のひとり子が人間の罪を自ら被って人間のかわりに神罰を受けて死なれた、そのかわりに彼を救い主と信じて受け入れる者に彼の神聖さを被せて下さった、それでイエス様を信じる者は神の前に立たされても大丈夫とされ、後ろめたさや恐れを拭い去ることができるのです。本日の使徒書であるエフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べます。これを少し注釈しながら言い換えますと、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついているのであり、その信仰を通して、神の前に立たされても大丈夫という確信がある、それで、神の前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。そのようにしてもらった以上は、これからは神に背を向けるのではなく、逆に、被せてもらった神聖さに恥じない生き方をしよう、それを汚さないようにしよう、という心になります。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、造り主である神との関係の中に自分を置くことは、まさに自分を見つめる座標軸です。今年もその座標軸をしっかり持って歩みましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン