2017年8月14日月曜日

イエス様の弟子の役割(吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年7月9日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

出エジプト記19章1節-8a6節
ローマの信徒への手紙5章12節-15節
マタイによる福音書9章35節-10章15節

説教題 「イエス様の弟子の役割」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 キリスト信仰者というのは、イエス様の弟子であるとよく言われます。弟子である以上は、先生であるイエス様の教えをよく聞いて、それを守らなければなりません。最初に、イエス様の教えをよく聞いて守るということはどういうことかについて、少し考えてみたいと思います。

 二、三年前のことでしたか、キリスト教の別の教派の方からメールを頂きまして、なんでもスオミ教会のホームページを見て、お宅の教会は「新しく生まれ変わる」ことが出来ていないのでは、などと批判的なコメントを受けたことがあります。「新しく生まれ変わる」ということについて、その教派にはきっと自分たちの考え方があるのだろう、それで議論してもかみ合わないだろうと思い、他のコメントにはお答えしたのですが、それについては触れませんでした。それ以後はその方からはメールは頂いていません。

 「新しく生まれ変わる」ということについて、私はすぐヨハネ福音書3章にあるイエス様の言葉を思い出します。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。これらの言葉を総合すれば、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けて神から聖霊を頂ければ、新たに生まれ変わることが起きる、ということは明らかです。人間は、信仰と洗礼によって新しく生まれ変わって神の国に迎え入れられて永遠の命を得ることができる、ということです。

ところが、聖書にはそれでは不十分だと思わせるような教えもあります。「ヤコブの手紙」2章を見ますと、行いが伴わない信仰は役に立たない、死んでいる、と繰り返し言っていて、24節などは「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とまで言っています。これはパウロが、人間は信仰によって義とされる、つまり神の目に適う者とされる、と強調したのと真っ向から対立しているように見えます。こうしたパウロの考え方は「ローマの信徒への手紙」1章から5章にかけてよく表れています。

ただ、ここで注意しなければならないのは、パウロはイエス様を救い主と信じたら、それで全てが解決したとは言いません。もちろん、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から罪の赦しを頂くことができるようになり、最後の審判の時に神の罰を受けないで済むようになったという意味では全ては解決しています。もう、救いを得ているからです。問題は、こうした永遠の安心を神から与えてもらった以上は、この世を生きる際にはその神の御心に沿うように生きていこうと志向するようになるかどうか、ということです。ローマ121節でパウロは信徒たちに向かって「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい」と勧めます。生け贄などとは、ちょっとギョッとさせる表現です。どういうことかと言うと、続く2節を見ればわかります。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって、それで神の罪の赦しの中で生きられるようになったら、あとは何が神の御心か、何が神に喜ばれる善いことで完全なことかよく見極めながら生きていきなさい、たとえ罪に満ちた世の中の考えと相いれないものであっても、そうしなさい、ということです。それが神に喜ばれる聖なる生けにえになるということです。

またガラテア56節でパウロは、「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きるならば、モーセ律法の掟の一つである割礼を受けるか受けないかは意味を持たない。持つのは、「愛の実践を伴う信仰」である、と。この最後の部分はギリシャ語原文を忠実に訳すと「愛を通して働く(作動する)信仰」です(注意!日本語訳はενεργομενηαγαπηςにかけているような訳ですが、かかっているのはあくまでπιστιςです!)。つまり、ここのポイントは、イエス様を救い主と信じる信仰というのは、本質上、働きが伴うものなのだ、ということです。どうして信仰には本質上、働きが伴うのか、と言うと、前にも申しましたが、罪の赦しの中で生きられる、最後の審判の日に神の裁きを免れる、ということから永遠の安心感を持てて、そこから神の御心に適う生き方をしようという心意気になるからです。そこで、神の御心に適う生き方とは何かと言えば、それは、イエス様流に要約すれば、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということです。

こういうふうに見て行けば、ヤコブが、行いが伴わない信仰は役に立たない、とか、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない、などと言ったことも、実はパウロと正反対のことを言っているのではないことがわかります。二人とも、信仰とは心意気を生み出すものだ、心意気を生み出さない信仰は信仰ではない、ということでは同じです。ヤコブの場合は、手紙の受け手側の教会の中で、心意気を生み出さないような信じ方が蔓延していたのでしょう。逆にパウロの場合は、ほとんどいつもそうなのですが、神から罪の赦しを頂けるために人間は何かしなければならないという考え方と対決しなければなりませんでした。そんな考え方は、せっかくイエス様が自分の命を犠牲にして人間の罪を十字架の上で償って下さったのに、それを無意味なものにしてしまいます。このように、基本的には同じ立場に立っていても、教える相手の状況に応じて言い方が異なるということはよくあることです。

宗教改革のルターの言い方はパウロに倣っています。それは宗教改革の状況がパウロにそうさせたからですが、ルターにしてもパウロ同様、人間の善い業というのは、神から救いを頂くためにするというような救いの条件としてするのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで罪の赦しの中で生きられるようになった結果、まさに救われた結果、実のように育ってくるものでした。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。イエス様を救い主と信じる信仰に生き始めて救われた者となったら、その人は100%神の御心に沿って生きるようになるのか、善い業しか行わない完璧な善人になるのか、というとそういうことではありません。ルターは、完璧なキリスト信仰者などこの世にいない、みんな初心者のようなもので、完璧に向かうプロセスにあるのだ、しかも完璧になるのはこの世から死んで肉体が滅びる時だ、などと言っています。その完璧に向かうプロセスには何があるかと言うと、それは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と、肉体と一緒に以前から存在して罪に結びつく「古い人」との内的な戦いです。この戦いは、先ほどのパウロの勧め「この世ではなく神の御心に倣うようにして自分を聖なる生けにえとせよ」、これを実践しようとすると必ず激しさを増します。しかし、信仰者には、罪と死を十字架の上で滅ぼした永遠の勝利者イエス様がいつもついていて下さるので、たとえ苦戦を強いられても、必ず勝つ戦いを戦っているというわけです。

ここで冒頭に提起した「新しく生まれ変わる」ということについて申し上げると、それは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら、もう100%神の御心に沿って生きるようになるとか、善い業しか行わない完璧な善人になるとか、そういうプロセスの終点に到達することではありません。そうではなくて、そのプロセスに参入すること自体が実は「新しく生まれ変わる」ことであり、そこから離脱することなく内なる戦いを戦い続けることが新しく生まれ変わった命を生きることになるということです。このようにして生きるキリスト信仰者は、まさにイエス様が十字架の上で成し遂げたことを生きる根拠にして、自分や周囲の者をイエス様の教えと神の御心に沿うようにしようとしているので、これは正真正銘の弟子です。

2.

本日の福音書の箇所でイエス様は、多くの弟子たちの中から12人を選びました。この12人は「弟子」という言葉ではなく「使徒」という言葉で言い表わされます。ギリシャ語でも別々の言葉です。「使徒」アポストロスというのは、ギリシャ語の「送り出す、派遣する」という動詞アポステッローから来ています。本日の箇所は、イエス様がこの12人を派遣する場面です。12という数字は、ユダヤ民族を構成するヤコブの12支族から来ている象徴的な数です。そこで本日の箇所で興味深いのは、イエス様は派遣先をユダヤ民族に限っていることです。ユダヤ民族以外の民族、つまり異邦人たちのところには行ってはならない、と言うのです。何故でしょうか?皆様もご存知のように、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後まもなくして、キリスト信仰の伝道は急速に周辺民族に及んで行きました。本日の箇所でイエス様が行ってはならないと名指ししたサマリア民族などは、いち早くキリスト信仰を受け入れた民族です。どうして、この時のイエス様は異邦人伝道を禁じたのでしょうか?このことを見てみましょう。

鍵になるのは、イエス様が12人に託した役割の中に「天の御国は近づいた」ということを宣べ伝えることです(7)。「天の御国」または「天国」とは、マタイ以外の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイの場合は、「神」という言葉は畏れ多いので「天」に言い換えることがほとんどです。そういうわけで「天の御国」、「天国」、「神の国」はみな同じものを指しますが、ここで特に日本人が注意しなければならないことがあります。それは、聖書の「天国」というのは、黙示録や「ヘブライ人への手紙」などから明らかなように、将来、今ある天と地が終わりを告げて神が新しい天と地を創造する時に現れてくるものであるということです。その時、イエス様が再臨し、死者の復活が起こって、イエス様を裁き主とする最後の審判が行われ誰がそこに迎え入れられて誰が入れられないかということが決められるということです。なぜ日本人が注意しなければならないかというと、人間は死んだらどこに行くかということについて、仏教や神道にはちゃんと教えがあると思うのですが、一般の人たちは死んだらすぐ天国に行って、そこから地上にいる友だちを見守ってくれていると思っている人が多いからです。聖書の「天国」は世の終わりに現れて、死から復活させられた者が再会しあうところです。

そう言うと、なるほど天国は世の終わりに現れるのか、それなら、その時までは亡くなった人はどこにいるのか、という質問がおきるでしょう。ルターによれば、復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っている、ということになります。そう言うと、あれっ、カトリックでは聖人というものがあって、もう天国にいる人がいるんじゃなかったっけ、という質問もおきるかもしれません。確かに聖書をよく読むと、エノクやエリヤのようにこの地上から直接神の御許に引き上げられた者がいるので、既に今の段階で天国には神と天使以外にも誰かいるということになります。しかし、それが誰かは私たち人間にはわからないのです。実はルターも聖人の存在を否定はしませんでした。ただ、彼の立場ははっきりしていて、聖人は崇拝の対象ではない、それはあくまで父、御子、御霊の三位一体の神である、ということです。

さて、イエス様が活動を開始した時のメッセージは「悔い改めよ、神の国は近づいた」でした。「神の国」が近づいたことを告げ知らせるのと同時に、イエス様は無数の奇跡の業を行いました。不治の病を治し、悪霊を追い出し、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満たし、自然の猛威を静めたりしました。神の国とは、黙示録を繙くまでもなく、悩みも嘆きも苦しみも死もない至福の国です。神が全ての涙を拭って下さるという、この世での無念が最終的に全て晴らされる国です。本当に天国です。実は、イエス様が起こった奇跡というのは、神の国がどんなところであるかを人々に垣間見せるものでした。病気も飢えも危険もない国。つまり、この世では奇跡なのが奇跡ではなく、当たり前になっている国です。イエス様が12人を派遣した時に奇跡を行える力を与えたというのは、イエス様がしたのと同じように神の国の実在を示すためのものでした。それで、神の国の実在を示す相手が最初ユダヤ民族に限られたことも理解できます。旧約聖書に新しい天と地の創造について預言されているからです。そういうことを全く知らない異民族に奇跡を見せたら、どうなったでしょうか?ギリシャ神話の神々のリストを増やすことになっていたでしょう。実際、癒しの奇跡を行ったパウロは寸でのところでギリシャ神話の神に祭り上げられるところでした。

イエス様の十字架の死は、人間の罪を人間に代わって償うという身代わりの犠牲でした。創世記に記されているように、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は神の国から出て行かなければならなくなりました。しかし、神は、人間が再び神の国に入れるようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送って彼に人間の罪の罰を全部受けさせて、それをもって人間の罪を赦すこととしたのです。このように神がひとり子イエス様を用いて完成した罪の赦し、これを受け入れた者は、文字通り罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に至る道に置かれて、それを歩むようになるのです。

こうして、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって、人間が神の国に迎え入れられる可能性が開かれました。これが福音です。奇跡の業を行って神の国の実在性を示すよりも、福音を伝えることの方が人々を神の国に至る道に導く手段として主流になっていきました。まさに十字架と復活の出来事を待って異邦人への伝道が解禁されたというのはよく理解できます。もちろん使徒言行録の時代やその後の時代にもいろいろな奇跡が行われましたし、現代でも行われていると聞きます。しかし、仮に奇跡を起こせなくても、がっかりする必要はありません。福音があり、イエス様を救い主と信じているならば、その人の神の国への迎え入れは確固として揺るがないからです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、イエス様の弟子でもあるキリスト信仰者にとって、まだ神の国に至る道に入っていない人たちを福音を持って導いてあげること、そして既にその道にある兄弟姉妹たちがしっかり歩めるように福音を持って支えてあげること、これらは大切な役割であるということを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン