2014年4月14日月曜日

主は、十字架の死に至るまで、父なるみ神の御旨に従われた (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年4月13日 枝の主日/受難主日

ゼカリア9章9-10節
フィリピ2章6-11節
マタイ21章1-11節/26章1節-27章66節

説教題 「主は、十字架の死に至るまで、父なるみ神の御旨に従われた」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

今年の四旬節も、もう枝の主日となりました。復活祭の前の主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムに入城する際に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」(ホーサンナωσαννα)という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとヘブライ語のホシアンナ(ホーシーアハ ナーהןשיעה נא)という言葉のアラム語訳(ホーサーア ナーהישע נא)です。神に対して「救って下さい」と救いをお願いする意味があります。さらに、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉としても使われていました。従って、群衆は、ろばに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。この奇妙とも言える光景、出来事は一体何なのでしょうか?

 ルカ福音書にある同じ出来事の記述を見ると、イエス様は、まだ誰もまたがっていないろばを持ってくるように命じました(ルカ1931節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。つまり、神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書の預言の成就を意味しました。その9910節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 さらに、ゼカリア書14章やイザヤ書2章をみると、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになって、聖なる都に上ってくるという預言があります。こうした預言を見ると、将来、偉大な王が到来して、その下でユダヤ民族の国家が復興し、支配者民族を打ち破って勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。そのような理解を持っていた人たちは、ろばにまたがってエルサレムに入城するイエス様を目にして、いよいよダビデの王国の復興の日が来た、との思いを強くしたでしょう。しかしながら、この理解はまだ、壮大な旧約聖書の預言のあまりにも一面的すぎる理解でした。イエス様を通して預言が実現していく時、それは、ユダヤ民族という特定の民族を超えた、人類全ての民族にかかわる神の意思が実現したということだったのです。

どういうことかと言うと、大まかには次のようなことです。人間はもともと神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。ところが、それにもかかわらず人間は、神に対して不従順となって内部に罪が入り込んでしまった。これが堕罪の出来事です。その結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまった。しかし、神は、人間との結びつきを回復させようと考えた。回復できれば、人間はこの世で神から絶えず良い導きと助けを得られるようになるのだ。また、この世から死んだ後は永遠に自分のところに戻れるようになるのだ、と。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の呪縛を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下しつくす。そして人間は、この身代わりの犠牲を信じる時、文字通りこの身代わりの犠牲に免じて罪を赦された者となる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は編み出したのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?神の考えは大体、次のようなものでした。一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、自分のひとり子しか適役はいないことになる。ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行してもらわなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録もなくなってしまい、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからだ。さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということである。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じるであろう。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのだ。彼にやってもらおう。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験がありますから、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったために、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

歴史の流れというのは、無数の人間同士の無数の関わり合いやぶつかり合いから生まれて進んでいきます。一見すると、そこには、神が全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切って方向付けているようには見えません。全ては、愚かで限りある人間のなせる業の集積に見えます。しかし、神の救いの解決策をみると、一方では、いろんな行為主体が自分の立場や観点に立って自由に行動したり発言したりするのに任せています。しかし、他方では、そうした行為主体の行動や発言があるおかげで、神の救いの解決策がイエス様の十字架という形をとって実現するのです。神の救いの解決策については何も知らない行為主体たちは、自分たちはただ自分の立場や観点に立って自由に行動し発言していると思っている。しかし、全てのことは実は、神の救いの解決策が実現していく舞台設定のようになっていくのです。そうなると、やはり神は全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切っているとしか言いようがありません。神の計り知れない御計らいの前で、人間の自由とはなんとちっぽけなものか。神の計り知れない知恵の前で、人間の知恵はなんと取るにならないものか。

2.

本日は「枝の主日」ということで、マタイ21章のイエス様のエルサレム入城の出来事が主題に定められていますが、ルーテル教会では、この他に「受難主日」という主題も与えております。その福音書の箇所はマタイ26章と27章の2章全部です。これは、最後の晩餐から十字架に至るイエス様の受難の出来事を全て含んでおります。本説教の後半は、この長い箇所を区切りながら、イエス様が十字架につけられるゴルゴタの丘に到着するまでの2733節までを朗読したく思います。

十字架に架けられた出来事については、聖金曜日礼拝の主題に委ねたく思います。以下の朗読にあたりまして、次の点に御留意下さい。それは、父なるみ神が人間救済計画を実行しようとした時、御子イエス様はそれに全く従順に従ったということです。それは、イエス様自身、神の計画を実現することが人間のためになるとわかっていたからでした。彼も、それくらい私たちのことを思っていたのです。

   イエス様の受難の前触れ的な出来事(26章1章~16節)
一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注ぎます。女性がこれを行ったのは、イエス様がもうすぐ死んで葬られるので、その準備をするという意思表示でした。この女性の行ったことは大きな意味があります。それは、この時まだ弟子たちを含め誰も、イエス様が受難を受けて無残にも死刑に処せられるなどとは信じていませんでした。彼らにとってイエス様はすぐ実現する神の国の王でなければならなかったからです。しかし、この時既に、この女性のようにイエス様の受難と死を文字通り信じた人がいたのです。イエス様は、将来福音が宣べ伝えらえる時、この出来事も忘れられてはならないと言われました。

   最後の晩餐(26章17~35節)
ユダヤ教社会の大事な祭日である過越祭の食事が、イエス様の命令により私たちの聖餐式の出発点となりました。私たちが飲むぶどう酒は、私たちの罪の赦しが実現するために主が流された血なのであります。その血を摂取することで、私たちは洗礼の時に受け取った罪の赦しを一層確かなものにすることができ、絶えず神との結びつきの中で生きていくことができるのです。この血は、文字通り神と私たちの契約の血なのです。

   ゲツセマネでの祈り(26章36~46節)
神のひとり子として神と同等の方であるイエス様は、この世では人間の体と心を持ち人間の痛みと苦しみがわかるゆえに、これから行おうとする全ての人間の罪の請け負いがどれだけの痛みと苦しみをもたらすかをご存知でした。できることならその杯は飲みたくない。しかし、それでは神の人間救済計画は実現できなくなってしまう。そこで最後にこう祈ります。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」イエス様は、真に十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのであります。それ位、私たちのことを愛して下さったのであります。

   逮捕と最高法院での裁判(26章47~75節)
逮捕に来た者たちに剣で反撃しようとした弟子を戒めた時、イエス様は言います。もしこの出来事が神の人間救済計画の実現と何の関係もないものならば、神に天使の軍勢を送ってもらうことができる。しかし、それをやってしまえば、神の計画は実現しなくなってしまう。神に救援を要請する可能性はあるのに、あえてそれを使わない。それ位、イエス様は、私たちのことを愛して下さり、十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのです。

・総督ピラトの尋問と十字架刑の決定(27章1~33節)
ローマ帝国支配下のユダヤ教社会では、刑法上の処罰権は総督が握っていました。だからイエス様を死刑にするには総督に引き渡して、罪状を訴えるしかなかったのです。不利な証言を並べ立てられてもイエス様は反論をしません。仮に反論をして、宗教指導者の証言を覆すことができても、それが何の意味があるでしょうか?イエス様は十字架刑に処せられることに決まりました。当時最も残酷でこれ以上の屈辱はないという位の刑罰でした。何しろ、苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間に渡って公衆の面前に晒すのですから。神のひとり子が強盗や山賊同様の刑罰を受けてしまうのです。加えて、死刑の決定後、ローマ帝国軍の兵隊たちの侮辱と暴行が始りました。傷ついた体で処刑地ゴルガタへの道のりは既に体力の限界を超えるものだったでしょう。ヨハネ福音書では、十字架を背負って歩かされたとあります(1917節)。キレネ人のシモンが背負ったというのは、恐らくイエス様が一人で担ぎきれなくなって手伝わされたものと考えられます。イエス様とシモンと護送の兵隊たちの後を民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れをなしてついて行きます(ルカ2327節)。兵隊たちの罵声と嘲笑、かつて付き従った人たちの嘆き悲しみの声を聞きながら、イエス様はゴルガタに到着したのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン