2017年6月26日月曜日

嵐が来ても大丈夫な家のように (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年6月25日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

申命記11章18-28節
ローマの信徒への手紙1章8-17節
マタイによる福音書7章15-29節

説教題 「嵐が来ても大丈夫な家のように」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.                      

 マタイ福音書の5章から7章にわたるイエス様の長い説教は山の上で群衆に向かって行ったことから「山上の説教」と呼ばれています。それは、本日の箇所の終りのところにある「岩の上に家を建てた人と砂の上に建てた人」のたとえで終わります。そこでイエス様は、私たちをドキリとさせることを言われます。「私のこれらすべての教えの言葉を聞き、かつ実行する者は、岩の上に家を建てた賢い人と同じである。しかし、聞いても実行しない者は、砂の上に家を建てた愚かな人と同じである」。イエス様の言葉を聞くだけでは足りない。それを実行しないと砂の上に建てた家のように嵐が来たら倒壊してしまう。

イエス様の教えを聞いて実行する人は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人と同じで、実行しない人は大丈夫でない家を建ててしまう人と同じ、というのですが、それでは、嵐が来て家が大丈夫だったとか大丈夫でなかったというのは何を意味するのでしょうか?本日の箇所の721節を見ますと、イエス様は次のことを言われます。イエス様のことを「主よ、主よ」と言って敬って来る人みんなが天の国つまり天国に入れるわけではない。ここで注釈すると、聖書では「天の国」「天国」は「神の国」とも呼ばれます。みな同じものを意味します。つまりイエス様は、天の父なるみ神の意思を行う者が神の国に入れるのだ、と言われるのです。神の意思を行うというのは、その神のひとり子であるイエス様の教えを行うということです。このような人たちが、死を超えた永遠の命に与ることができて天の国、神の国に迎え入れられる、というのです。ということは、嵐が来ても大丈夫な家を建てた人というのは、永遠の命に与って神の国に迎え入れられる人を意味します。そうすると、嵐に遭っても家が大丈夫だったというのは、死の力が襲いかかってきても永遠の命がそれを跳ね除けたということを象徴しています。逆に、嵐に遭って家が倒壊してしまったというのは、死の力に襲われてそのなすがままとなって残骸しか残らないことを象徴しています。

そこで、私たちをドキリとさせることというのは、イエス様の言葉を聞くだけでは足りない、それを実行しないと救いに与れないということです。どうしてそれがドキリとさせるかと言うと、ご存じのように、ルター派の信仰は、イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちの罪の汚れが洗い落されて神の目に相応しい者とされるということを強調します。つまり、「信仰によって」というのがポイントです。神の目に相応しい者にされるというのは、難しい言葉を使うと、「神の義」を持てるようになるということです。信仰によって神から義と認められるということで、信仰義認と呼ばれます。人間は、律法の掟に命じられていることを守ることで神の目に相応しいと認められるのではない、また善い行いを積み重ねて相応しいと認められるのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって神の目に相応しいと認められる、ということです。そうすると、本日の箇所でイエス様は御自分の教えや神の意思の実行を強調しているので、これはもう信仰義認ではなく、律法主義や善行義認なのでしょうか?まず、この問題を考えてみましょう。

2.

 イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに迫る事柄についてですが、ルターによれば、そういったものはまずイエス様を救い主と信じる信仰に入って神の目に相応しいとされた後に関係してくることである、と教えます。つまり、神の目に相応しいとされる前の段階にいて相応しい者にされようと行うものではない、ということです。本日の福音書の箇所の少し前に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」という教えがあります(12節)。それについてルターは、次のように教えます。

「これは、まことに奇妙な教えだ。神は我々に、御自分ではなく隣人に仕えることの方が大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分に関わることでは、我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人に関わることでは、もし我々が隣人に悪く立ち振る舞うなら、神はもう我々と平和な関係にいることを止めて罪の赦しを全て却下されると言われるのだ。
 実は、この『量る、量られる』というのは、我々が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った後に起こることで、信仰に入る前のことではない。君が(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った時のことを思い出すがよい。神は君のことを何か業績にもとづいて受け入れたのではなかった。神は一方的に御自分の恵みによって君を受け入れて下さったのだ。(イエス様を救い主と信じる)信仰に入った君に神は今、次のように言う。『私がお前にしたように、お前も他の人たちにせよ。もししないのならば、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げ何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ何も与えないことにする。』
信仰に入った後の『量ること、量られること』は、まさにこのように起こる。神は、我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与えられる。だから、もし我々が隣人に善いことをしなければ、神も我々にお与えになった善いことを却下される。この時、我々は、自分たちに信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。」

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、私たちは神から計り知れない恵みをいただいたのだから、それがわかるならば、そのような計り知れない善いことをして下さった方を心から愛して、その方の言われることには従うのが当然だという心になるのではないか。またその頂いたものの莫大さを思えば、隣人に出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが取るに足らないものになるのではないか、ということです。私たち人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を全部引き受けて十字架の上までそれを運び、そこで私たちの代わりに罰を受けて死なれた。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、私たちは神から罪の赦しを得られて神の子とされて、死を超える永遠の命に至る道に置かれた。このようにして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いを全部整えて下さいました。私たちはイエス様を救い主と信じ洗礼を受けることでこの救いを受け取ることができるのです。そうであるがゆえに、キリスト信仰者にとって善い行いとは、もはや救いを勝ち取るための行うものではなくなりました。救われたことの結果、感謝の念から自然に生じてくる実のようでなければならないのです。

そう言うと、イエス様を救い主として信じることから、そんなに簡単に善行が生まれてくるのか、と疑う向きもでてくるかもしれません。実は、そんな時こそ、救いを受け取ったことがどんなに大きな意味を持つか、一度立ち止まって吟味する必要があります。それがわかるために、マタイ18章にある「仲間を赦さない家来」についてのイエス様のたとえは一ついい材料になります。

それをちょっと見てみますと、ある王の家来が王に1万タラントンの借金があることが判明する。大ざっぱに計算すると大体4800億円位の額です。王は家来に全財産と家族を売り払って返済せよと命じますが、家来が泣き伏して憐れみを乞うのを見て、王はなんと借金を帳消しにしてしまう。ところが、この家来が自分に100デナリオンの借金がある仲間に出会うとこれに返済を要求する。単純に計算して大体80万円位です。この仲間が憐れみを乞うても赦そうとせず、牢屋に入れてしまいます。自分は泣きついて4800億円の借金を帳消しにしてもらったのに、泣きつかれた80万円は赦すことが出来ない。この額差ですが、2000年間のインフレ率を加算するともっと天文学的な数字になるでしょう。いずれにしても、この家来は結局、報告を受けた王の怒りを招いてしまい牢に入れられてしまいます。そういう話です。

このたとえでイエス様が教えたかったことは、これだけの多額の借金を帳消しにしてもらったら、普通なら感謝の気持ちで一杯になり、他人が自分に有している負債など全く取るに足らないものになってしまうのが当たり前だということです。キリスト信仰者というのは、そのような帳消しを受けているというのです。しかも、私たちが受けた帳消しというのは、金銭で計れるものではありません。永遠の炎に焼かれる罪の罰が赦されて、死を超えた永遠の命を持てるようになったということが、私たちの受けた帳消しです。そのために支払われた代価は、神聖な神のひとり子が十字架の上で流した尊い血でした。このことがわかれば、感謝の気持ちで、他人が自分にどんな負債があろうが、また自分に気に食わないことを言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもない恵みを自分に示して下さった神を全身全霊で愛することが当然と思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」もそうするのが当然となります。

3.

以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と教える時は必ず、「お前は、私が十字架の死と死からの復活をもって整えた救いを受け取ったことを忘れるな」という注意喚起が伴っているとしっかり覚えておかなければなりません。そうすると、イエス様が「山上の説教」を行った時に教えを聞いた人たちはかなりショックを受けたのではないかと思います。というのも、その時はまだイエス様の十字架や復活の出来事が起きていないので、神が整えて下さる救いというものが何もなかったからです。もちろん、その救いについては旧約聖書の中で前もって預言されてはいましたが、誰もそれを正しく理解できていませんでした。多くの人たちにとって、旧約聖書の中で預言されている救いとは、ユダヤ民族が異民族の支配から解放されるという理解が支配的でした。本当は旧約聖書の中で預言されている救いとは、全人類が罪と死の支配から解放されるというものだったにもかかわらず。神の計画を自民族中心に理解してしまったのは、神の言葉が語られたり書き留められたりするのが、いつもユダヤ民族の具体的な歴史の流れの中で起きたので、やむを得なかったかもしれません。それだからこそ、最後には神のひとり子自らが神の計画を正しく教えなければならなかったのでした。しかもそのひとり子は正しく教えるだけでなく、計画自体を実行したのです。自分を犠牲にしてまで実行したのです。

「山上の説教」でイエス様は、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、殺人を犯していなくても兄弟を憎んだり罵ったりしたら同罪であると教えました(マタイ52122節)。また第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目でみたら同罪である(同2728節)と教えました。このように十戒の掟について、外見上守っているだけでは守っていることにならない、言葉や心の中でも守っていなければならないと教えるのです。そこまで言われたら、人間はもう誰も神の前で潔白ですとは言えません。どうしてそこまでしなければならないのでしょうか?本当に天の父なるみ神はそこまで要求しているのでしょうか?そのことを見てみましょう。

本日の旧約の日課は申命記11章の箇所でした。イスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出して、40年に及ぶシナイ半島の荒野での放浪を終えて、もうすぐ約束の地カナンに向かおうとする時に神の言葉がモーセを通して伝えられました。本日の箇所で神は次のように命じます。「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け」なさい(1118節)。「わたしの言葉」というのは、十戒を頂点とする数多くの掟を指します。それらを心に留め、魂に刻み、しるしとして手に結び、覚えとして額に付けなさい、と。この神の命令は、二つの部分に分けられます。一つは、神の掟を心と魂に留め刻めよ、という内面的な留め刻みです。もう一つは、神の掟を手に結んだり額に付けるという外面的な留め刻みです。

神の掟をしるしとして手に結んだり、覚えとして額に付ける、というのはどういうことでしょうか?この部分のヘブライ語の原文を忠実に訳すと次のようになります。「それら(神の掟)をしるしとして手に結び、それらが額と腕のしるしとなって彼ら(同胞)の目に留まるようにせよ」。今もあるユダヤ教の慣習の一つに、旧約聖書の聖句を羊皮紙に書き記してそれを二つの革製の小箱に入れて、それを額と腕に結びつけて祈りを捧げるというものがあります。その小箱は英語でフィラクテリーと呼ばれます。ちょっと日本のお寺や神社で売っている御守りの感覚に通じるものがあると思います。この申命記1118節が元になって(他にも出エジプト記139節、16節、申命記68節)、そういう小箱に入れた聖句を額や腕に結びつけるということが出て来たと考えられます。

この箇所で注意したいことは、そういうことをするのが同胞たちの目に留まるようにするため、ということです。この「目に留まるようにする」というのが、私たちの新共同訳聖書では省略されてしまっています。(英語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書も同じです。たった、二語 בין עיניכם[והיו לטוטפת]のことなのに!)実はモーセの時代から1300年後にイエス様がこのことを議論に取り上げたのです。イエス様は当時の宗教エリートたちを批判する時に、彼らが聖句の小箱を額などにつけているのは、人に見てもらうためにしているにすぎない、と言って、神の掟が心に根づいていないこと、見かけ上は守っているように見せかけているにすぎないことを批判しました(マタイ235節)。申命記1118節は、神の掟が心と魂に刻まれていることと外見上のしるしが一緒でなければならないことを命じていたのでした。心と魂に刻まれていなければ、外見上のしるしは意味がないのです。

それでは、神の掟を心と魂に刻むとはどういうことなのでしょうか?それはどのようにして出来るのでしょうか?神は、申命記の本日の箇所の終りのところで、もし民が神の掟を守れば祝福を受けるが、守らずに他の神々に従うならば呪いを受けることになると戒めます(28節)。カナンの地に入った後のユダヤ民族の歴史は、旧約聖書を繙けばわかるように、祝福と呪いの繰り返しの歴史です。ダビデの王国が南北に分裂した後は呪いの方が主流になって、紀元前700年代後半に北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、残った南のユダ王国も紀元前500年代前半にバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。民の主だった人々はバビロンに連行されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる歴史上の出来事です。イスラエルの民は、神の掟を読んだり聞いたりはしても、また額や腕に結ぶことはあっても、心や魂に刻むことはしなかったのです。

そこで神はこのような運命を辿った民にどう振る舞ったでしょうか?あれほど警告しておいたのに、しょうもない奴らだ、自業自得だ、思い知るがよい、と冷たく突き放してしまったでしょうか?そうではありませんでした。しょうもない奴らだということはよくわかった、だから、しょうもない奴らでなくなるように、こちらから何かしてやろう、と言って、何かをして下さったのです。しかも、その何かとは、一つの民族に対してではなく、全ての民族に対するものだったのです。神は何をして下さったのでしょうか?

エレミア書31章を見ると、神の民の復興についての預言があります。エレミアはユダ王国が滅亡する直前の混乱期に活躍した悲劇の預言者です。神はエレミアに半世紀後に起こる祖国帰還とその後に続く民の復興について告げ知らせます。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」この後に大事な約束が来ます。しょうもない奴らを神の力で変えてやろう、という方針が示されます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミア313134節)。

イスラエルの民は神の掟を心に刻みつけなさいと言われたにもかかわらず出来ませんでした。そこで今度は神自らが人間の心に刻みつけると言われるのです。神の掟が心に刻みつけられたら、もう神を当たり前のように知るようになる。神を当たり前のように知ると、神の意思も当たり前のように知ることになります。それが、神の掟を心に刻みつけるということです。神はどのようにして掟を人の心に刻みつけたのでしょうか?

バビロン捕囚から帰還してエルサレムの町と神殿を再建した人たちは自分たちのことをそのような者と考えました。ところが、実際は神の掟が心に刻みつけられた状態からは程遠かったのです。現実の歴史を見てもユダヤ民族は、ほんの一時期を除いてずっと他民族支配が続き、現行のシステムは神を正しく崇拝するものではないという疑いの声が多く挙がっていました。まさにその時にイエス様が登場したのです。十字架と復活の出来事が起きるとすぐ、あの方こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主で、人間を罪と死の支配から解放して下さったのだということがわかりました。神が御自分のひとり子を犠牲に供してまで人間の救いを整えて下さった、どうしてこの救いを受け取らないでいられようか?そして、救いを受け取った者の内に、これほどの愛と恵みを示して下さった神の意思に沿うように生きようという心が生まれました。まさに、神の掟が人間の心に刻みつけられるということが、イエス様を救い主と信じて神の目に相応しい者とされて起こったのです。

4.

神がイエス様を用いて完成した罪の赦しの救いを受け取った人は、このようにして神の掟が心や魂に刻みつけられます。そうなると、今度はその人は罪に対して敏感になり、罪の意識を持ち続けることになります。神から罪の赦しを得られて罪の汚れが洗い落とされたと言っているのに、罪の意識を持ち続けるとはちょっとへんに聞こえるかもしれません。しかし、ルターも教えるように、キリスト信仰者にとってこの世の人生というのは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と以前からある肉に結びついた「古い人」の内的な戦いです。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いです。最終的に復活の日にキリスト信仰者は古い人を全部捨て去って、完全なキリスト信仰者になると教えています。

戦いとは言っても、一度、罪の赦しを受け取ってその中で生き始めていれば、勝利は約束されています。もちろん、苦戦を強いられるときが何度も来ます。注意していれば外面的な行為の罪を犯すことはないとは思いますが、もちろんキリスト信仰者も弱さを持つので、隙を突かれることがあります。また外面的な行為には現れなくとも、言葉や思いで罪に染まることはもっとあります。しかし、その度に、神の方に向き直って赦しを祈り願えば、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、そこに罪の赦しがしっかりと打ちたてられたままであることを見せて下さいます。そして、次のようにおっしゃって下さいます。「わかった、わたしのひとり子イエスの身代わりの犠牲に免じてお前の罪を赦そう。これからは罪を犯さないように。」そのようにしてキリスト信仰者は新しく出発し、やり直しするのです。

古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てるというのは、こういうことを繰り返して行います。この世を去る段階でどこまで到達できたかは、これは神に判定してもらうしかありません。人間がすることではありません。仮に、あの人の新しい人の到達度は80%、私は40%という結果だったとしても、神にとって重要なのは、その人が罪の赦しのサイクルの中にしっかり留まっていたかどうかということです。留まっていたと神が認めたら、80%の人も40%の人も、復活の日に100%にしてもらえるのです。まさにそれが、嵐のような死が襲ってきても、家が大丈夫ということです。罪の赦しの救いを受け取って、その中で生きることが、家を岩の上に建てることになります。

 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは罪の赦しの救いを受け取ったので、神の掟が心に刻みつけられています。神の意思に沿うようにしようと思っても、なかなかそうならない自分に気づかされる日々かもしれません。しかし、罪の赦しの中にいることは打ち立てられてしまったので、もう神の意思に沿うように向かうしかないのです。罪の赦しの救いを受け取っていることを思い起こすならば、私たちは、神の意思に沿うようにと後ろから強い力で押されていることに気づくでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。         アーメン


(次回更新は8月になります。)