2015年11月23日月曜日

神の裁きにも耐えうる潔白な良心 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年11月22日 聖霊降臨後最終主日
スオミ教会

ダニエル書7章9-10節
ヘブライの信徒への手紙13章20-21節
マルコによる福音書13章24-31節

説教題 「神の裁きにも耐えうる潔白な良心」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人となってこの世に来たクリスマスの出来事に向けられます。2000年以上前の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様に思いを馳せます。

さて、待降節は次主日にゆずるとして、教会の一年の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わりを告げる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る時に起きることです。私たちが礼拝の中で唱える信仰告白の使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判です。その時はまた、今ある天と地さえもが崩れ去って全く新しい天と地が創造されるという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、創造主である神の御心に適うとされた者が復活の体を着せられて、永遠の神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時生きている人と一緒に審判を受けるのであります。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」ということであります。

その裁きの日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、これは天の父なるみ神以外には誰にも知らされていません(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(3337節)。

このように教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会ではこの日、最後の審判に今一度心を向けて、いま自分は永遠の命に至る道をしっかり歩んでいるかどうか、自分の信仰生活を振り返る意味があります。もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日です。この課題は、ことの性質上とても重々しく恐ろしいことですらあります。そのため、自省することを避けてさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人の方が多いのかもしれません。しかし、忘れてはならないことは、最後の審判は恐ろしいことではありますが、イエス・キリストの福音というものは、裁きの恐れを乗り越える勇気と力を与えてくれるということです。そのような勇気と力が与えられた時の喜びと安心はひとしおです。まさに福音の力がわかるためにこそ、最後の審判に目を向けるべきだと思います。そういうわけで本説教では、最後の審判の恐れを乗り越えられる福音の力を明らかにすることを目標にしたく思います。

その前にひとつ脇道になるかもしれませんが、今次パリで起きた痛ましいテロ事件の中で「裁き」とか「復活の希望」について少し考えさせることがあったので先にそれについて触れておきたく思います。それは、この事件で愛する妻を失った夫がテロリストに対してフェイスブックに書き送った文章です。アントワーヌ・レリスという方の「君たちが私の憎悪を得ることはない」という題の文章で、投稿されてすぐ20万人もの人に読まれて感動を与えたということです。新聞にも報道されたのでご存知のかたもいらっしゃると思います。

文章の要旨は大体以下のことです。テロリストの目的は、テロを被った人たちが絶望に陥って生きる希望を失うか、または深い憎悪に陥って復讐を生きる目的にしてしまうことにある。しかし、自分はそのような憎悪に陥るつもりはないし、残された息子とこれまでと同じようにこれからも生きて行くので希望も失っていない。そういうわけで、テロリストの目的は失敗したのだ。もちろん、深い悲しみに突き落とされたという点ではテロリストの勝利は認めるが、それも実はちっぽけな勝利で長続きしないのだ。

このように悲しみのどん底にあっても絶望に終わらず憎悪の連鎖にも陥らない。もし、そうなったらテロリストの思うつぼですが、そうならないで憎悪から全く自由な愛と希望を持ち続けられるというのは、一体どうして可能なのでしょうか?私の推測ですが、この悲劇がきっかけとなってレリス氏の心に「復活の再会の希望」というキリスト信仰で最も大事なことが輝き出したからではないかと思います。氏がどのような信仰の持ち主かは知りようがありませんが、文章の中に次のような「復活の再会の希望」をうかがわせる下りがあります。「妻はいつも私たちとともにあり、私たちは自由な魂たちのパラダイスで再びあいまみえるのだ。君たちが入れることのないパラダイスで」というところです。人生を今あるこの世の人生と次の新しい世の人生の二つを合わせたものと見なすことができれば、テロリストの勝利は実に「ちっぽけで」「長続き」しないものになるのです。

ここで、テロリストがパラダイス楽園すなわち天国に入れないと言われていることについて、ここには言うまでもなく、神の裁きがあります。そうすると、憎悪から自由な愛などと言っても、やっぱり復讐心があるのではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここで使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」12章で教えていることを思い起こせば、なんの矛盾もありません。

パウロはそこで、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ、と教えます(19節)。さらに、キリスト信仰者は全ての人に対して少なくとも自分の方からは平和な関係を結びなさい(18節)、つまり、自分の方からは悪や憎悪を振りかざしてはいけないということです。ただ悪を成す者に遭遇した場合は、もしその者が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませよ、そのような態度で臨みなさい、そうすることで敵の頭に燃える炭火を積み重ねることになる、と教えました(20節)。ここに憎悪と絶望の連鎖から自由になれる知恵があります。それは、神が最後の審判を司る方であるとわかっているから受け入れられるのであり、また復活の再会が待っているという希望があるから受け入れられる知恵なのです。もちろん、犯された犯罪は法律に従って処罰されなければならないということは、パウロもうち立てられた権威には従うべきと言っている以上(ローマ13章)、しなければなりません。しかし、犯罪者の処罰刑罰は憎悪と復讐心とは別物でなければならないということなのです。

 少し脇道によりましたが、ここで本筋に戻ります。神の裁きは恐ろしいものではあるが、イエス・キリストの福音にはその恐れを乗り越えられる力があることを、本日の福音書の箇所をもとに見ていきます。

2.

 本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。マルコ13章はキリストの黙示録とも呼ばれます。預言の内容はとても複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きる出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが複雑に入り交ざっているからです。それらを解きほぐすように読まなければなりません。13章のはじめでイエス様が、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(12節)。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった4人の弟子が、いつそれが起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。ところが預言は語られるうちに、神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

マルコ13章のイエス様の黙示録についての詳しい分析は別の機会に譲り、ここでは概要だけにします。エルサレムの神殿の破壊の前兆として、偽キリスト、戦争、地震、迫害が起きると預言されます。西暦70年に起きた神殿破壊の前にはこれらのことは起こりました。14節で「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」と言われます。「憎むべき破壊者」とはダニエル書の11章や12章の預言に出てくるものですが、ここでは詳しいことは抜きにして、そんなことが
西暦70年の前に起こったかどうか。一つの可能性はイエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラが神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちの必死の努力で撤回されたという事件がありました。これがもとでローマ帝国とユダヤ人の間の対立が深まって、ついには西暦70年のエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったことがあります。

 ところが、マルコ319節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こると述べられるあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。このあたりの預言は、もう過去に実現したことではなく、私たちから見てまだ将来起こることです。そうすると、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」というのも、エルサレム神殿の破壊の前兆だけではなく、我々から見て将来そのように描写できる何かが起きることも意味します。今はそれが何かは具体的にはわかりません。そうなると、「憎むべき破壊者」の前にある偽キリスト、戦争、地震、迫害というのも、過去に起きたものだけでなく、将来起きるものも入ってきます。

さて、天地創造以来一度もなかったと言えるくらいの大災難がきた後で今度は、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きます。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(2425節)」。まさにその時にイエス様の再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に迎え入れられるのであります。

太陽をはじめとする天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言と軌を一にしています。イザヤ書6517節や6622節では、神が今の天と地にかわって新しい天と地を創造されることが預言されています。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」122628節に述べられています。

以上を要約しますと、エルサレムの神殿の破壊は歴史上実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありました。もちろん現代においても世界の地域によっては迫害は起こっています。そのようなことが多く起きたり重なって起きたりする時はいつも、いよいよこの世の終わりか、イエス様の再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様の預言の終わりの部分が起きるのは、まだ先のことなのです。こうしたことは本当に起こるのでしょうか?1900年以上たったので、もう時効と言えるでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。以前にも申し上げたことですが、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして燃え尽きると言われています。膨張などしたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。もちろん太陽がちょっとでも異変を始めた段階で地球は重大な影響を被るでしょうから、それは50億年よりもっと前に起こるでしょう。いずれにしても、旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。さらに太陽の異変を待たなくても、大きな隕石とか彗星などが地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となるでしょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、冷戦が終わって20年以上たちましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのです。

 以上、イエス様の預言の前半部分にある戦争とか地震とか迫害は既に起きたものもあるし、残念ながら今も起きています。こうした災難がこれからも起き続けるかどうかについて、地震のような天災は仕方ないにしても、人為的なものはこれまでの歴史や人間性を考えると、なかなかなくならないのではないかと思われてしまいます。何が理想の状態か、とか、それを目指す力と妨げる力がこれからもせめぎ合っていくのでしょう。しかしながら、起こる災難がこうしたものだけではまだこの世の終わりとは言えないのです。イエス様の預言の後半部分にある大災難と天地の大変動が起きるようになって、イエス様がいよいよ再臨するというのであります。そして、その時生きている人も、その時既に死んでいたがその時起こされる人たちと一緒に裁きを受けることになる。その時裁きを司るのが、再臨の主イエス様なのです。

3.

 人間は皆神の裁きを受けるのであれば、それに対してキリスト信仰者はどんな心構えでいなければならないかについてルターが教えていますので、それをここでみてみます。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ213436節)。」

 これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、そうしたことがあなた方の心を支配してしまって、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならないのだ。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくないことである。我々は人生の片方、つまり左手ではこの世の人生を生きるべきである。反対に右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて誰にも表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。ただただこの世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように思っていることだろう。キリスト信仰者たちよ、あなたたちがもしキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はないのだ。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間なのである。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出される時、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実なものとして明るみに出されるからだ。」

 「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、ということです。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。殺人や姦淫を犯していたりすれば、ちゃんと神の前で赦しを乞うて悔い改めていたかどうかが問われます。しかしながら、行為に出さなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけでも、神の目に適う者になれないとイエス様は教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、一体誰が神の前で、自分は清いです、などと言えるでしょうか?

 神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に罪をもつようになったので、そうはなれないのです。そこで神は人間が神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられることで、全ての人間にかわって人間の罪の償いをして、人間を罪と死の支配から贖い出したのです。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価として人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。それくらい私たちの命は価値あるものとみて下さったのです。

このあとは人間が、イエス様の十字架と復活というものは、まさに罪を持つ自分がその呪いから解放されるためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神からの罪の赦しがその通りに起きるのです。神から罪の赦しを受けるというのはどういうことかと言うと、神があなたのことをさも罪はないかのように、もう神の目に適う清い者として扱って下さるということです。これで裁きは大丈夫なのです!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにとイエス様は自らの命を投げ捨ててまで私たちの罪を請け負って下さった。それで私たちが「天の父なるみ神よ、イエス様こそ私の救い主です。だから私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、私のひとり子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは赦された者として相応しい生き方をしなさい」と言って下さるのです。

私たちは神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け入れるだけで神の目に適う者にされたのです!それで裁きの前に立っても「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。私は罪の支配下から贖われた者です。イエス様以外に主はいません」と告白すれば大丈夫なのです。実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限りは私たちの良心は神の前で潔癖でいられるのです。何も恐れる必要はないのです。イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主である、それでこの恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきた、ということは何者も否定できない真実なので、やましいところは何もありません。まさに潔癖な良心です。

そこで問題になるのは、神の手によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、実際には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまう。罪が内に留まる以上は、行為に出さなくても心の中に現れてきてしまう。その場合はどうしたらよいのか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを乞います。これが神への立ち返りです。神は約束されたようにイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうしてまた神の示される道を踏み外すことなく歩み続けることが出来ます。こうしたことは死ぬまで何度何度も繰り返されます。なんだかめんどうくさくなって疲れてしまいそうですが、神への立ち返りが一人で行うことが大変に感じられれば、礼拝で信仰を同じくする兄弟姉妹たちと共に行うことができます。聖餐式では、パンとぶどう酒の形ですが、罪の赦しの恵みを霊的な栄養として摂取することができます。だから教会に繋がっている限りは疲れることなどありません。こうすることでキリスト信仰者の良心はあらゆるゆさぶりに耐えて潔白さを保ち、何の恐れも不安もなく最後の審判に臨むことができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちをこの滅びゆく天と地を超えて運んで行ってくれるものは、イエス・キリストの福音以外にはありえません。それですので、私たちの命はこの福音にしっかり守られていることをかた時も忘れないようにしましょう。そして、福音を聞いて潔白な良心を持てる人が一人でも増えるように祈り働いてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン